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【インタビュー】社会人を経て米国経済学Ph.D.へ

この note では、社会人の米国経済学Ph.D.受験記、「出願準備編」と「出願後・渡米準備編」をご執筆いただいた 八下田聖峰(やげた・きよたか)さんに、米国Ph.D.への進学にまでの背景などをインタビューしていきます!


1.  はじめに

編集部 八下田さんは、東京大学で経済学修士号を取得後、正社員としてフルタイムで働きながら米国の経済学博士課程(Ph.D. in Economics)に出願し、カリフォルニア大学バークレー校に進学されました。その出願時のご経験、および出願後から渡米まで準備の詳細は上記の note にまとめられていますが、本稿では働きながら国内の博士課程に進み、その中でどのように米国Ph.D.への進学を決意するにいたったのかをお聞きしていきたいと思います。それでは八下田さん、まずは改めて自己紹介から、よろしくお願いします。

八下田 八下田です。2022年夏からカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley;以下「UCバークレー」)の経済学Ph.D.課程で学んでいます。現在関心のある分野は、行動経済学や応用ミクロ計量経済学です。現在は、eBayのデータを用いて、交渉(bargaining)における、経済学のモデルでは説明できないパターンについて研究をしています。

2018年に東京大学経済学部を卒業し、2020年に同大学大学院経済学研究科修士課程を修了しました。その後、2020年4月から2022年3月までの2年間は、平日はフルタイムで社会人として働きながら、同大学大学院経済学研究科の博士課程に在籍していました(注:より詳しくは、【ホームページ】を参照)。

2.  米国Ph.D.進学までに経験したこと

編集部 修士課程修了後は、働きながら東大の博士課程にも在籍しておられたのですね。

八下田 はい。「就職するか、それとも修士課程や博士課程に進学するか」は、これまでの自分の経験を振り返っても、かなり難しい選択だったと感じています。実際、私自身も現在にいたるまでに何度も方向転換しました。まず学部生の頃からの経験を、少し振り返ってみたいと思います。

もともとは理系で入学したものの、学部2年生(2015年)の夏に進学する学部を選択する際に、文系である経済学部に「文転」しました。東大の場合、理系に所属する多くの人が大学院に進学するのですが、当時の私は研究がしたくなくて、学部卒業後に就職をしようと思って経済学部に進むことにしました。

ところが、幸いなことに同期や先輩、先生方に恵まれ、学部3年生(2016年)の冬頃には、経済学部で学ぶ中で経済学のおもしろさに気づき、今度は修士課程への進学を目指すようになりました。また、東大の経済学修士課程では、修了後に海外Ph.D.を目指す方も少なくなく、私自身も海外Ph.D.への進学を視野に入れ始めました。しかし、修士1年生(2018年)の秋ごろに、偶然ある会社の方からお誘いをいただく機会があり、海外Ph.D.進学と非常に悩んだ末に、東大の博士課程に進学しつつ、その会社に入社することを決断しました。

編集部 UCバークレー進学の前から、すでに研究と仕事の両方に取り組んでおられたのですね。そこから、研究に専念しようと思ったきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

八下田 2020年4月からは博士課程で研究しつつフルタイムで働いていたのですが、正直研究と仕事の両立は難しいと感じていました。またその後、2021年(東大博士課程2年目)の春頃、やはり海外Ph.D.への進学を諦めることができず、恩師からの勧めもあって、出願を決意するにいたりました。その詳細は「出願準備編」と「出願後・渡米準備編」で述べた通りですが、2022年の夏にUCバークレーの経済学Ph.D.課程に進学することになりました。

これまで行ったり来たりの決断で、それが正解だったかどうかはわかりませんが、少なくとも後悔をしたことは一度もありませんし、そう思えるくらい真剣に悩みながら決めてきたと思っています。

