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五輪分析に込めた想い(仲田泰祐・藤井大輔インタビュー)

『経済セミナー』2021年8・9月号から始まった、仲田泰祐・藤井大輔先生によるプロジェクト「Covid-19と経済活動」に関するインタビューシリーズ「政策と経済学をつなぐ」。ここでは、お二人がこれまでに発信してきた「東京2020オリンピック開催が感染に及ぼす影響についての定量分析」に込めた想いを語っていただいたインタビューの一部をご紹介します!

はじめに

2021年7月23日から8月8日の日程で開催された東京2020オリンピック。多くの人々がその開催の是非と感染への影響に関心を寄せ、政府や大会組織委員会もさまざまな対応に追われた。
その状況下で、仲田・藤井氏は開催の国内感染への影響に関する分析結果を公表した。分析がどのような意図で、どのように進められ、どんなインパクトを与えたのか。その背景に迫る。


1 五輪開催の議論に定量的な分析を提供したい

―― 「東京2020オリンピック」(以下、五輪)の開催を控え、2021年5月からさまざまな分析結果を発表されました。今回は、その点にフォーカスしてお話を伺います。最初にレポートを公表されたのは2021年5月21日で、タイトルは「五輪開催の感染への影響:定量分析」でした。まずは、この分析をはじめたきっかけとねらいからお聞かせください。

仲田 五輪分析をやろうかと考え始めたのは、ゴールデンウイークが明けた頃です。ちょうど、白血病から復帰して競泳の五輪代表となった池江璃花子選手のSNSアカウントに出場辞退を求めるダイレクトメッセージが届いているといったニュースが話題になっていた時期でもありました。

池江選手の件をはじめとするそうしたニュースを見て改めて考えてみると、「五輪開催が国内の感染状況にどんな影響を及ぼすのか?」という問いに対する定量的な分析が、それまでまったく提示されていないことに気がつきました。コロナ危機はさまざまな形で国民の生活に大きな影響を与えており、「コロナ禍での五輪開催」は、感情的にも非常に複雑な問題です。しかし、議論や意思決定の際の参考になる定量的な分析が何もない中で、それぞれが、事実とは異なるかもしれない個々の思い込みに基づいて発言し、別の立場の人を傷つけてしまいかねないような状況を目の当たりにして、なんとかしてそういう状況を打開することに貢献できないかと思い、私から藤井さんに「五輪分析に挑戦しないか」と提案しました。

五輪分析にそれまで触れてこなかった理由はいくつかあるのですが、1つはそれが「感染症対策と経済活動の両立」という私たちの分析のもともとの目的から離れたテーマだからです。感染の分析だけだったら経済活動を組み込んだ私たちの疫学マクロモデルを使う必要はないですし、感染症数理モデルの専門家が取り組んだ方がよいに決まっています。しかしながら、4月に入ってから脇田隆字先生(国立感染症研究所長)にワクチン配布分析をお願いされたり、さまざまな政策現場から変異株を考慮した見通しの説明をお願いされたりと、疫学マクロモデルの疫学の部分のみを世の中に求められることが増えていました(経セミnote「感染症・公衆衛生の専門家との対話」参照)。そういった経験を経て、日本には感染症数理モデルを使って実践的な政策分析ができる人材が非常に少ないことが段々とわかってきた時期でもあったので、数理モデルを扱える者としてベストを尽くしたいとも思うようになりました。

当初から五輪分析を発表するリスクは非常に高いと考えてはいたのですが、私の提案に対して藤井さんも「ぜひやろう」と言ってくれたので、それを受けてチームのリサーチアシスタント(RA)たちにも説明して意見を求めました。

チームで議論を深める中で、私たちが五輪分析をすることの意義は何かをみつめ直し、RAの間でもさまざまな意見を交わしつつ、5月11日(火)にはチームで分析を進める意思を固め、プロジェクトをスタートさせました。

藤井 仲田さんも触れられたように、プロジェクト立ち上げの当初は私たちの分析の中で五輪には触れない方針でした。ただ、3月頃から徐々に「五輪が感染状況に及ぼす影響はどうなのか?」という質問が多くなってきました。国内メディアだけでなく海外のメディアからもたくさんの問合せをいただいたのですが、当時の私たちはまだ五輪の影響分析は行っていなかったので、お答えすることができませんでした。

