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子どもも他人も変えられない(8)

不登校の子どもの自己存在感

ほめて育てて、自信をつけさせ、自己肯定感を上げることが、良い子育てだと、最近、良く言われています。

それは悪いことではないと思うのですが、少し無理があるように感じています。

なぜなら、「ほめる」ことは、何もしなかったらほめられないですよね?

「ほめられる」ことによって、「自信」がつき、「自信」がついた結果、「自己肯定感」が上がるのですよね?

ということは、何かをして、「結果を出さない」と「ほめられない」ことになり、自信をつけられない、自己肯定感も上がらない、ということになってしまいます。

要するに、すごく結果に囚われてしまうことになると思うのです。

だから、「子どもの良いところを見つけてほめて伸ばす」ということは、「子どもが何かをして、そこから良いところを見つけて、ほめる」ということになりかねません。

その子のほんとに良いと思われるところを「ほめる」ことを上手にできるご家族なら良いと思います。

その子の性格や立ち居振る舞いから、その子の存在までも、ほめてあげられるほど、しっかりとお子さんを見守って、親子の絆を作ってきてくださっているのであれば、それは、そのお子さんのままを受け止めてのことですから、すばらしいことだと思います。

しかし、何かをして、その結果、「ほめる」という行為は、子どもにしたら、あくまで自分の外側のことを何かを行った結果ということになります。

子どもそのものの存在ではなく、何かをした、結果を出した、そのことに対して、「ほめる」ことで「自信」をつけさせるということになります。

その結果が、ご家族の意に沿わないものであった場合、ほめられないか、ほめられても心からほめられないことになる、ということになってしまいます。

子どもが不登校になり、精神的にどん底の状態になっている時に、何もしない、出来ない状態では、結果も何もないので、ほめようもなければ、自信をつけさせようもないことになるのです。

それでは、子どもがエネルギーをため、動き出すには時間がかかるのです。

でも、本来、子どもが学校に行っているか、行っていなかなど、関係ないと思いませんか?

元気で笑顔でいてくれるだけでいい、そう思えるのは、生きていてくれるからです。

目の前にいることは当たり前ではありません。

生まれて来てくれてありがとう、と思ったことなど、どこかに行ってしまったのです。

不登校になり、追い詰められて、家にひきこもってしまう子ども達の顔を見ても、生まれて来てくれてありがとう、今、こうして生きていてくれてありがとう、とはご家族は思えないのだと、私は思います。

それはそれで、ダメなことではありません。

仕方がないことです。

そのことを責めているのではありません。

いつの頃からか、私たち大人は、子どもがいることを当たり前のように思い、子どもを社会に適応させよう、少しでも楽になるようにさせよう、としてきました。

その時に、気がついたら、その子が存在することが奇跡であることも忘れ、大人の意向にあわせることを無意識に強要し、子どもそのものを愛せなくなっているのです。

我が子であるにもかかわらずです。

不登校という現象は、ある意味で、親を試すことだと私は感じています。

それは、「こんな自分でも、お母さんは、私を大切に思ってくれますか?心から愛してくれますか?」という強い思いを、体をはってご家族に問うているのではないかと、いつも感じます。

もちろん、子ども本人はそんなことは意識はしていないでしょう。

でも、それくらい子ども達は、自分の存在を確認したくなるのではないかと感じるのです。

自己の存在を認めて欲しいと無意識に感じているのではないでしょうか。


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