ただ、実際大変だったことはたくさんありますし、私自身は運がよかったからどうにかなっているけれども、自分のこれまでの進路を全員に勧めることはできないと思っています。とはいえ、自分としては社会人経験を経ることで得たものも少なくなかったと感じていますし、私のような経歴だからこそ伝えられることもあるのではないかと思っています。

3. 「博士課程、止めはしないが、勧めもしない」

編集部 これまでの経緯やご経験、ありがとうございました。それでは少し時間を巻き戻して、社会人と博士課程の比較などから改めてお伺いします。博士課程への進学については、どなたかに相談されたりしたのでしょうか。

八下田 はい。博士課程への進学に悩んでいて、学部・修士課程でお世話になっていた先生に相談しに行きました。その際に、博士への進学は「止めはしないが、勧めもしない」という言葉をいただきました。当時は「自分に実力がないから勧めてもらえないんだ……」と感じていたのですが、今になってそのときの先生の意図が理解できた気がしているので、その点をお話しできればと思います。

個人的には、この言葉は金言だと思っています。もちろん誰にでもに当てはまることではありませんし、博士課程を推奨していないわけでもありませんが、学部・修士在籍中の20~26歳の学生で、就職するか、博士課程に行くかで悩んでいる方には1つの参考になるのではないかと思います。博士号取得までのハードルや、学位取得後の収入など、一般に議論されていることは措いておいて、なぜこの言葉が金言だと感じたか。その理由は、自分が博士課程に在籍している間に自分の周囲の環境が変化していくということに関連します。この点は、実は非常に厄介な問題です。そしておそらく、この問題は学部・修士の時点でその後の進路で悩んでいるタイミングにはまったく感じることができず、博士課程進学後になってはじめて強く感じることになるのではないかと思います。

たとえば、修士課程に在籍しているときは、学部以降の友人は、社会人1、2年目くらいか、同じ修士課程に在籍しているか、というくらいだと思います。もちろん、人によってはその時点ですでにお金をたくさん稼ぐような方もいるとは思いますが、多くの友人たちは新しい環境に慣れるのに精一杯ではないかと思います。また、特に理系の場合は修士課程に進学する人も多く、自分の周りの人々の環境が変化したということを実感する機会は少ないでしょう。

そのため、あくまでも個人的な見解ですが、お金の問題が解決できていて、修士課程に進学したいという気持ちのある学部生にとっては、「国内の」修士課程に進むことについては個人的にお勧めできます。私自身も、修士課程に進学することによって、自分の価値が上がることはあっても下がることは絶対にないという確信があったため、修士課程の学費などの費用を工面できる目処が立ったタイミングで修士課程進学を決めました。

先ほど挙げた方とは別の恩師からは「修士課程は、アカデミアとインダストリーのどちらが自分にあうかを見極めるモラトリアム」と言われたことがあります。私自身、修士課程の間に自分の人生についてたくさん悩むことができたので、この言葉も間違いではなかったなと感じています。

編集部 周囲の環境の変化という点で、修士課程と博士課程はまったく異なるということでしょうか。

八下田 はい。博士課程に進学した後で周囲を見渡してみると、そこから見える景色がまったく変わっている可能性があると思います。基本的に、研究には「土日」という概念はあまりなく、土曜日だろうが日曜日だろうが祝日だろうが、研究し続けている人が多いと思います。しかし、友人たちはその頃社会人で3年目以上になっており、仕事に慣れ、お金にも余裕が出てきている時期になります。SNSなどを見ると、友人たちがおいしいご飯を食べに行ったり、ゴルフなどをしている姿を目にする機会が増えてくるでしょう。久しぶりに友人たちに会ったとしても、話題が合わなかったり、お金の使い方が学生のときとはかけ離れていて驚いてしまうことも少なくないはずです。

また、博士課程入学時点では若くても26歳くらいにはなっていると思うのですが、これくらいの年齢になると、周りの友人たちの中には少しずつ結婚する人も出てきます。早い人は、もうお子さんがいらっしゃるかもしれません。もちろん博士課程に在籍しながらプライベートも充実させることは可能だとは思いますが、そんな時間もなく研究に忙殺される中で、どんどん人生の階段を昇っていく友人たちの姿を目にすると、かなり不安になってしまうのではないかと思います。