先ほど仲田さんが触れた池江選手のSNSに関するニュースはきっかけの1つで、五輪が近づくにつれて、特に5月頃から、五輪開催の是非について日本国内の議論がかなり感情的になり、二分されているように感じていました。「五輪開催は感染状況を悪化させるからダメだ」という立場と、「選手や国内の人々のためにも五輪は開催すべきだ」という立場で意見が割れて、互いに議論を深めるのは難しい状況だったと思います。そういう中で、議論の軸となりうる定量的な分析がまったくないという状況を私も非常に危惧していました。

五輪の感染への影響について、感染症・公衆衛生の専門家やAIシミュレーションの専門家の方々など、誰か何か分析を出してくれないかなと思って見ていましたが、定量的な分析はなかなか出てきませんでした。感染症の専門家の方々は、さまざまな課題に追われて非常に多忙なため、それも当然と言えば当然です。私も、各々の立場から思い込みに基づいて互いを攻撃し合うような状況はよくないと思っていたところに、仲田さんが五輪分析をやろうと提案してくれて、そこから本格的に検討をスタートさせました。

まずはチームのみんなでブレインストーミングをしました。そこで、私たちがこれまで用いてきた分析のフレームワークで、五輪が感染状況に及ぼす影響をどのように分析できるのかについて念入りに議論した結果、自分たちの枠組みである程度納得のいくような分析ができそうだ、という見通しをつけることができました。

限られた時間の中で、もちろん完璧ではないかもしれないけれど、まず私たちが1つの定量的な分析を提供しよう。そのように決めて、本格的に分析を開始しました。分析の過程でも、RAのメンバーは忌憚なくさまざまな意見や提案を出してくれて、議論しながら進めていきました。その中で、やはり「人々の感情」という要素は非常に重要だという話になりました。

それこそ、経済学者が突然出てきて、上から目線で「理論的にはこうなんだ」「エビデンスに基づくとこうなんだ」と言ってしまうことで、どんなに分析の質が高かったとしても反感を買ってしまい、政策議論にまったく貢献できない可能性もあります。そうしたリスクも含めて、さまざまに議論したうえで、それでも結果を公表すべく取り組んでいきました。

仲田 加えて、まず私たちが1つの分析結果を公表することで、他の研究者たちも続いて分析が出しやすくなるのではないか、という思いもありました。当時の世の中の雰囲気を考えると、多くの研究者チームはなかなか五輪の分析をしてそれを世の中に提示しようという気持ちにはなれなかったと思います。政策議論にどれくらい直接的に貢献できるかはわかりませんでしたが、少なくとも、そういった研究者コミュニティの空気を変えることには貢献できるのではないか、と考えていました。

ただ、五輪開催は人々の関心が非常に高いだけにリスクも高いので、分析や結果の見せ方には細心の注意を払って、今まで以上に慎重に進めました。分析コードも、藤井さんを含むチームのメンバー3人がまずそれぞれ独立にコードを書いてきて、同じ結果が得られることを確認するという形での検証プロセスで進めました。もちろん普段の毎週更新でもかなり気をつけていますが、五輪分析に関しては「間違いを犯すことだけは避けたい」という気持ちが特に強く、これまでの分析とはまた違った緊張感を持って進めていきました。

―― 確かに、五輪開催については議論がかなり感情的で、その是非についてもさまざまな方向から意見が飛び交っていたと思います。

藤井 その時点でよくあった意見としては、「海外から10万人以上もの人々が日本に入ってきたら感染が爆発するのではないか?」というものでした。一見するともっともらしい主張な気もするのですが、果たして本当にそうなのか。まずはこの点について、ちょっと立ち止まって考えてみようということから分析を始めました。

まず考えたのは、「五輪のために海外から入ってくる人は、一般的な日本人と比べて、リスクの高い人たちなのだろうか?」ということです。ワクチン接種が進んでいる国から来日する人々も相当数いるでしょうし、そもそも選手やその関係者の方々にとっては競技に出場できるか否かを左右する重大な問題なので、一般的な日本人よりもはるかに感染対策に気を遣うはずです。加えて注意すべきは、人口の規模です。東京都だけで約1400万人もの人口を抱え、その中で毎日何百万人もの人々が移動しています。そこに、海外から入ってくる10万人が原因で、果たして感染爆発が起きるだろうか。この点を改めて考えてみて、まずは冷静かつ客観的に、数字で示さなければダメだと思いました。

