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「アメリカ的リベラルの独善性」には「合気道的」に立ち向かうべしという話。

世間では「森元首相の女性蔑視発言によるオリパラ協会会長辞任問題」が広く問題になっていますが、彼の辞任に賛成の人でも反対の人でもよく言っているように、

単にご老人が一人特定の職を辞任したってだけで全部終わり

というわけにはいかない・・・ってところがあるわけですよね。

これを機会に、日本社会の色んな場所で変わっていくべきところは変わっていくことが必要なわけですけど、どうすればそういう改革が進むのか?について考えてみたいと思っています。

「はじめまして」の方に自己紹介をすると、私は外資系コンサル会社からキャリアをはじめて、でもそういう「グローバルな手法」だけが完全な正解ってことにしていくと社会が果てしなく分断されていくな・・・と感じ(実際20年後にトランプvs反トランプ的な大問題になったわけですが)、「そういう手法」と「日本社会」とのギャップを埋める独自の方策が必要だ・・・と思ってブラック企業でわざわざ働いたりカルト宗教団体に潜入したりなどして「日本社会のアレコレのリアル」を知る体験をしたあと、中小企業のコンサルティングをしている人間です。(より詳細な自己紹介は公式サイトをどうぞ)

要するにこういう「意識高い系の考え方」と「ローカル社会」との調和的関係を生み出すにはどうしたらいいか・・・について延々考えたり色々と模索してきたりした人間なので、そういう立場から今回の問題をどう考えればいいのか?について書きます。

ちなみにいちおう有料記事の体裁になっていますが、有料部分はほぼ「別記事」のようになっており、無料部分だけで十分一つの記事として成立するようにしているので、無料部分だけでも読んでいっていただければと思います!

1●森元首相がオリパラ会長辞任まで至ったのは、「保守派や普通の人」にも辞任賛同者が増えたから

森元首相の「女性蔑視発言」について、色々とすったもんだがあったあげく彼のオリパラ協会会長辞任が決まり、後任人事については迷走中・・・というニュースがSNSを駆け巡っていますよね。

個人的にはかなり初期から、「今回はおそらく辞任まで行くんじゃないか」みたいな感覚がありました。

というのは、私は経営コンサル業のかたわら色んな「個人」と文通しながら人生について考えるという仕事もしていて、(あまり政治的な話をすることは多くないけどあえて党派的に言えば)”右”の人も”左”の人もクライアントにいるんですけど。

そのクライアントの中でも、僕自身と比べてもかなり「保守派」の女性ですら、この問題については「もうほんとイライラします」って言っていたんで、これはちょっと擁護しきれない空気になるだろうな、という感じがしていたんですよね。

辞任報道が出る前日には、トヨタ会長の豊田章男氏が「アレは良くない」って会見で言った・・・みたいな話がトップニュースになっていましたけど、「トヨタの会長ですらそう言うなら」的な空気の変化はあったように思います。

これは「トヨタが会社として大きいから影響力がある」みたいな話ではない(それもあるけど)んですよね。そうじゃなくて、例えば新興ITベンチャーの社長が「日本社会って遅れてるよね」みたいなことを言っていてもそりゃアンタはそういう事を言うタイプですよねって話なんですが、トヨタ的に「日本社会の最も保守派の良識を司っていると思われているタイプの会社」の代表が「良くない」と言った・・・ことが大きいという話なんですよ。

たとえば日立出身の今の経団連のボス(中西宏明氏)も、「日本社会の閉鎖性には常々批判的」なタイプの人なんで、彼が言うのと、豊田章男氏が言うのとでもまた受け取られ方が違ったところがあると思う。

要するに何が言いたいかというと、今回辞任にまで至ったのは、「左の人」だけじゃなくて「保守派の多くの人まで至る広い範囲の合意」が得られたことが大きいのだ・・・という話がしたいわけですよ。

これが、「保守派に属する人たち」の半分も巻き込むことができずに、一斉に「敵」側にまわるようなことになっていたら、いくら「左」の人が徹底的に大騒ぎをしたって日本社会は変わっていけないわけなんですよね。

「ダメなものはダメと言うことの大事さ」は勿論あるものの、「対立相手の中でも話が通じる層」をいかに巻き込めるか・・・を考えることも、ただSNSで騒いで個人的な溜飲を下げるのに終わらず本当に日本社会を変えていきたいなら大事なはずなんですよね。