この部分は、一般的な大学院進学に関する情報の中で言及されている例はあまり見かけません。実際に博士課程に進学してみないと感じることのできない部分でもあると思います。先生が「止めはしないが、勧めもしない」とおっしゃった背景には、こうした博士課程をとりまく現実もあり、それでも研究の道に進みたいかどうかは自分で考えるべきことで、その際にこうした点も判断材料の1つとして持っておくことは重要だと思います(ちなみに以前、その先生にお会いした際に再度聞いてみたところ、「覚えていない」とおっしゃっていたので、適当に言っていただけかもしれません 笑)。

4.  社会人経験から得られたもの

編集部 八下田さんは、最初は就職しつつ博士課程に進学することも選択されましたが、実際にそれを経験されてどう感じていますか。

八下田 そうですね。個人的には、社会人と博士課程は、どちらがいいかというものではないと思っています。社会人と博士課程を両方を同時に経験した期間は短いですが、その中でも社会人として感じた良いこと・悪いことと、博士課程で感じるそれらはまったく異なっていると感じました。極論を言うと、これは各人が自分で判断するしかないことだと思うのですが、両方を経験したうえで博士課程に専念する形でアカデミアに戻ってきたような人間は多くはないと思うので、次はそのあたりについて感じたことをお話しします。

就職する当時、先に登場した2名の先生方とはまた別のお世話になった先生に、「社会人になるけれども、やはり海外Ph.D.進学を諦めきれずにまた戻ってくるかもしれない」と伝えたところ、その方からは「そう言って社会人になった人が戻ってきたことはほとんどないから、君も帰ってこないと思う」と言われました。当時はそんなことはないだろうと思っていたのですが、今になって、その方の言葉はかなり的を射ていたようにも感じています。なぜかというと、社会人から博士課程に戻ってくるには金銭的・非金銭的なものも含めて、かなり大きなコストがかかるからです。

パッと思いつくだけでも、社会人から博士課程に戻る場合にかかるコストとして、以下のようなものが挙げられます。

  • 社会人という安定した立場から、学生という不安定な立場に少なくとも3年以上はとどまることになる

  • 働いてお金をもらう立場から、お金を払って勉強・研究する立場になる

  • 博士号を取得できるかどうかもわからず、学位取得後のキャリアも不安定である

まだまだいろいろなコストが考えられますが、上記だけでも、普通は社会人という立場を捨てて博士課程の学生になろうとは思わないのではないでしょうか。それでも博士課程に戻りたいと思う人がいれば、その方の博士課程進学・研究への想いはそれだけ本気だということなのかもしれません。

編集部 米国Ph.D.に進学する前に社会人も経験してよかったと思うのは、特にどんなところでしょうか。

八下田 心理的な面としては、以下の4点が挙げられると思います。

  • 実際に社会人を経験することで、博士課程との比較ができた(金銭面、自由度、やりがい、など)

  • 収入を得ることで金銭的に余裕が出たため、自分の選択肢の幅が広がった 

  • 社会人を経験する中で、改めて海外でPh.D.をとることの重要性に気づけた

  • 社会人への未練がなくなった

2つ目については「出願準備編」でも述べたとおり、海外Ph.D.への出願にはかなりのお金がかかります。特に自分は英語で苦労したので、社会人を経ていなければ金銭的に出願は困難でした。また、大学などから奨学金が出るとしても、「出願後・渡米準備編」でも述べた通り合格後にも結構お金がかかるので、多少なりとも貯金があることで気持ちが楽になりました。