2 定量分析から得られた気づき

仲田 五輪分析も、毎週更新の分析と同じく「学術研究」ではなくて、あくまでも「政策分析」です。ここで私たちが果たすべき役割は、完璧な研究成果をまとめることではなく、「与えられた時間内でベストを尽くし、議論や意思決定の参考になる分析結果を提供する」ということです。こういう意識で、できるだけ急いで、しかし細心の注意を払って分析を進めていきました。多様で複雑な現実の状況の細部までを捉えて完璧な分析を出そうと思うと本当にキリがないのですが、シンプルな分析で本当に重要なポイントをおさえて、できる限り政策インプリケーションの高い結果を提供することを目指しました。

たとえば、五輪分析について議論を始めた当初は、疫学モデルの中で想定する人々を複数のグループに分けて、「国内の人々」と「海外から来た人々」を区別して分析するといったことも考えていて、実際にコードを書いてみました。しかし、使い慣れていないモデルを使うと間違いを犯してしまうリスクも高まります。それで、最終的には使い慣れている従来通りの単一な人々を想定した疫学モデルを使って、五輪開催とともに海外から人が入ってきて国内の人口が増えるという設定を置いて、分析を行うことにしました。

こういう設定では、五輪選手や関係者も一般的な国内の人々と同じように行動する仮定になるのですが、藤井さんも言われたように、実際には選手や関係者の方々は一般的な日本人よりも慎重に行動すると考えるのが自然です。そういう意味では、私たちの分析結果は、海外から入ってくる人々がもたらす影響の上限値を示すものだと解釈できます。影響の上限値として捉え、結果としてその上限値が小さければ、それは重要な政策含意を持ちます。私たちの五輪入国者による感染への影響の分析には、そうした意味がありました。

五輪入国者の感染への影響は非常に限定的であるとの結果が得られましたが、正直分析を始める前はこのような結果をまったく想像していませんでした。当時の毎週更新の分析結果から、その時点でも五輪開催時期に東京や国内の感染状況は収まっているとは考えにくかったので、分析を始める前は、感染拡大抑制の観点からは海外から10万人もの人々をお招きすることは非常にリスクが高いのではないか、と漠然と考えていました。

藤井 そう。実際に定量的な分析を行ってみるまでは私たちもそう考えていましたよね。

仲田 この点はやはり実際に手を動かしてみないとわからないというか、実際にちょっと立ち止まって考えてみないとわからない部分です。

でも、いったん言われてみると、この結果は非常に納得感があります。東京都では1400万人の人々が緊急事態宣言中でも毎日活発に動いています。毎日数百万人の人々が通勤・通学し、いろいろと制限はありますが、社会・文化・経済活動がある程度のレベルで行われています。そのように毎日1400万人が活発に動き回っている中で1日の新規感染者が数百人という状態です(7月後半からは数千人という単位になりましたが)。そんな中、その人口の1%に満たないワクチン接種の進んだ人々が東京に数週間滞在することによる直接的な影響が限定的である、というのは言われてみると自然です。

分析を始める前の私たちのように思い込んでいた人は、当時多かったと思います。外国人が10万人ほど入国してくることのリスクは高いだろうと。実際に、感染症・公衆衛生の専門家の一部の方々はそのような発言を公の場でしていましたし、私の友人の多くも、「なんとなく」五輪入国者のリスクは非常に高いと思っていたようでした。

―― 海外から新たな変異株が持ち込まれるのではないかという心配も強く、そうした不確実な事態が生じることへの不安も大きかったはずです。

仲田 そういうテールリスクも重要です。まったく注目はされませんでしたが、私たちの資料でもそのリスクに関するシミュレーションを提示し、水際対策の重要性を強調しました。ですが、そういったテールリスクを除けば、五輪のために海外から入国する人々の特性や置かれる環境、そして人数の規模を考慮すると、入国者による影響自体は限定的だろうというのが、私たちの得た結果でした。

