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学校は何のためにあるのか?(11)

もう一人の自分に気がつくところ

学校が現実社会であり、その現実社会の中で生きていく自分が、自分の中にあるもう一人の自分と出会う場所が学校ではないかと考えていることをお伝えしました。

そのもう一人の自分が、現実社会の中で生きていく自分と、一般的にはちゃんと折り合って、「一人の自分」になっています。

ところが、自分の中のもう一人の自分、意識できているかいないかは別として、その自分が、現実社会の中で生きていく自分と折り合えていないとき、一致点がないのですから、とても苦しい状況になります。

自分の中のもう一人の自分が、社会が求めているものと違ったり、現実社会と求められていることの違いに気がついたりすることで、学校行けないという状態になっている、それが「不登校」だと私は考えていると、お伝えしたのです。

なぜ、こういうことが起こるかということを考えてみます。

学校というのは、社会で生きていくためのものを身につける場所ですから、子ども達の「社会」と言ってもいいでしょう。

この「社会」の中では、どうしても、他者と比較されることになります。

本を読むことが好きな子どももいれば、楽器を演奏することが好きな子どももいます。

国語が得意な子どももいれば、体育が得意な子どももいます。

それぞれの好きなところ、得意なところを伸ばしていけばいいのです。

運動が得意な子どもは運動会や体育祭でがんばればいいのです。

数学が得意な子どもは、数学の難しい問題を解いていけばいいのです。

それでも、どうしても周りと比べてしまうことは、仕方がありません。

学校とは、評定をつけなければいけないため、評価をするには、その子どもだけを見てと言いながら、何か基準をつくるために、自然と子ども同士を比較せざるを得ません。

このことが悪いと言っているのではありません。

全く比べずに評定をつけることは、難しいこともわかるからです。

この比較に対応しているのが、「社会の中で生きていく自分」です。

ところが、「自分の中のもう一人の自分」は、周りとは全く無関係です。

自分の外側のこととは関係なく、自分の内側を見ている、内側にある自分という感じです。

この「自分の中のもう一人の自分」が「社会の中で生きていく自分」とが折り合えず、「不登校」という現象になると考えています。

この「なぜ、二人の自分が折り合えないのか」というところが問題なのですが、これは、不登校になった子ども達がよくこういっていました。

「自分がどこにもない」
「自分はいない」
「自分探しをしないといけない」

最近はすっかり聞かなくなりましたが、一時、「自分探し」という言葉をよく聞きました。

子ども達が私に言っていた「自分がない」「自分探しをする」ということは、「自分が存在しない」ということを意味しています。

子どもによっては、「僕は学校にも行けなかったときは、何もできず、言わば、生きてるとも死んでるとも言えない状態だった。」と言っていたくらいです。

自分がどこにも存在しない、これが、まさに不登校の子どもの心の中であり、自分の中の二人の自分が折り合えていない状態だと私は思っています。

不登校になる、というのは、このことに気がつくことだと、私は思い、学校というものがあるから、このことに気がつくことができるとも思っています。

そういう意味で、学校は、もう一人の自分に気がつくところだと、前回、お伝えしたのです。



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