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子どもも他人も変えられない(11)

大人も自己存在感が持てない

前回まで、不登校の子どもが元気になる秘訣は、「自己存在感」を持つことができるようになり、「自分を信じる」ことができるようになることだと、お伝えしてきました。

だからこそ、「自分を信じることができなくなった」大人が反省をし、もう一度、自分達こそ、自己存在感が持てているかどうか見直し、学び直す必要があると思うこともお伝えしてきました。

では、なぜ、こんなことになるのか、ということなのです。

それは、大人の私たちが、自己存在感をしっかりと持たずに今があることが大きな原因だと、私は思っています。

ある意味では、だから、懸命に「自己肯定感を上げる」ことに躍起になっているとも言えます。

自己肯定感を上げるためには、その大前提となる自己存在感をしっかりと持つことが、必要なことは、ご理解いただけると思います。

「今、ここにいる」自分もなく、自分を信じることもできないのに、自己肯定感など上げられるはずもないのです。

私達、大人は、常に自分の外側のこと、いわゆる社会に適応することを求められて生きてきています。

それは、大東亜戦争前も後も、変わりません。

ただ、現在の親世代は、大東亜戦争後に生まれ、現在の社会、学校で育っています。

それでも、大東亜戦争後、30年から40年くらい、ちょうど昭和40年代後半から50年代の方が多いと思います。

私も含め、今の親世代は、小学校に通うころ、早い人なら小学校に通う前から、目標を設定され、その目標を突破するために、努力をするという経験をされていると思います。

わかりやすく言えば、常に「何をするか」を考えさせられて、生活をしてきたように思います。

どうしたらいいか「指示」され、困ったら「提案」され、やらなかったらやるように「命令」されてきたのです。

「早くご飯を食べて」と声をかけられ、「この服を着ていったら?」と言われ、「持ち物はこれでいいの?」と聞かれ、そして、極めつけは「早くしなさい!」です。

なぜ、それをするのか、どうしてしなければならないのかさえも、考えることをさせてもらえなかった方も多いのではないかと思います。

まして、自分が「どうあるか」ということについては、とやかく言われることは、ほとんどなかったのではないでしょうか。

自分が「どうあるか」などは横に置いておくことになり、そのことを、「なおざり」にしてきたように思います。

「どうあるか」など考えることはないのです。

だからこそ、松下幸之助さん、稲盛和夫さんという、経営の神様のような方々の多くは、「人としてどうあるか」を大切にすることが重要だと説き続けたのだと思います。

日本の戦後の教育が、どこかで捨ててしまった「どうあるか」ということが、実は大切なのだと、教えてくださっていたのだと思います。

この「どうあるか」ということを考えることは、自己存在感を持つためには必要なことなのです。

というよりも、「どうあるか」は人として何よりも重要なものなのです。

人としてどうあるのか、ということを問うことは、自己との対話であり、自己の存在の確認を自らがすることになります。

そういう教育を受けることなく、大人が「とうあるか」などと考えずに育ってきているために、子どもはもっと考えることができないでいるのです。

子どもが自己肯定感の前に、自己存在感をしっかりと持ち、人としてどうあるか、ということを真剣に考えられるようにしなければ、子ども達が生きづらくなるように思われてなりません。


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