―― そうして提示されたのが、「海外からの入国・滞在者約10万人による感染への影響は限定的である一方、五輪開催による国内の人流増が感染に及ぼす影響は非常に大きくなりうる」というものでした。これは、実際に言われてみれば直感的にも理解しやすく、メッセージ性の強いものだったと思います。

仲田 研究でもそうなのですが、「言われてみると当たり前」「喉から出かかっていた」という評価は分析者冥利に尽きます。そういうポイントを定量的に示して多くの人々に納得していただくのが、モデル分析の重要な役割だと思っています。

3 第1弾の定量分析を公表

―― 次に、分析の詳細についてお伺いします。最初は、5月21日(金)に公表された「五輪開催の感染への影響:定量分析でした。

仲田 前述した通り、この分析は誰かに頼まれてやったわけではなく、自分たちの意思で行いました。そして、この分析の公表も自分たちの納得のいく形で細心の注意を払って行いました。

公表する前に政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会や厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードのメンバーなどをはじめ、さまざまな方々に目を通していただき、誤解を招くような表現がないか、結果におかしな部分はないか等々、コメントを求めました。そこでは、多くの方々から「非常に参考になるし、納得感もある」「われわれもそのように考えていたが、こういった具体的試算があると自信が持てる」「こういう分析を示してくれたことで議論が前に進む」といった好意的な言葉をいただくことができました。実際に、次の週から「国内人流抑制が鍵」ということを公の場で発信してくれた専門家の方もいました。以前の分析や参考資料ではここまでのステップは踏まなかったのですが、五輪分析では特に慎重を期して、このように関係者の方々による確認を経てから公表に踏み切りました。

実際に公表する際にも非常に注意して、見せる結果や説明する言葉を選びながら発信しました。5月23日(日)には、Zoom説明会を開催し、約60人ものメディアの方々にご参加いただきました。そこで2時間半強、とにかく誤解がないように、質疑応答にも十分に時間を使いながらじっくり丁寧に説明しました。その甲斐もあってか、私たちの伝えたいメッセージはメディアの方々にも十分ご理解いただくことができて、実際の報道でもほとんどの場合はもとの意図を正確に伝える形で発信していただけたと思っています。

ただ正直に言うと、この分析を公表するのは非常に怖かったです。ウェブサイトにスライド資料をアップロードした後も、プログラムのミスで数字がおかしなことになっていたらどうしようとか、桁が違っていたらどうしようとか、不安でした。

Zoom説明会直後の夜、すぐに産経新聞さんが電子版で報道してくださり [注1]、翌月曜日には日本経済新聞さんをはじめとするさまざまなメディアで報道いただきました [注2]。個人的には、月曜日の朝、テレビ朝日のニュースの中で1分くらいの報道を見たときに [注3]、「もう後戻りできないな」と改めて感じました。このテレビ朝日のニュースは、私たちの込めたメッセージのすべてを短い時間で非常に正確に伝えてくれました。この報道を見て、私たちの分析は今後うまく伝わっていくだろうと思い、安心もしました。

[注1]五輪選手ら入国の影響『限定的』 東大院准教授ら感染者試算」産経新聞、2021年5月23日付。
[注2]五輪入国『感染増は限定的』 無観客など人流抑制が必要」日本経済新聞、2021年5月24日付。
[注3]五輪選手らの入国 感染への影響『限定的』の試算」テレ朝news、5月24日付。

藤井 実は分析を始めた当初は、海外からの入国者の影響だけにフォーカスした枠組みで考えていたんです。それで計算してみたら、影響が非常に小さいという結果が出たんですよね。これについては、よく考えてみれば納得できる結果だと思いました。先ほどもお話ししたように、東京都の人口は約1400万人で入国者は約10万人ですから、規模としては東京都の人口の1%にも満たない、0.7%程度です。そのため、その10万人を起点として感染爆発が生じるようなことは、未知の変異株などといったテールリスクを除けば、ちょっと考えにくいことではあるんですよね。しかし、この結果だけを公表するとかなり偏ったメッセージになってしまいます。当然、「五輪開催は大丈夫」というメッセージとして受け取られてしまうでしょう。五輪開催に誘導しているような結果ありきの分析だと捉えられてしまうリスクがあります。