そこで強引に「ダメなものはダメなんです」だけで押し切ってしまうと、結局今欧米(特にアメリカ)で起きているみたいに「社会の半分が徹底的にポリコレ(政治的正しさ)的なものを敵視している社会」みたいになっちゃって、そしたら余計に「反ポリコレ的なことをやってやる!」層だって社会の中に爆誕しちゃうわけで。

そしたら、「都会の狭い特権階級のサークルの中で物凄く厳密なマナーが適用される反面、社会の大部分はどんどん逆行したようなことをやる人たちが出てくる」わけじゃないですか。

要するに何が言いたいかというと、日本社会が前向きに変わっていくには、「アメリカで起きた失敗を繰り返さない算段」を考える必要があるってことなんですよね。

2●「リベラル側」も「不都合な真実」に向き合う必要がある

要するに、いわゆる「アメリカ的なリベラルのあり方」の人は、例えばトランプ主義者に対して、「フェイクニュースを信じてないで事実(ファクト)に向き合え」みたいなことをよく言うんですけど・・・

しかしね、逆に言えば社会の半分(少なく見積もってもトランプに票を入れた7000万人)はそういうのを徹底的に敵視し続けていて、議会に暴力的に乱入する人が出てくるほどの事態になっているという・・・

この厳然たる事実(ファクト)

にちゃんと向き合えよ・・・っていう話があるわけですよね。民主主義制度を本当に続けたいなら、「社会の半分の人の素直な気持ちを無視し続ける制度」なんて維持できるはずがないですからね。

そりゃ自分たちの内輪の理屈ではその「敵」に正統性は全然ないとしても、それとは全然違う世界観と意見を持っている人たちが莫大な数いて、彼らの活動によって民主主義制度自体が危機的な状況に陥っているという

「事実」

これ↑自体はフェイクニュースでもなんでもないわけですからね。

自分とは違う世界観を持って生きているグループがこれほどの数いるんだ・・・という事実と向き合うことは、「自分たちの世界観自体にどこかもっと改善できる点があるのではないか?」という自問自答に本来つながるべき事なはず・・・ですよね?

しかし、ここで全部「自分たちこそ絶対善・あいつらは絶対悪」みたいにどんどん先鋭化していく独善性が、特に「アメリカのリベラル派(とその影響下にある世界中の党派的な人々)」の中には消し難くあって、それが余計に「トランプ派」を勢いづかせるし、そういう混乱が中国政府に「ほら民主主義なんて終わった制度だろ」的な居直りをしてみせる余地を与えてしまっている。

ただ、「アメリカはアメリカでそうやるしかない」みたいなところはあるんだと思うんですよね。とにかく非妥協的に自分の信念を果てしなく追及してもいいというのが「アメリカのルール」なんで、個人レベルでは多少なりとも相手側との対話可能性を持っていても、そういうのは次々と過激化する「内輪の論理」の拡声器の中でかき消されてしまう。

で、そういう風に「非妥協的」に騒ぎまくることが、世界中にある程度「あたらしい良識」を布教する上でポジティブな効果がないわけではない・・・というのも一応は言えなくもないことだと思います。

だからこそ「役割分担」が大事だというか、私が7年前ぐらいに出した本で使った図なんですが・・・

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この図のように↑「果てしなく非妥協化するアメリカのリベラル派の教条主義」に対しては、ちゃんと「合気道的」というか、それがローカル社会の安定性とシナジーできるように慎重に扱っていくことが大事だというか。

そういう風に対応してくれる国があることは、「アメリカ型リベラル派の教条主義者」があまりに高圧的な態度を取りまくることで、「ローカル社会」からそっぽを向かれて余計に排他的な運動が巻き起こったりするよりはよっぽどいいはずなので、結局「リベラルな理想」を信じる世界中の人にとっても意味があることなはずですよね。

今回のアメリカの選挙での混乱において、「バイデンとトランプのどっちが勝ったというよりアメリカが負けた」っていう言い方をしている人がいましたが、それと同じ感じで・・・

