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「個人がつくる新しい経済圏」に飛び込んで泥沼にはまらないために必要なこと

「新しい働き方」が生む希望と失望

「働き方改革」や「副業・複業・兼業」、「シェアリングエコノミー」といったバズワードとともに、「個人がつくる新しい経済圏」という概念が広がっている

エアビーにメルカリにウーバーイーツ、様々なクラウドファンディングなどを活用することで、企業に縛られず、個人が自由に稼いだり、資金を得たりできるようになった。このことは、企業を中心としたこれまでの経済圏とは別に、個人を中心とした新たな経済圏が生まれつつあることを意味していて、人々がそこに大きな希望を見出している(ように見える)。

一方で、この「新たな経済圏」に関して様々な問題点も浮き彫りになってきている。下の記事で紹介されているウーバーイーツの運び手たちによる労働組合の結成、組合とウーバー社との対立はその典型だろう。

こういった「ギグエコノミー」への失望、その過酷さや不条理は世界中で認識されるようになってきている。下の記事で望月雄大さんは、ケン・ローチ監督の最新映画『家族を想うとき』を解説しつつ、その状況を分かりやすく伝えている。一部を抜粋する。

彼は雇用者であれば受けられたはずの様々な「保障」や「規制」の範疇外へと入っていく。過労死ラインとか、そういうものはないのだ。稼ぎたければいくらでも働けばよいが、その代わり有給休暇などないし、事故にあっても労災はおりない。ーー中略ーー休むも休まないも自分の自由だ、ただし代わりのドライバーは自分で見つけてから言え。急な休みは重い金銭的ペナルティの対象になる、それでもよければ自由に休めばいい。全ては自分が決めること、条件は自分が同意した契約書に書いてあるはずだ――。

自由なように見える「新しい働き方」への希望とそこから生まれた新しい問題を前にして、僕たちはどう働き、どう生きていったらよいのか、途方に暮れてしまいそうになる。

「やっぱり会社にいる方が安心だ」と考えるべきなのか、「会社に縛られる生き方は古い。個人として自由に働く方が良い」と考えるべきなのか。少なくとも不用意にギグエコノミーに飛び込んだ場合、泥沼にはまってしまう可能性があることは疑いようがない。

では、「個人がつくる新しい経済圏」は幻想にすぎないのだろうか。そこに希望などないのだろうか。

僕は次のように考えている。

「個人がつくる新しい経済圏」には希望がある。
ただし、そこに飛び込むときには『生産手段』を持っていこう。

どういうことか。その前に、まずはウーバーイーツの運び手たちに起こっている問題はなぜ生まれているのか、その根源を考えてみたい。

問題の本質は何か

ギグエコノミーで起きている問題を考えるためには、僕らがいま生きている社会のシステムである資本主義に目を向ける必要がある

資本主義がその構造を保つための成立条件については様々な意見があるけれど、僕がもっとも重要視している条件のひとつが、多くの経済学者が指摘している『生産手段からの労働者の分離』だ。

かつての労働者たちは、田畑や道具、作業機械といった生産手段を個人(もしくは共同)で所有し、それらを自由に使い自らの手で商品を生み出し販売していた。それが、資本主義体制が確立していくと、資本家や企業が生産手段を独占的に所有し、労働者たちは資本家や企業に雇われ、賃金労働者として商品生産に携わるようになる。市場競争の中にあってはその方が生産効率が良く、競争を勝ち抜くことができたからだ。そしてその結果として、労働者個人から生産手段が分離されていった。

生産手段を持たなくなった労働者たちは、次第に資本家や企業に依存していくようになる。自ら商品を生み出す手段を持たない以上、誰かに雇ってもらわなければ生きていくことができないからだ。企業と労働者の間の契約は一見対等なように見えて、食料や生活用品を買わなければ生きていけない仕組みの中では、労働者側の自由度は小さくなるようにできている。(このあたりは前掲の記事で望月雄大さんが身に迫るような文章で伝えている)

「雇用されているか否か」は本質ではない

ここで、ウーバーイーツの運び手たちの問題に戻る。たしかに運び手は雇用されてはいない。個人事業主として仕事を請け負っているだけだ。いつ働いてもいいし、他の仕事をするのに誰かから許しを得る必要もない。

しかし、ここまで資本主義の成立過程を見てきて明らかなように、労働者が企業に依存せずに自由に働けるかどうかに、雇用契約の有無は関係がない。

「雇用されているか否か」は問題の本質ではないのだ。大切なことは「生産手段を持っているか否か」の方だ。

自ら商品を生産できないのであれば、雇用されていようがいまいが、報酬を得なければ生きていくことはできない。結果的に、雇用されている従業員と同じように資本家や企業に依存した状態の中で生きることになる。