五輪開催の是非に対していろいろな意見がある中で、私たちの分析がそのように1つの方向に議論を誘導するのは望ましいことではありません。そこで、各関係者にレポートを共有する2、3日前に、五輪開催に関連する感染拡大リスクとして、他に考えうる要因の中では何が重要だろうかと再検討しました。当時、五輪は有観客での開催が目指されており、多くの人々がスタジアム等に詰めかける可能性がありました。加えて、ライブサイトやパブリックビューイングなど、さまざまな関連イベントも計画されていました。そのため、五輪開催とともにお祭り騒ぎのような雰囲気も出るかもしれない。それで、こうした形で五輪開催が国内の人流増加に影響を与える可能性は非常に大きいだろうと考えて、「五輪開催による国内人流増加の影響」として、追加で分析を進めることにしたんです。そして、この国内人流の影響までを含めて考えれば、五輪開催が感染に及ぼす影響は非常に大きくなりうる、というメッセージを加えました。

最終的には、開催の影響を「入国者による影響」と「開催による国内人流増という形で生じる影響」に区別して定量的に分析した結果、「海外からの入国者以上に国内人流増に注意すべきだ」というメッセージに落とし込んで発信しました。この結果は、五輪開催の是非を考えるさまざまな意見・立場の人々の間でバランスのとれたメッセージになったと思います。多くのメディアも、五輪の影響について「海外からの入国者の影響は限定的」だけでも「国内人流増で感染拡大」だけでもなく、これら2つの可能性にきちんと言及したうえで、「国内人流増を抑えることが鍵」というメッセージまで含めて、正確に伝えてくれました。

―― その後、5月24日(月)には「人流が6%上昇した場合」というリスクシナリオが追加されたバージョンのレポートも公表されています。これには、どんな意図があったのでしょうか。

仲田 21日に最初の結果を公表した後に、インターネット上で「五輪開催派が、結論ありきの数字を出している」といった内容の批判が結構出ていたのを目にしました。相当慎重に分析を提示したつもりでも、やはりメッセージを伝えるのが難しい場合もあります。それで、公表したレポートの示し方では国内の人流増が感染拡大に及ぼしうる影響に注意が向けられにくいのではないかと考え直して、より大きなリスクに基づく注意喚起的なシナリオ分析も提示した方がよりバランスがとれると思い、さまざまなパターンを想定して検討しました。そのうえで、公表3日後の24日に「人流6%増」のケースをリスクシナリオとして追加したバージョンを公表することにしました。

この注意喚起的なシナリオを追加したことで、よりバランスのとれたレポートとなったと思います。リスクシナリオを追加した図は、後に公表される「尾身提言 [注4] にも使用してもらって、五輪開催によるお祭りムードの広がりによる感染拡大に警鐘を鳴らす役割を果たせたと考えています。「五輪入国の影響が限定的」という結果よりも「人流増加で感染拡大」という結果に重点を置いた報道がなされることも多々ありましたが、そうなったことは「できるだけ中立の立場から異なる立場の人々が議論をする際の参考となる分析を提供すること」を目指す私たちにとってはありがたいことでした。

[注4] 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会開催に伴う新型コロナウイルス感染拡大リスクに関する提言」コロナ専門家有志の会、2021年6月18日。

話は変わりますが、メディアを通じたコミュニケーションで気をつけなければならないのは、どのような形容詞で分析結果を表現するかということです。私たちは「限定的」という言葉を選びましたが、それをたとえば「さざ波」などと表現することもできたわけです。でも、そのような表現をしてしまったら、レポートの中でどんなに質の高い分析を行い、優れたインプリケーションを提示していたとしても、もうそれだけでアウトですよね。冷静な気持ちで一般の人々に受け止めてもらうことはできません。ですから、言葉遣いについては注意を払って、いろいろな人にアドバイスももらいながらまとめていきました

―― 先生方が取材や資料の中で使われた言葉は、そのままメディアの方々も使ってくださるものなのですか。

仲田 基本的には正確に使ってくださいますね。だからこそ、誤った言葉遣いや不適切な表現をしてしまったときの影響も大きいわけです。資料に書き込むときもプレゼンするときも、1つひとつの言葉遣いが重要になってきます。