端的に言えば、「あまりに高圧的な態度で日本がダメダメ言いまくる人」と「うっせーここは日本だ!」とか「ウィグルのことは言わないくせに!」とか言う人達との

「非妥協的な押し合いへし合いになった時点で”民主主義は敗北”している」

わけですよ。

今回の森氏辞任問題みたいに、「保守派の中でもマイルドな層」とか「普通の日本人」まで巻き込んで「同意」が取れれば簡単に変わっていくはずのことなんですよね。

そしてそういう「合意」を遠回りなようでも取っていけば、「トランプvs反トランプ」的な社会の分断を起こさずに段階的に移行していく道だって生まれる。

「アメリカのリベラルの教条主義を柔らかく受け止めて、社会の中で分断を起こさないように対立者も巻き込みながら変えていく」

これから日本に必要なのはこういう「合気道的態度」だと私は考えています。そうしていかないと、今回だって結局森氏が辞任しましたってだけで他は全然何も変わらないままで終わっちゃうことになりますよ。

3●「そんなのは世界じゃ通用しないぞ」とか言う時の「世界」ってどこよ?

最近、「世界街角インタビュー」的なユーチューブ動画を見ていたら、タイの大学で適当に捕まえた政治学か経済学専攻の大学生が流暢な英語で、

「アメリカのような民主主義制度がいいのか、中国のような権威主義体制がいいのか、それぞれメリット・デメリットがあるので、その国の気質や発展段階に応じて適切に選んでいくことが大事ですね」

みたいなことを、まるでスマホはiOSがいいかアンドロイドがいいか、みたいな気軽な口調で話しているのが衝撃的だったんですけど(笑)

要するに、「アメリカ的な方向の理想主義」っていうのは既に「”あえて”選んでもらう必要がある」時代になっているってことなんですよ。

前に、米ソ冷戦期に日本が繁栄できた理由と同じ構造を米中冷戦時代にも引き寄せることができるはずだ・・・という以下の記事で書きましたが・・・

第二次大戦が終わった直後の1945年頃っていうのは、もうアメリカは世界で圧倒的に隔絶した経済力を持っていたので、「アメリカの理想」を説得して回る必要なんて全然なかったわけですよね。世界中の人が勝手にアメリカ文化を「渇望」していたので。

そのパワーは時代を追うごとに衰退してきているわけですが、それでも米ソ冷戦が終わった直後の1990年代〜2000年代前半なんかはまだまだ「ソ連が終わったんだからもうアメリカの理想が世界を埋め尽くすだろう」的な「歴史の終わり」とか言う気分が世界中にあった。

しかしもう今や、米中冷戦が始まって、タイのそれほど「過激派」って感じでもなさそうな大学生が、「スマホはiOSかアンドロイドかどっちがいいか選ぶ」というレベルで「中国的な理想とアメリカ的な理想を併置して語る」時代になっているのだ・・・っていう自覚が必要な時代なんですよね。

ってこういうことを書くと「お前は中国の味方なのか?差し金なのか?」って思うかもしれないけど、そうじゃなくて、中国みたいな理想が世界中で採用されたりしないようにするには、アメリカ的な理想を高圧的に押し付けるだけじゃなくてちゃんと「採用していただけるように働きかける」ことが必要な時代になっているんだってことを言っているわけですよ。

ローカルな事情に全然頓着せずに「この野蛮人が!」みたいな高圧的な態度を取る人がやりがちな「世界じゃそんなのは通用しないぞ」という決めゼリフは、今や欧米社会の中でも反対者が溢れかえって困っているようなシロモノなので、要するに

「人類社会の上澄み数%だけの特権的意識」だけが「世界」だと思っているような差別意識が丸出し

なんですよ。

そういう人が思っている「世界」にさっき書いたタイの若い大学生みたいな存在は全然含まれていない。

だからこそ「アメリカのリベラルの教条主義」をちゃんと「ローカルな社会の事情」を丁寧にすりあわせていくこと・・・が今の時代にいかに必要なことか・・・がわかると思います。

これは、もし今のアメリカに「豪腕で世界中に言うことを聞かせるパワー」があるんだったら、別に「教条主義的」だっていいわけですよ。誰かが強引でも基準点を作ってくれた方が広い範囲の人が幸せになれることってあるからね。

でももうそんなパワーはないし、トランプを否定するってことは「そういうアメリカの特別性の旗をふるのはやめる」って決めたってことでもあるわけですよね。

そしたらその「偉そうで高圧的な態度」自体も見直さないと、余計に反発が渦巻いて、発展途上国で次々とクーデターが起きて軍事独裁政権に巻き戻されるみたいなことがしょっちゅう頻発しているわけで。