3つ目については、学部・修士在籍時から恩師に「海外Ph.D.は将来世界で活躍するための運転免許証・パスポートのようなもの」と言われており、なんとなくその価値についてはわかっていたつもりだったのですが、社会人になってさまざまな仕事を経験する中で、改めて専門性と英語は大事だなと実感することができました。また、近年米国経済学Ph.D.では、卒業後アカデミア以外の職業に就職することも増えてきています。たとえば、以下に2022年度UCバークレー経済学Ph.D.課程卒業生の就職実績を示していますが、その約半数がアカデミア以外の職に就いています(ただしこの年度はアカデミア外の割合が多い方ですし、もちろん大学や時期によっても異なります)。


2021-2022 (Jobs Starting Fall 2022)

■ Academia

  • LMU in Germany, Department of Economics; Assistant Professor

  • National University of Singapore, Department of Economics; Assistant Professor

  • Oxford University, Department of Economics; Associate Professor and Tutorial Fellow in Economics at The Queen’s College

  • Toulouse School of Economics, Department of Economics; Assistant Professor

  • UC San Diego Rady, Department of Economics & Strategic Management; Assistant Professor

  • University of Chicago, Department of Economics; Assistant Instructional Professor

  • University of Oxford Saïd Business School; Finance Department; Associate Professor

  • Princeton University; Industrial Relations Section Postdoctoral Research Associate

  • Yale University, MacMillan Center; Postdoctoral Associate and Lecturer

  • UC Berkeley, Center for Applications of Mathematics and Statistics to Economics; Postdoctoral Fellow

■ Government

  • Consumer Financial Protection Bureau, Research Unit; Economist

  • World Bank, Development Impact Evaluation (DIME); Economist

  • US Census Bureau, Center for Economic Studies; Economist

■ Research

  • briq Institute on Behavior & Inequality; Postdoctoral Fellow

  • Employ America; Senior Economist

  • Center for Global Development; Postdoctoral Researcher

■ Industry

  • Amazon; Applied Scientist

  • Google; Economist

  • Uber, Middle Mile Market Place; Research Scientist

(注:UCバークレー・ウェブサイト「Graduate Program PROFESSIONAL PLACEMENT」より。2024年1月2日アクセス)


最後に4つ目(「社会人への未練がなくなった」)についてですが、私の性格を考えるとこれが一番重要だったかもしれません。上でも述べた通り、博士課程に進むと、自分の生活と社会人をしている周りの生活は極端に異なります。隣の芝生は青く見えるように、社会人である友人の生活を羨ましく思ったり、なんで自分はこんなに苦しい生活をしているんだろうと思うこともあるかもしれません。ただ、一度社会人を経由していると、理由はなんであれ、自分が両方を比較したうえで決断した道なので、未練なく自分の研究に集中できたと思います。

また、上記の心理的な面以外にも、社会人経験は役に立ったと思います。チームで仕事をした経験は、共著のプロジェクトで役立っていると思いますし、私は外資系の会社にいたため、外国の方々とのプロジェクトを通して、異文化の人々との関わり方も学べたと考えています。そのうえ、社会人サイドに立つからこそわかる困難も数多く経験したので、どういうときに産学連携がうまくいかなくなるのか、などについての理解も深まりました。

以上より、個人的には、もし就職して社会人になるか博士課程に進学するかで迷っている方がいたら、まずは社会人になってみるというのも1つの手だと思います。そもそも、社会人になって、その生活が十分満足できるものであれば、それに越したことはないと思います。そして、その後改めて本気で研究をしたいと思うようなら、またアカデミアの世界に戻ってくるという選択肢もあります。ただし、先ほども述べたように、一度社会人になってから博士課程に戻るのは、モチベーションがあったとしてもかなり難しい決断にはなるので、この点も留意しておくことは重要ではないかと感じています。

5.  仕事と研究・出願の両立の難しさ

編集部 たしかに、仕事によっては実際に経験してみることで専門知識や英語の重要性を実感する機会が得られそうですし、もちろんお金の面では学生を続けているよりも余裕はできそうです。とはいえ、フルタイムで働いていれば研究などに割ける時間は少なくなりますし、体力的にきついこともありそうです。冒頭で研究と仕事の両立の難しさについても少し触れられていましたが、社会人をしながら研究や出願に取り組んだ際の困難などについて、少し詳しく教えてください。