藤井 加えて、私たちとしては当初から、コロナ禍での五輪開催は、多くの人々にとって感情的にとても複雑であり、人々の多様な感情を真摯に受け止めることはとても重要だ、というメッセージを公表する資料に常に明記して発信してきました。私たちが定量分析を示すことで貢献したかったのは、「もしかしたらまったく事実に基づいていないかもしれない強い思い込み」によって、異なる立場の人を自分でも不本意に、そして不必要に傷つけてしまうような不幸をなくしたい、ということでした。そのためにも、資料の書き方や説明の仕方については、なるべくさまざまな立場の方々に納得感を持って受け止めていただけるように、最大限の努力をしてきたつもりです。

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仲田 そうですね。分析から発信まで、自分たちの持てるすべての力を使い切って五輪分析に臨みましたよね。

―― その後、6月からは第2弾分析として、五輪の観客数試算やコロナ禍で開催されてきた大規模イベントの考察も含む、より詳しいレポートを公表されました(表1参照)。この点については、別の機会にまたお話を伺えればと思います(書籍版に収録予定)。

表1 観客数試算および第2弾の五輪分析に関する資料一覧

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→「Covid-19と経済活動」の「参考資料」のページを参照。

―― また、2021年8月20日には「五輪開催の感染への影響:振り返り」と題したレポートも公表されました。この資料では、5月・6月に公表した五輪開催の定量分析を振り返り、そこで提示されていた数字・メッセージが妥当であったかを、実際の開催環境や社会の状況を整理しながら議論しています。

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4 研究者と政策現場の関わり

―― 五輪開催は政治的にもきわめて重要な案件だと思いますが、政府の方々や組織委員会とのやりとりも頻繁に行われていたのでしょうか。

藤井 五輪分析に関してもやりとりはいくつかあるのですが、私たちが第2弾レポートを公表する約1週間前のタイミングで、内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室から、五輪開催の影響についていくつか指定された設定で分析を出してほしいというご依頼をいただきました。このときは、尾身茂会長・西村康稔大臣から直接ご連絡をいただく形で、第2弾分析でご協力いただいた千葉安佐子さん(東京財団政策研究所博士研究員)、および他の分野の研究者数名も含めてご相談いただきました。

ご依頼にはお応えして間接的影響分析の結果を提出したのですが、五輪の延期が決まったのは1年以上前だったので、もう少し早い段階から客観的事実を整理したうえでのリスク評価分析を進めておくべきだったのではないかと思います。この点では、日本の政策決定プロセスには改善の余地があると言えるでしょう。

仲田 これはコロナ分析で関わってみて一貫して感じているところなのですが、とにかく、データ分析やモデル分析を参考にしつつ意思決定するというカルチャーが政策現場にもっと浸透してほしいと願っています。政策の現場にはそれを求めている方々がたくさんいらっしゃって、その気持ちは非常にありがたいです。ただ、改善のためには具体的にどうすればよいのか、という点に関してはいろいろと試していくしかないように思います。

藤井 その点については、政策判断の場に関わる人々だけでなく、多くの国民の方もそれを求め始めているようにも見えますよね。五輪開催を控えて「安心安全」を謳ってはいるけれども、具体的にそれは何を意味しているのか、何か理解を助ける数字や科学的根拠はないのかと。発言や政策の根拠を求める声は、コロナ対策が長引き、緊急事態宣言が繰り返し発令される中で、日増しに強くなっていったように感じています。それを感じた政府が、ようやく土壇場で慌てて対応しようとしていたようにも映るんですよね。国民にとっても当初から関心のある部分ではあったと思うので、政策形成の現場でも早くから定量的・科学的な分析に基づいて議論するというマインドが広がっていればよかったのに、という思いはありますね。

仲田 データ分析・モデル分析の政策への活用という点をもっと大局的に考えると、政策現場側に改善できるところがある一方で、研究者側にも改善の余地があるということについて強調させてください。