人類社会全体レベルで見れば、「アメリカ的なリベラルの教条主義」は特に末端地域で明らかに破綻しまくっているのだ・・・というのも、ちゃんと「不都合な真実」として向き合うべき課題なはずですよね。

4●「犯人探しをして糾弾する」のをやめて「具体的な話」をする。

で、じゃあどうしたらいいのか?っていう話なんですが、やはり重要なのは、「犯人探しをして糾弾する」よりも「具体的な話」をするようにできるだけ社会の中で気をつけていくことが大事だと思います。

たとえば、これ私がしょっちゅう例に出している話でもっと「常識」レベルになってほしいと思っていることなんですが、

私立医学部入試で女性が差別されていた問題とかで、それを「男がゲスだから」という話に持っていかないことが超重要

なんですよね。もう今、枕詞のように日本社会が女性を抑圧している事例みたいな扱いになっている話なんですけど。ちょっと一度考えてほしいことがあるんですよ。

以前、「はてな匿名ダイアリー」っていう匿名で記事が書けるプラットフォームで、

「女性医師も厳しい労働環境の診療科で頑張って働かないと、今後女性医師が増えたら医療崩壊してしまう。それはわかってるから頑張ろうと思ってたけど、私だって結婚したいし子供もほしい。だから申し訳ないけど私はラクな診療科に行って今の彼氏と結婚します」

的な趣旨の記事があって凄い印象的だったんですよね。

日本の医療って、例えばアメリカみたいに金持ちだけしかマトモな医療を受けられないとか、イギリスなどの欧州でありがちな「無料なのはいいがちょっとした診療を受けるのも何ヶ月待ち」みたいな事にもならず、「世界に冠たるレベルのクオリティをそこそこのお金で貧困層でも」受けられる体制を、必死に医療関係者の努力で維持しているじゃないですか。

上記リンクの匿名女医さんが言っているように、女性医師が増えると、「女医はきつい診療科に来たがらない、田舎にも行きたがらない」みたいな事情があって、現状の制度のままではこの「日本クオリティの医療体制」がユニバーサルに維持しづらいという「事情」があるわけですよね。

で!

ここで大事なのは、「だからオンナは我慢しろ」っていう方向に行かないことは当然大事なことなんですよ。

でも、ただ単に「医学部入試を傾斜配分していた人」を「悪者」にしたら解決する問題でもないってわかりますよね?

結局「日本の医療関係者が必死に土俵際で維持している国民皆保険的医療」が、アメリカやイギリスみたいな形に崩壊していけば、それで困るのは男だろうと女だろうとLGBTだろうと、経済的に弱者の人が困るわけじゃないですか。

だから、女性差別をしないことは当然のこととして、それと「日本レベルの医療クオリティを差別なく社会全体で共有できるようにすること」を両立するためのアレコレの具体的工夫を沢山積んでいく必要があるわけですよね。

そこで「日本の男がゲスだから」的な話だけで押し込んでいったら、

じゃあもういいよ、医学部入試も平等に女性でも試験の点数で選ぶようにしよう。それでだんだん田舎やキツイ診療科ではアメリカみたいに貧乏人はマトモな医療が受けられない国になっていったって仕方ないよね!

みたいな方向になっちゃうわけで、それを避けたいなら、結局「女のワガママを許すな」みたいな心情的対立にも発展していくわけですよね。

だからこそ、医学部入試の問題が一個あった時に、すぐに「日本の男がゲスだから」といって「糾弾」するんじゃなくて

「そうなっている事情」に敬意を払う

ことから始めないと、「具体的な細部の話」に踏み込んでいけないですよね。

これは、最近コロナ対策関係の記事で書いたように・・・

たとえば医療リソースのコロナへの振り向け問題にしても

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「ローカルの事情」への聞く耳が全然ない形で暴走的に糾弾しているだけだと、「現場」レベルではとにかく保守的な見積もりに引きこもらざるを得なくなるわけですよね。

そこで、ちゃんと、「なぜそんな入試差別があるのか?」を深堀りしていけば・・・

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ちゃんと「事情」を聞き取って具体的な対策を積み重ねていけば、「日本の男」が寄り集まって無理をすることで維持する・・・みたいなことでなくても「日本的なユニバーサル・クオリティの維持」ができるようになる可能性はある。

これをね、今年入試差別を受けた受験生の女の子本人にここまで考えろって話じゃないわけですよ。

でも、もう中年以上の社会経験も沢山ある大人のフェミニズム運動のリーダーなら、そういう「女の子の気持ち」をちゃんと引き受けるからこそ、単に「糾弾」で終わるんじゃなくて「具体的な細部の改革の話」をするように持っていかないと!