こうした観点から見ると、個人事業主であるウーバーイーツの運び手たちが労働組合を作って団体交渉を求めなければならなくなった今回の一連の流れは、一見意外なことのように見えて、実は必然の出来事なのだ。

(ウーバーイーツの運び手にとっての「自転車」や「自転車運転スキル」は生産手段といえなくはない。ただ、それは誰でも比較的容易に手にすることができるため、あまりにも小さく、弱々しい)

「個人がつくる新しい経済圏」の本当の意味

僕はコーヒー焙煎家として、コーヒー豆を焙煎・販売して暮らしている。

新卒でビジネスコンサルティング会社に入社し”雇用されて”働いていた僕は、約7年前に会社を辞めた。そして、貯金を使ってコーヒー焙煎機を購入、それ以来日々焙煎技術を磨いている。自分の技術のレベルなんて客観的にはよくわからないけれど、先日アメリカから来たコーヒー好きのお客さんが「あなたのコーヒー焙煎はアメリカでも成功します」と言ってくれたので、簡単に誰かが代替できるレベル以上にはなっていると思いたい。

こうして僕はいま、「コーヒー焙煎機」と「コーヒー焙煎技術」という生産手段を手にした。

そしていま、インターネットやテクノロジーの力を借りることで、生産した商品を販売するのに掛かる時間やお金は極めて少なくなった。30分もあればネットショップを無料で立ち上げることができるし、イベントや店舗で販売するにしても、レジや決済ツールはほとんどコストをかけずに手にすることができる。ここ10年で、生産手段さえ持つことができれば、個人でも生きていくことが容易になったのだ。(※1)

そしてこの「生産手段を手にした個人がつくる経済」こそが本当の意味での「個人がつくる新しい経済圏」なのである。(僕はこれを「資本分散型経済」と呼んでいる。一方で従来型の企業中心の経済を「資本集中型経済」と呼んでいる)

「生産手段からの労働者の分離」が資本主義の前提であるならば、この「生産手段を手にした個人がつくる経済」ではその前提が崩れている。その意味で、僕はこの「生産手段を手にした個人がつくる経済」(資本分散型経済)が拡大した社会はポスト資本主義社会であると考えている。ポスト資本主義社会とは、「資本集中型経済」と「資本分散型経済」が併存し、ゆるやかにつながった社会であるという見立てだ。

ポスト資本主義社会を生きる

僕たちは、「新しい働き方」への希望と失望を前に途方に暮れる必要はない。もし「個人がつくる新しい経済圏」で生きていきたいと願うのであれば、生産手段を手に飛び込めばよいのだ。

生産手段は高額なものである必要はない。高額な生産手段はそれを持っているだけで(技術が無くても)代替が難しい商品を生産しやすいけれど、「安価な道具と技術」という組み合わせでも代替が難しい商品は生みだせる。「イラスト作成ツールとイラスト技術」、「カメラと撮影技術」、「オーブンとお菓子を焼く技術」などなど、可能性はいくらでもある。

当たり前だけれど、企業に雇われて働くこと、賃金労働者として生きることは悪いことではない。企業や組織でしか成し得ない仕事はたくさんある。資本主義の問題は、賃金労働者として生きることを望んでいない人から他の選択肢を奪う構造となっていることだ。しかしいま、その構造が崩れつつある。

自分が本当に心地よいと感じる働き方・生き方を選択できるポスト資本主義社会の到来に、僕は希望を持っている。

補足1

(※1)ここで言及しているテクノロジー企業は、僕自身も利用しているECプラットフォームのBASEやモバイル決済サービスのSquareなどを想定している。注意していただきたいのは、これらのテクノロジー企業とウーバー社との違いだ。簡潔にいけば、ウーバー社が生産手段を持たない(企業にとって都合の良い)個人を対象としているのに対し、BASEやSquareなどは主に生産手段を持った個人を対象としている。どちらも一見すると「個人が自由に働くためのプラットフォーム企業」のように見えるが、実際にはウーバー社は従来の従業員雇用型企業と変わらず「個人が弱い立場にある」という特徴を持っている。もし運び手が1人辞めても、ウーバー社は他の運び手を1人雇えばよいだけだ。一方で、BASEやSquareなどは事業者対事業者というパートナー型であり、「個人が対等な立場にある」サービスだ。もし僕がBASEを使うことを辞めたら、BASEはもう僕の焙煎したコーヒー豆を流通させることができない。僕の持っている生産手段(焙煎機や焙煎技術)が他で代替しにくいものであるならば、BASEと僕には対等な関係、良い意味での緊張関係が生じるのである。

補足2

僕は今年10月に発売された雑誌『Standart Japan』 (第10号)に「京都が未来である理由ーポスト資本主義への道標」という論考を寄稿した。京都の独特な小商いカルチャーをヒントに、ポスト資本主義社会の可能性を論じているので、このnoteに興味を持ってくださった方にはぜひとも読んで欲しい。

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