具体的には2つあります。1つ目は、「政策現場が必要としている分析を提供すること」です。五輪開催が感染にどのような影響を与えるのか。この問いに対する科学的な知見を政策に反映させたいならば、まずはそういった分析を政策現場に提供しなければなりません。コロナ分析に関わる日本の研究チームは、私たちのチームを除いて、政府にお願いされるまではそういった分析に取り組んできませんでした。6月中旬になって、内閣府からの依頼もありいくつかの研究チームが会場人流・間接的影響に関する分析を提供しましたが、限られた時間でできる分析には限界があります。重要な政策に関する質の高い分析が研究者から早い段階で提供されなければ、政策現場の人々は科学的知見を政策に活用しようがありません。

研究者は職業柄、論文として業績を残すことにこだわります。また、テニュアのない若手研究者には、業績につながらない政策分析をしている余裕はなかなかありません。「政策含意の高い研究」は重要で不可欠ですが、それと同時に「論文にはならないけれども、意思決定に必要な政策分析」も重要です。五輪分析は、まさに後者だと思います。研究者のインセンティブを考慮すると、後者が社会的に最適なレベルで世の中に提供されにくいのかと思います。もし、このような危機の最中にデータ分析・モデル分析をリアルタイムで政策に活かしたいならば、一部の研究者が研究論文を書く時間を犠牲にして政策分析に取り組む必要があると考えます。

2つ目は、「分析結果の政策含意を政策現場の人々がわかる言葉で説明すること」です。コロナ関連の政策現場の方々は、とにかく忙しくて疲労しています。また、知事・大臣・総理レベルになると、コロナ以外にも重要な案件をたくさん抱えています。そういった中で、もし研究者に現場の方々とお話しをする時間をいただけるのならば、その限られた時間の中で分析のエッセンスと政策含意をわかりやすく伝える努力をしないと、現場の人々の頭には何も残りません。

さまざまな場面で、コロナ分析に関わる研究者が分析を政策現場の方々に発表する様子を観察しましたが、「いい分析だけれども、これでは伝わらないな」と思うことが多々あります。たとえば中央銀行では、わかりにくいプレゼン資料にはブリーフィングの前に上司・同僚から何度も赤ペンが入ります。そういった経験を何度も何度も繰り返すことで、「非専門家にわかりやすく伝える技術」が身に付いていきます。実務経験の少ない研究者の方々には、そういった訓練を受ける機会がこれまでなかった人もいるのかもしれません。

個人的には、研究者のコミュニケーション能力の向上が、今後科学的知見をいかに政策に活かせるかの最重要課題だと考えています。このコロナ禍で、中央銀行では(そして、おそらく多くの民間企業でも)なかなか受け入れられないようなわかりにくい資料が、研究者側から政策現場に提示されているのを何度も目にしました。そのような状況でも、文句を言わずに研究者の知見を求めてくださる現場の方々には頭が下がります。自分としても、わかりやすい資料をつくる技をさらに追及していく必要を感じています。

7 おわりに

―― ここまで五輪分析についてさまざまに伺ってきましたが、すべてが第1弾分析をスタートさせてから1カ月くらいの間に起きた出来事ですよね。本当に時間勝負の短期決戦だったんだなと、改めて感じました。実際には、五輪は無観客で開催され、その後の全国の感染状況は厳しいものとなっています。このような状況を、お二人はどのように感じているでしょうか。

藤井 五輪開催時点から7月末頃までの感染状況を鑑みると、無観客開催は妥当な選択だったのかもしれません。また現場の対応は大変だったとは思いますが、その過程でギリギリまでさまざまな選択肢の可能性を残しながら進めていったという点については、意思決定プロセスとして適切だったのではないかなとも感じています。

また、五輪関係者で陽性者が出ているという報道も目立ちますが、その中において相対的には国内在住の関係者の感染が多いようです。その場合、五輪を開催したから感染したのか、それとも他の生活の場に潜む要因で感染してしまったのかを区別することが非常に難しくなりますが、いずれにせよ、五輪開催による海外からの入国者がもたらす直接的影響については限定的なのではないかという印象を持っています [注5]。一方で、7月末現在のように感染者数が爆発的に増えている状況を考えると、開催した方がよかったか、あるいは中止すべきだったかは一概には言えないのですが、改めて間接的影響の定量化は難しいということも強く感じています。

[注5] 7月1日から8月12日の間での五輪関係者の感染者数は533人。1日平均にすると12.4人で、第1弾レポートで提示された15人とほぼ同じになっている(「COVID-19 Positive Case List」)。