そうじゃないと、あんたらは最後までこの社会において、「全部お膳立てしてもらうお客さんでしかない」のか?って話じゃないですか。

こういう細部に踏み込むことなく、「日本の男がいかにゲスか」みたいな話ばっかりしていたら、当然感情的反発も高まって押し合いへし合いになるのは明らかすぎる自業自得の結果ではないでしょうか。

なんかよく女性差別問題について、「男が女性の足を踏んでいるからどけてくれと言っているだけなのだ」みたいなギンズバーグ判事の言葉が有名なんですが、逆に言うと、

教条的なアメリカ的リベラルの糾弾原理主義が、「その社会の具体的な細部の調整プロセス」をも足蹴にしまくっているから解決できないこと

だってたくさんあるんだ・・・っていうことを、「アメリカの武力で世界中に無理やり言うことを聞かせることができなくなった時代」にはちゃんと考えることが必要なタイミングなんだってことなんですよね。

6●人類社会は、そろそろ「白vs黒」の政治的闘争を超えて次は「白vs黄色」の政治闘争をはじめる必要がある

これは要するに、アメリカ的リベラルの独善性っていうのは、「白vs黒」の闘争を一歩も出ていないことが原因なんですよね。

歴史的に、黒人社会と白人社会の間に起きている問題と、「黄色人種社会(東アジア)」と「欧米社会(白人社会)」の間で起きている問題は全然性質が違うじゃないですか。

黒人の歴史的居住地域と欧米人の居住地域は近かったので、もう歴史的に容赦ない搾取構造があって、「善と悪」を分別的に扱いやすい。

「白vs黒」なら、徹底的に現地社会を崩壊まで追い込んで、それで自分の利益にしたんだから、そこを徹底的に見直していきましょう・・・という運動になるのは理解できなくもない。

ただ、これは結局「欧米社会にとって”他者”は決して存在していていない世界観」ではあるんですよね。

「徹底的に可愛そうな存在」として「黒」が出てきて、「それの味方だから自分は”徹底的に絶対善な白人である”」という構造になっている。

でもそういう単純な善悪二元論で物事が見られるのは、結局アメリカという国がネイティブアメリカンの社会を完全に抹殺した更地の上に作った国家だからなんですよ。

しかし、「白vs黄色」の世界においては、アジア社会は自分たち独自の社会の運営規範をある程度残して対等に生き延びたので、こういう「白vs黒」的な「どちらかが絶対善という形で決着する」ゴールでは解決できないんですよ。

「ローカル社会の自律性を尊重しつつ、欧米的理想の良い部分が否定されないように導入していく」

という態度が必要で。

結局こういう「白vs黄色」の世界観における欧米社会の独善性や隠れた差別意識をちゃんと是正していくことは、

欧米社会が本当の意味で「自分たちの外側にいる対等な他者」を認識する

チャレンジになっていくはず。

とはいえ、じゃあ中国みたいに「民主主義なんてもう終わった制度だろ」みたいな態度がデファクトになっていくのも困るわけじゃないですか。

だからこそ、東西のハザマで、

「欧米文明に征服される側の気持ちもわかるし、欧米社会側の事情もわかる」

歴史的経緯を持っている私たち日本人の果たすべき役割は大きいといえるでしょう。

そこをちゃんと自覚して「合気道的」にアメリカのリベラルの独善性を柔らかく受け止めることができるようになれば、さっきリンクしたこの記事のように、

米ソ冷戦時代に日本が特殊な繁栄のボーナスステージを引き寄せることができたようなことを、今回の米中冷戦時代にも引き寄せることが可能になるでしょう。

6●「数学の世界」ですら「壁」が必要とされている新潮流がある

要するに「アメリカ的リベラルの理想」をちゃんと「世界中のローカル社会に受け入れて」もらうには、

「アメリカ的リベラルが持っている欧米文化帝国主義的な差別意識」に自覚的になって、ちゃんと「ローカル社会への対等な敬意」を持てるようになることが必要

なんだってことなんですよね。

その「アップデート」ができないと、もう人類社会は「じゃあもう中国みたいな強権主義でいいじゃん」っていう方向に雪崩を打っていきかねないぐらいの状況になっていることを自覚することが大事なんですよ。

