「消費者」という幻想
先日、代官山蔦屋書店で開催されたこちらのトークイベントに登壇しました。
雑誌『STANDART』日本版に僕が寄稿した2つのエッセイ「人工知能の時代にコーヒー焙煎家は必要か?」「京都が未来である理由—ポスト資本主義への道標」をメイントピックに、室本寿和さん(『STANDART』日本版ディレクター)と岡橋惇さん(『Lobsterr』共同創始者・編集者)とトークしました。
オープンディカッションという形を取り、来場者のみなさんにも積極的に参加していただいた結果、議論は大変に盛り上がり、白熱した時間となりました。(参加してくださったみなさん、ありがとうございました!)
そんな議論の中で、「生産手段を手にした個人が作る『資本分散型経済』がポスト資本主義を生む」という僕の主張(詳しくはエッセイを読んでほしいですが、以降の文章はエッセイを読んでなくても大丈夫です)に対して次のような質問がありました。
できれば安い方が良いという消費者側の意識が変わらなければ、資本主義は変わらないのではないか?
これに対して僕は、次のように回答しました。
自らの手で生産し販売する人が増えれば(資本分散型経済が拡大すれば)、必然的に消費の仕方は変わる。自ら生産している人は、モノを買うときにもその商品を誰が作ったのか、どう作ったのかを意識して、価格が高くても気持ちよく購入できるモノを選ぶようになるから。
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このことについて、もう少し考えてみたいと思います。
そもそも質問に出てきた「消費者」とは誰のことでしょうか?
試しに辞書で「消費者」を調べてみると、次のような説明が出てきます。
しょうひしゃ【消費者】
① 物資を消費する人。商品を買う人。
② 〘生〙 無機物から有機物を合成できず、生産者を直接または間接に摂食することにより有機物を得ている生物。通常は、動物をさす。
▽⇔ 生産者
(三省堂 大辞林 第三版)
いまの文脈では①の意味が適当です。そして、対義語は「生産者」。
でも、本来、労働している人は皆(広い意味での)「生産者」です。そのうえで「消費者」でもあるわけで、純粋に「消費するだけの人」「商品を買うだけの人」なんていません。
にも関わらず多くの人が「消費者」という概念上の存在を当たり前に受け入れているのは、日々の労働が生産から離れすぎていて、「生産者としての自分」を意識できず、「自分や周りの人は消費者である」という感覚が蔓延しているからだと思うのです。
これは資本主義社会で生まれ育つ中で、人々が「給与をもらって消費する」という意識だけで暮らしている結果生まれた、「消費者」という幻想だといえるでしょう。
僕が「資本分散型経済」と呼ぶ個人が生産手段を手にした社会では、生産と消費が密接しているので、「消費者」という概念は力を弱めるはずです。そして、「資本分散型経済」が拡大すれば並行して存在する従来型の「資本集中型経済」にも影響を与え、社会は変わっていくと思います。
以前読んだ本で、思想家の吉本隆明さんは「生産と消費は元々は同じこと」というようなことを言っていて、当時はその意味がよく分からなかったけれど、いまはとても良く分かります。
「生産者」と「消費者」の区別が曖昧になる社会、それはポスト資本主義社会のひとつの特徴になると、僕は考えています。
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『STANDART』日本版第10号に寄稿したエッセイ「京都が未来である理由—ポスト資本主義への道標」をテーマにしたトークイベントが、代官山蔦屋書店に続き今度は京都岡崎 蔦屋書店にて12月5日(木)に開催されます。
京都の回では、編集長の室本寿和さんと僕に加え、東京と京都の二拠点で活動しつつ世界中の都市を回り、京都のカルチャーや資本主義の課題にも詳しい(と僕が見ていて感じる)小嶌久美子さんに参加していただきます。(※彼女の独自の思考は下のnoteからも垣間見えます)
東京に引き続き、今回も来場者と一緒に議論するオープンディスカッション形式です。ぜひご参加ください。
<会場>京都岡崎 蔦屋書店
<日時>2019年12月5日(木)19:30~21:00(開場19:00)
<登壇者>
・室本寿和(『Standart Japan』編集長)
・小嶌久美子(フリーランス | リサーチ・企画・プロマネ)
・中村佳太(大山崎 COFFEE ROASTERS)
<詳細・申込み>
※京都岡崎 蔦屋書店 イベントページ(↓↓)をご確認ください
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