八下田 そうですね。個人的には今述べたようなよかった点も少なくないのですが、実際に社会人博士を経験した身としては、やはり一般には社会人をしながら研究や出願に取り組むことを誰にでも勧めるのは難しいかなとも感じています。

仕事と研究が重なっている場合はまた別ですが、フルタイムで働いていれば基本的には平日の少なくとも9時から18時くらいまでは仕事に専念することになります。平日の仕事の後か、土日や祝日でなければ、自分のことに時間を使うことはできません。残業などが多い仕事の場合、仕事と研究の両立はさらに難しいでしょう。

私の場合は、休日出勤はほとんどなく、よい環境の会社ではありましたが、それでも研究については、すでに進行していたプロジェクトを進め、論文を改訂するくらいが限界で、社会人博士をやる中で新しく研究アイデアから練って新規のプロジェクトを立ち上げるのは厳しかったです。海外Ph.D.への出願についても、個人的にはかなり余裕のあるスケジュールで進めていたつもりだったのですが、最終的にはすべてがギリギリの準備になってしまいました。

特に自分が苦しかったのは、(1) 周りに同志がいないこと、(2) 数学の準備、(3) 英語(TOEFL)、の3つでした。

(1) 周りに同志がいないこと

私が社会人博士+出願を経験したのは2020~22年と、コロナ禍の真っ只中でした。当時多くの方々も経験された問題でもあったと思うのですが、研究でも出願でも授業でも、同じ環境の方々と情報を共有したり、相談したりできなかったことは非常に苦しかったです。それでも私は幸いなことに、すでに海外Ph.D.に進学していた同期や先輩がいたので情報収集にはそれほど困らなかったのですが、一方で、同じ境遇の友人と毎日会って愚痴を言いながら学生生活を送るのはとても幸せだったのだなと、この時期に痛感しました。出願後にXPLANEのような留学コミュニティがあることを知ったので、興味がある方はこちらで情報収集や同志をみつけるとよいかもしれません。

(2) 数学の授業

出願準備編」でも詳しくお話ししましたが、海外の経済学Ph.D.出願に際しては、数学の授業でよい成績をとることが重要だとされています。私は修士課程在籍時に数学の授業をあまり履修していなかったので、2021年春に出願することを決めてから、博士課程で数学の授業を履修することにしました。コロナ禍であり、授業の録画が閲覧できる環境だったりして、その点では本当に助かりました。しかし、数学の授業は基本的に難しく、1人で取り組むのではなく履修者の中でグループをつくって宿題に取り組んだりすることが推奨されています。にもかかわらず、コロナ禍でそのような機会はなく、友人たちと助け合うこともできず、仕事を終えた後で自分1人で宿題等に取り組むのは、かなりきつかったです。

(3) TOEFL

英語ができない自分が悪いと言えばそれまでですが、中でもTOEFLが最も苦しかったです。基本的に、フルタイムで働きながらTOEFLの勉強をして、受験をするような時間はあまり確保できません。そもそも、受験も土日や祝日にしかできないことが多いです。

仕事の後に毎日TOEFLの演習をし、貴重な週末の4時間近くをTOEFL受験に捧げるのは、端的に言って地獄でした(注:2023年12月時点では、TOEFLの試験時間は2時間に短縮されたようです)。実際、受験前の緊張や、受験終了後の疲れから、TOEFLを受けた日はそれだけで1日が簡単に吹っ飛んでしまいました。

社会人でお金に余裕があったからこそ何度もTOEFLを受験できたという面はありますが、毎週のように苦しい思いをして受験をし、目標値に到達することができず、また次の試験の予約をするというは、精神的にかなりきつかったことを覚えています。さらに、「出願準備編」でも述べたように、受験登録をしても、当日まともに受験できなかったような例もあり、TOEFL関連のストレスのかかり方は尋常ではなかったです。

