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学校は何のためにあるのか?(10)

学校は自分の中にあるものを見つけるところ

学校は、日本社会の現実を知るためのところではないかと、前回お伝えしました。

学校は、大東亜戦争後だけを見ても、学園紛争、学校荒廃と校内暴力、管理主義、ゆとり教育と学力偏重など、その時々の社会の状況をよく示していることがわかります。

いつの時代でも、日本の社会の変化に対応するために、学習指導要領が改訂され、将来の社会の担い手として必要なことを学んでいくところが学校なのでしょう。

この社会の状況、社会の現実を学校が表していると、前回お伝えしたのです。

私の中には、もう一つあります。

自分の中にあるものを知るための場所が、学校ではないか、と私は思っています。

この現実の中で、たとえば、他者との共生、協働を求められ、その上で、自分らしくいないといけない、しかも、自己責任の部分がどんどん大きくなっている。

これが学校と考えたときに、自分の中には、他人を蹴落としてでも競争に勝ちたい自分、自分らしさを考えろと押し付けられていることに反発する自分、自己責任という名のもとに、どうしたらいいかも示してくれない大人にイラ立つ自分、などがあってもおかしくありません。

それは、どんな子どもにでも、感じるか、感じないかは別として、求められているものと反対のもの、真逆のものもあって当たり前なのです。

自分の中に、もう一人の自分がいる、そんなイメージです。

そのもう一人の自分は、ダメな自分ではないのです。

そんな自分がいることに気が付けることは、子どもの心の成長には、とても大切なことなのです。

そのもう一人の自分に気がつき、社会で必要とされるものを学んでいきながら、自分の中のもう一人の自分が必要なこともあったり、それでは困ることがあったりしながら、成長していく場が学校ではないかと思うのです。

学校が良いか悪いかは、論じているのではありません。
あくまで、そういう場ではないかということです。

また、求められているものと、反対のものが自分の心にはあると、無意識に感じることもあります。

言語化できずに、何か自分が感じているものと現実が違うと感じることもあります。

無意識に色々感じているその自分を、否定するように感じることもあります。

あるいは、求められているものと、現実社会の「真の姿」たとえは、共生・協働と言いながら、社会の中は激しい競争がある、などの乖離に気づき、心の反応として、学校という社会を拒否するようになっているかもしれません。

こういう、言葉にはできない心の反応として、自分の中のものが、社会が求めているものと違ったり、現実社会と求められていることの違いに気がついたりすることで、学校行けないという状態になっている、それが「不登校」だと私は考えています。

そう考えたときに、「不登校」という現象が説明できるではないかと私は考えているのです。

学校は、子ども達が自分の中のもう一人の自分と出会い、自分ともう一人の自分を育てていく場なのかもしれないと、私は思っています。


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