仲田 五輪を中止するのか開催するのか、開催するとしたら観客はどうするのかといった問題は、政治的な要素もあり、国民の大きな関心事でもありました。そして、藤井・仲田チームにとっては、非常にリスクの高い分析でした。コロナ分析に関わる研究者の中には「自分にはとてもやる勇気はなかった」と言われた方もいらっしゃいましたし、おそらく多くの研究者はそのように考えていたと思います。しかし、きちんと準備して、きちんとした分析を提示すれば、それをしっかり受け止めていただける土壌はあるんだということを、今回の五輪分析を通じて実感できました。この点は、日本のデータ分析・モデル分析の政策活用の未来にとって非常に明るい要素だと思います。こうした重要な政策問題をタブー視せずに取り組んでみると、経済学の立場でも大きな貢献ができると思います。経済学の応用範囲は非常に広いので、ぜひ経済学者の方々にさまざまな政策分析に積極的にチャレンジしてほしいと思います。

おそらく研究者が普通のマインドでこういう分析に取り組もうとすると、とにかく「完璧な分析にする」ことに持てる力のほとんどをつぎ込んでしまうと思います。しかし、先ほどもお話ししたように、その力の半分を「どのようなメッセージを引き出すか」「どのような言葉でどのように発信するか」というコミュニケーションの部分に充てなければ、そもそも現場の方々に知見が伝わることはありませんし、研究者にとってもリスクが大きくなってしまうという点も改めて強調しておきたいです。

また、こうしたチャレンジは、やはり1人では不可能だと思います。もし私が1人でスライドをつくって発表していたら、どんなに頑張っても、おそらく切り取られ放題で、四方八方から非難を浴びたり、伝えたいメッセージが伝わらないまま誤解されたり、といった結果に陥ってしまっていたと思います。私はすぐに藤井さんに相談することができる環境でしたし、その他の研究者や知人にも相談できました。さらに、チームのRAたちに意見を求めることもできました。そのような過程を経て、どんどんコミュニケ―ションリスクを減らすことができたという手ごたえを感じています。五輪分析は、膨大な時間と労力をかけた大変な作業になりましたが、逆に考えれば、ある程度コミュニケーションのリスク管理をきちんとやっておけば、私たち研究者が非常にセンシティブな政策に関しても貢献することができるということだと思います。

[2021年7月29日収録]

■仲田泰祐・藤井大輔「Covid-19と経済活動」ウェブサイト:

■プロフィール

仲田泰祐(なかた・たいすけ)
東京大学大学院経済学研究科および公共政策大学院准教授。
2003年にシカゴ大学経済学部を卒業し、同年よりカンザスシティ連邦準備銀行調査部アシスタントエコノミスト。2012年、ニューヨーク大学Ph.D.(経済学)取得。
同年より連邦準備制度理事会(FRB)調査部エコノミスト、同シニアエコノミスト、同主任エコノミストを経て、2020年4月より現職。
専門はマクロ経済学、金融政策。『経済セミナー』にて、2020年12月・2021年1月号より「ゼロ金利制約下の金融政策:FRBの政策運営」を連載中。
藤井大輔(ふじい・だいすけ)
東京大学大学院経済学研究科特任講師。
2007年、アメリカ創価大学にてリベラルアーツの学部課程を卒業。その後2009年にハーバード大学にて修士号(統計学)、2014年にシカゴ大学Ph.D.(経済学)を取得。
南カリフォルニア大学経済学部研究員、カリフォルニア大学ロサンゼルス校経済学部講師等を経て、2018年より現職。
専門は国際貿易、企業間ネットワーク、マクロ経済学。


なお、下記(経セミ増刊号)のChapter 2では、「政策と経済学をつなぎ、コロナ危機に挑む」と題した仲田・藤井先生へのインタビュー記事が収録されています。モデルのエッセンスや分析のねらいなどがより詳細に語られています。その他、経済学の立場から新型コロナの影響のさまざまな側面を多角的に分析した19本の記事が収録されています。


サポートに限らず、どんなリアクションでも大変ありがたく思います。リクエスト等々もぜひお送りいただけたら幸いです。本誌とあわあせて、今後もコンテンツ充実に努めて参りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。