で、こういうのは「普遍性への冒涜」だと欧米的世界観に染まっている人には感じてしまうところがあるんですけど・・・

そこについてちょっとマニアックな話をしておきたいんで、興味ない方は次の小見出しまで飛んでほしいんですが・・・

キリスト教でよく

「神の存在をすべて理解することは人間には理解できないが、あくまで”最善仮説”としての人間の知性で解決していく」

みたいな言説ってあると思うんですが、

現在の欧米社会においては「本来はたまたま現時点での”最善仮説”にすぎないもの」として設定された世界観を、「神のような絶対的なもの」として扱ってしまう暴走が起きている

わけですよね。

そういうものには「一歩だけ懐疑主義的な余白を持って接する」ことが、「本来的な普遍性を求める知性のあり方」として理想的であるはずなんですよ。

このあたりのことについては、去年色んな「科学者」の人に好意的に読んでいただいた以下の記事で書いたように、

常にあらゆる議論が「どの程度の確からしさ」を前提として行われているのか・・・に自覚的になることで、ローカル社会の事情をちゃんと適切に普遍的な議論と併存させていくことが可能になるんだ、そしてその「実践例」が日本の製造業の優秀さの中には存在するのだ・・・という話に関わります。ちょっとマニアックな議論ですがご興味ある方はどうぞ↑

で、こういう話のさらに余談として、数学上の歴史的難問であるABC予想を証明したとされる望月新一京都大学教授が、自身のブログ(世界的天才が”欅坂”や”逃げ恥”と自分の理論を対比して語るという凄いブログ)で

「壁があることの意義」

について切々と語っている話も非常に興味深いと思います。

なんか、望月新一氏が世界的に「天才」とされる理由は、宇宙際タイヒミュラー理論という「証明のやり方自体が全く新しい手法」だからだそうで。

私は初学者向けの「概論」を理解するぐらいしかできていませんが、欧米の理論家が「最も抽象度の高いところから最も具体的なところまで完全に一対一対応の論理がきれいに繋がっていないとダメ」だと感じるのに対して、(これはロシアのペレリマン氏のポアンカレ予想の解決の時にも同じことを感じましたが)欧米から見て「辺境」の文化で育った人間は、「”具体”に近づくにつれて適切に厳密性を落としても大丈夫だ」という議論を展開するところがあるような・・・

「”どの程度”厳密性をダウンさせたのか」についてちゃんと自覚的に適切にグリップを握っていて、”証明したい内容に対して必要十分な厳密性”さえ保たれていれば、完全な一対一対応の論理で上から下までロジックで埋め尽くす必要はない

という発想が、望月新一氏にもペレリマンにもあって、そのへんが、特に多くのドイツ人のような性向の「理論という構造物自体のイデア的実在性」を信じたいタイプの人から批判を受けつつ、イギリス人なんかは案外好意的だったり・・・みたいな傾向があったりするように思います。

まあなんにしろ、上記リンクの望月氏のブログは超興味深いのでぜひ読んでいただきたいわけですが、彼が主張するのは、

「欧米的なシステムが世界中に簡単に通用させられると思っているのは、欧米的でない文化的現象などこの世界に存在していないと無意識に思っている強烈な差別意識があるのだ」

みたいなことなんですね。

で、「適切な壁」をお互いに設定しないと、人間には扱えないレベルの「計算量の爆発」が起きるので、人間社会はローカルの切実な事情をうまくすくいあげて扱うことができなくなってしまうのだ・・・みたいな話でした。

特にリンク先では、イギリスの数学者ラッセルが、「結婚論」という著書で「裸を非とするタブーを疑問視する」ように「人と人との間に壁を作ることを究極的に取っ払うことにこだわっている」のに対して、望月新一氏は旅行に行くことも大嫌いというぐらい「自分自身の日常に深く沈潜していく」ことにこだわっているのは、それぞれの数学理論が持っている特徴ゆえなのだ・・・みたいな話が物凄く面白かったです。

要するに、「白vs黒」の徹底的に非妥協的な政治闘争の季節が終わり、これから「白vs黄」的に「対等に対置する」政治闘争が始まるのだ・・・みたいなことは、数学の世界でも「同じこと」が起きつつあって、それが望月新一氏の「あまりにもオリジナルで斬新な数学理論」がちゃんと認められて数学の専門書に掲載されることが決まった事情とリンクしているのだろうと私は考えています。

