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地方でクラフトビール製造会社を立ち上げるということ(1)

 初めてのnoteでの記事。noteではこれまでの経緯、Uターンについて、起業について、事業承継について、現状、今後の展開について、ビールのこと、その他つまらないこと、などなど、気が向いた時に書いてみようと思う。

 自分がビール醸造に出会ったきっかけは、就職活動を終えた大学4年生の夏にカナダに山登りに行った際、ヒッピーのような生活をしている親戚とその友人達が生活している"Man Cave"と呼ぶ基地で彼らがホームブリュー(いわゆる自家醸造)をしているのを目撃してしまったことだった。(冒険家/写真家の従兄弟との1ヶ月に渡るロッキー山脈縦断の話はまたに)
 

△2013年夏 バンクーバー

 掃除もろくにしていないシャワールームの横に置かれた小さなカーボイ(壺型のガラスの容器。その中の衛生状態は良かったはず)の中からプクプクと気泡が上がって外に出ている姿に自然と見惚れて、その泡の様に湧き上がる高揚感を覚えた。それと同時に、「ビールが自分で造れるのか!」というコペルニクス的転回が自分の中で起こった(というかビールを造るという発想自体が無かったため、転回という表現は正確ではない)。
 
 すぐに、ビール造りを教えてもらい、日本に帰ってからビール造りにまつわるあらゆる本や記事を読み漁っては情報を集め、東京でのいわゆるサラリーマンライフを満喫する傍ら、趣味としてホームブリューに勤しんだ。(1%未満のアルコール度数に(なっていたはず。)抑えながら独自に研究を行なっていた。日本では1%以上のアルコールを製造することは違法行為に当たる。)
 背徳感、お得感、そしてビール製造という行為を大企業の手から家庭に取り戻すための孤独な民主化運動を一人でしてやっているという変な正義感の様なものが動機となって作りまくった粗悪な酒(あくまでも1%未満)をよく友人と飲んでいたものだ。

△ 2015年 東京

 当時の本業は何をしていたかというと、消費財メーカーでの経理業務をやらせてもらっていた。原価計算を中心とした事業部の損益管理の業務で、メーカーとしてとても重要な業務を3年間みっちりと。役員の意思決定の指標になる様な大事な資料作りなど、細かいミスが会社の向かう方向に影響してしまい兼ねない業務をこなす日々。毎日朝から晩までPCに対峙しミスの許されない仕事を続けたお陰で、大雑把だった自分が小姑の様に細かい所に目がいってしまう様になった。
 
 そして処理能力が大きく上がった(と錯覚した)自分の今の口癖が「人が1時間かかることを6分で終わらせよう」だ。品質を保ったまま1/10の時間で仕事を終わらせる。つまり10倍のアウトプットを出そうということだ。経理部で学んだことはこういうことだった。10年前の自分と比べると、10倍は言い過ぎだが4倍くらいならアウトプットしている気がする。まだまだ上手にITを使いこなせない自分でさえ経理部でかなりのスピードと精度の向上が実現したので、何かの間違いでこれを読んで頂いている皆様も機会があればどこかの経理部でガシガシ世の中を良くするためのライフハックをして欲しい。

 

△2015年 東京

そんなサラリーマン平日を送る傍ら、週末は近所のブリューパブ(醸造所併設のビールバー。東京には当時10軒ほどしかなかった。)でボランティアをこっそりさせて頂いていた。
 東京のY.Y.G. BREWERY & BEER KITCHENに誘って頂いたのはこの時がきっかけだった。たまたま見学に来たYYGを立上げ途中の取締役のおじさん(東京のお父さんと呼んでいる)にアプローチしたところ急に写真を取られて即採用(?)。女性社長(東京のお姉さんと勝手に思っている)に自分の顔写真を送ったところ即採用となったらしい(笑)。(地元に帰った今でもYYGとは切っても切れない繋がりがあって時々一緒に仕事をさせて頂いている。)
 

△2016年 東京
 そんなこんなでYYGの醸造家として3年間必死にビール造りとその勉強に集中させて頂いたお陰で頭の中でイメージした味はほぼほぼ再現できるようになって、少しずつ自信がついてきた時に「地元」というワードが頭に出るようになってきた。

続く

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