「ちくしょー」な世界と高齢者
高齢者と暮らさなくなった世界
高齢者年が単に能力がなく足手まといの存在で老害でしかない。
200年前。高齢者は大切にされたそれは知識の宝庫だからだ。自然を相手に取り組む仕事であること農業や漁業では先人の知恵無くしては成り立たず。とても大切されるのか敬われた。年を取っても地域でも高齢者はちえしゃとしてのろうにゃから従われていた。
今日では核家族が進み高齢者がいない若者夫婦が増え、家の中に高齢者がいな世帯が増加した。農業や漁業や林業のような職人的能力よりパソコンスキルやネットスキルス等の高齢者は知り得ない知識が必要となり高齢者が無能の人となり単に足手まといになった。高齢者がのいない世帯で育った若者は高齢者を邪魔者にしか見えないのだ。
高齢者がは自尊心が傷つきすいや世の中となった。体力気力が追い付く訳がない。したがって年金で暮らせない高齢者は工事現場の交通整理や警備員等の単純労働者に成るしかなくかつてのスキルを活かせるチャンスは少ない。仮にチャンスがあったとしても若者の能力を基準としている為に無能の者と蔑ますまれるのが落ちである。核家族で育った者は高齢者を尊い等とは思わないのだ。
極端感じるかも知れないがコレが現代者かでありますます高齢者を孤立指せているのだ。
このようような状況で高齢者は都会の荒野で野垂れ死にするのだ、その野垂れ死にでさえ"孤独死"と妙な名称で語られる。
「一人で行くんだ幸せに背を向けて」と都会に旅立ったかつての若者にはどれなりの覚悟があるのだ。「なめんなよ」(青年は荒野を目指す)
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