で、さっきも述べたように、日本の製造業の一番コアの部分の強みもそういう「現地現物の細部は現地現物の理屈で扱う」強みによって生まれていて、そこの部分を欧米文明中心主義から守り切るために、過去20年の日本の「内向き姿勢」もまたあったのだ・・・ってことなんですね。

(マニアックな話)はここで終わりです。

7●尾身茂氏がポリオ撲滅という成果を出せた理由

最後に私の著書でなんどか書いた思い出話をしたいんですが、大学生の時に、当時一緒に住んでいた女の子が文化人類学の研究で旧ユーゴスラビアに留学していたんで冬休みに会いに行ったことがあるんですが。

その時に、旧ユーゴのどこか・・・ドブロブニクだったかベオグラードだったか忘れましたがどこかの公園で、現地の人が伝統的な「輪踊り」をしているシーンに出くわしたんですよね。

で、当時僕は「誰とでも友達になれるのが関西人」的なアイデンティティを持っていたので、その輪踊りに飛び入り参加をして、テキトーに踊ってたら最初のうちは参加してるおばちゃんとかも笑って楽しい雰囲気だったんですけど。

でもそのうちダンスが加速してきて輪踊りが回る方向も次々変化するようになって、そしたら僕がいると混乱する原因みたいになってしまったんですよ。

そしたらボス格っぽいオッサンが近寄ってきてサクッと自然に僕を輪から外したんですよね。

で、まあその体験は、当時の「人類みな兄弟」風の理想主義的な僕からすると結構ショックだったんですが、でもその後色々と思うに、「あのサクッと角が立たないように外したオッサンのやり方」は凄い見事だったな・・・と思ったんですよ。

でもこれね、もし僕が事前にそのダンスのことについて調べて、練習して、ちゃんと並んで踊れるようになってから飛び入り参加したら、むしろ

「なんでこのアジア人俺らのダンス知ってんのwwwww」

みたいに歓迎されたと思うんですね。実際単純なダンスについていけてるウチはそういう雰囲気だったからね。

要するにこう、「ローカル社会とグローバルなシステム」との間に、そういう「ワンクッション」をいかに置けるかどうか・・・が重要な時代なんですよ。

そういうワンクッションをちゃんと置けるようにならないと、もうグローバルなシステムを全拒否にするようなモンスタームーブメントが盛り上がってきてしまって手がつけられなくなる。

たとえばトランプ派のムーブメントみたいなのが起きてきた時に、リベラル派は「バーカバーカ」言ってないで、

「自分たちが主導するムーブメントが現地ローカル社会の運営の細部に対して行き届いてない部分があるんじゃないか」

的に考え始めないとダメな時代なんですよね。

で、さっきの日本の医療システムみたいな話で、「貧困層でもコンビニ医療が受けられるシステムを維持するために必死に働いている人たち」への敬意を持てるようになれば、あとは具体的な細部の話をちゃんと積んでいけばいい。

「そこ」の手前で、「日本の男がゲスだから」みたいな糾弾しかしないっていうのは、今の時代のあらゆる問題の諸悪の根源的な問題というか、これからの時代に

「白vs黒」でなく「白vs黄色の政治闘争」

を起こしていくなかで、改めて行くべき最大の課題なのだ・・・ということなんだと思います。

こういうのって、例えば今の日本のコロナ対策のヘッドの尾身茂氏とかは、実際に「ポリオの根絶」という超凄い成果を出してる人ですけど、現地社会に入り込んで、必要なら紛争地域の権力者にも直接面会に行って停戦してもらったりすることまでしてるから実現するわけですよね。

ビル・ゲイツのワクチンプロジェクトって、内容としては凄い良いなって思うけど、しょっちゅう現地の政情不安定に巻き込まれて継続ができなくなったりしているじゃないですか。

そういうのはローカル社会への敬意が足りないところがあるからだというか、欧米人は「欧米文明にのしかかられている側の気持ち」を理解することができないから・・・だと思うわけですね。

一番大事なのは、以前やたら読まれたフェミニズムに関する記事↓でも繰り返し書いたように、

「変化を起こそうとする時に、現地社会の紐帯を引きちぎらないようにする」ってことなんですよね。

最悪なのは、

「外国のエリート層と付き合いがある、その国内部のほんの一部の特権階級」vs「ローカル社会の素直な気持ち」

・・・が対立構造になったらもう絶対ダメ。

幕末の日本がとりあえず「尊皇攘夷運動」からはじめて国全体の紐帯を確認した上で「開国」へと徐々にシフトしていった・・・みたいなのは、本当に「歴史の知恵」が詰まっているなと感じます。

逆に言うとこれは「欧米文明に征服される側の主体」として体験した特殊な知恵として、欧米人にはわからない「ローカル社会への気遣いのあり方」のヒントにもなりえるはずですよね。

最終的には、これも7年前から使ってる図ですが、

図2-1

こんな感じで、世界中で

「ローカル社会の切実な事情」と「グローバルなシステム」との間は当然のように押し合いへし合いになっている

ので、上記の注射器の先に穴が開いて無いと、とにかく毎日息苦しいじゃないですか。もしあなたがこの「注射器内部の液体」になったつもりで見てほしいんですけど。

ちゃんとこれから「白vs黄色の政治闘争」をしっかりやって、「アメリカ的リベラルの教条主義」を合気道的に毒抜きして扱えるようになれば、「両側から押し込まれるエネルギー」が全部「前に進む推進力」に転換できるようになるはず。

下世話に具体的な例で言えば、「ローカル社会への敬意」がないような「アメリカ的リベラルの教条主義」がそのまま出たようなSNSでの発言には、溢れんばかりの罵詈雑言が押し寄せる現象があるじゃないですか。

まあ、その「罵詈雑言」が過激すぎたり変な個人攻撃になったりする問題はなんとかしないといけないですが、巨視的に見れば「そういう現象が起きること」自体は「アメリカ的リベラルの独善性の鏡の中の像にすぎない」という理解が必要な時代なんだと思います。

だからまあ、そういう罵詈雑言を投げまくる人はこの記事をここまで読んだりしてなさそうだけど、そういう人はそういう人で頑張って「ローカル社会の言葉にしづらい抵抗」を示すのも仕方ないことかなと私は考えています。

なんせ「グローバルな正義の御旗」と「非欧米社会のローカルな事情」で言ったら前者の方が「圧倒的強者」なので、ポリコレ用語で言うと「権力勾配がある時にトーンポリシングをしてはいけない!」ってヤツですからねっ!

要するに、別に「特殊な工夫」とかをしなくても、そうやって「ローカル社会の事情への敬意」がない発言は、溢れんばかりの罵詈雑言を受け取ってバランスされる拮抗状態に自然になるので。

そこから先は、

「現地現物の事情」にちゃんと敬意を払って具体的な話をしていく

ことさえできれば、ここ最近使っているこの図で言うと(この図の見方についてはこのファインダーズ記事をどうぞ)

210129_M字コメ

この状態から・・・

210129_凸字コメ

に持っていけるようになるでしょう。

何度かリンクしてきた「20世紀の米ソ冷戦」との比較記事で書いたように、上記の凸型の世論形成カーブさえ実現できれば、20世紀の日本が世界一の繁栄を引き寄せられたようなボーナスステージを、21世紀にも引き寄せることが可能になりますよ。

結局一番大事なのは、

「ローカル社会の伝統や自律性を、欧米文明と対等な存在として認める」

っていうところなんですよね。

そして、ネットで共有されて延々と読まれ続けている前回記事↓で書いたように、そういう「欧米的な知性の枠組み」と「ローカル社会」との間の適切な協力関係さえ打ち立てることができれば、日本の学術予算を世界一レベルまで増やせる余地は十分にあるのだ・・・ということでもあります。

さて、今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、「合気道的」ということをもう少し深堀りして考えてみたいと思っています。

前回記事でも引用しましたが、「文通」の仕事で繋がっているカナダに住んでいる合気道の先生が、合気道の原理は、

「拮抗状態を作り出すと相手にこちらがしていることの情報が伝わらなくなる。そこでその”前提”ごとひっくり返す余地が生まれる」

みたいな部分にあるのだ・・・みたいな話をしていて、それが意味することをもっと深堀りして考えてみたいと思っています。

日本が「米ソ冷戦」のときに得られたようなボーナスステージを、今回も引き寄せるために考えるべきことは何なのか?について、「合気道の術理」からもっと本質的に考えてみたいというかね。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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