編集部 社会人で博士課程+出願に取り組んだ中で、これはやってよかったと思うことがあれば教えてください。

やっておいてよかったことといえば、「フルブライト奨学金への応募」だと思います。これも「出願準備編」で詳しく紹介していますが、フルブライト奨学金には2年間の帰国義務があり、かつ他の外部奨学金と比べて締切のタイミングが早いため、海外Ph.D.を目指す方でもそれがネックとなって応募しない方も少なくないと聞きます。

しかし個人的には、締切が早いからこそ応募してよかったと感じています。というのも、フルブライト奨学金は、第1次応募の締切(5月末)時点で、研究計画書を提出する必要があり、早めに研究計画書を作成しておくことで、その他の外部奨学金の資料も、ある程度その際につくった研究計画書をベースにつくることができたからです。また、SoP(Statement of Purpose)も、それを利用して早い段階で第1稿をつくることができました。もしフルブライト奨学金に応募せず、研究計画書の作成を先延ばしにしていたら、大変なことになっていたのではないかと思います(もちろん、先延ばしをしない方はその限りではありません)。

また、これはかなり個人的な理由ですが、最後まで会社に残るか留学するかを悩みながら出願していたので、早い段階から研究計画書の内容を考えることで、将来のことなど、自分と向き合う機会がつくれたのもよかったと感じています。

6.  社会人博士になるために必要なこと

編集部 ありがとうございました。ここまでは海外Ph.D.への出願なども交えて、八下田さんのご経験やその中で思うところを伺ってきたのですが、最後に社会人博士についても具体的にお伺いできればと思います。最近は、働きながら学べる機会も増えており、どうすれば仕事をしながら博士課程に進むことができるのかについて関心のある方々も少なくないのではないかと思います。

八下田 そうですね。とはいえ、まず前提として、いわゆる「社会人博士」と普通の博士課程はやや異なるという点から整理しておきたいと思います。私は修士課程修了後、社会人などの枠ではなく、一般枠で博士課程に入学して、そのうえでフルタイムで働いていました。在籍していた東京大学大学院経済学研究科には、2020年から社会人博士の制度がありますが(注:東京大学大学院経済学研究科「博士課程入試について」2023年12月22日アクセス)、私はこの枠ではありません。勝手に「社会人博士」を称していて、一般的に言われる「社会人博士」とは厳密には異なるので、その点は明確にしておきたいと思います。

また、社会人博士とはいえ、実際のところ、1年目は修士論文の改訂と学会への参加、および学術雑誌への投稿をしたのみで、2年目はすべての時間を海外Ph.D.出願に充ててしまっていたので、社会人をしながら研究した経験はあまり多くはありません。

これらの点にご留意いただいたうえで、フルタイムで働きながら博士課程に進学するにはどんなプロセスが必要となるかをご紹介します。

(1) 会社への確認

まず必要となるのは、何といっても所属する会社への確認です。これは絶対に行う必要があります。私の場合は、修士課程修了後に、海外Ph.D.に進学するか就職するかについて悩んでおり、その時点で会社にも相談していたため、仕事をしながら博士課程に進学することについては以下の2点を条件に、すんなりと認めてもらうことができました。

  • 仕事を優先し、仕事には一切の悪影響が出ないようにする

  • 半年(1学期)を試用期間とし、期間中に業務に問題がないことを証明する

私の場合は、自分の研究内容の一部が仕事に関係していたこともあり、この点については問題なく認めてもらうことができましたが、一般的にはここが一番難しいかもしれません。

(2) 学業専念書の提出

会社から承認を得た後で、今度は大学側に博士課程に合格した場合にどうすればいいかを確認してみました。すると、「会社から学業専念に関する証明書を作成してもらい、提出してください」と言われました。博士課程への進学について、きちんと大学と会社の間で合意をとりましょう、ということだと思います。実際、たとえば2024年度の募集要項にも、この点に関する記載がありました(当時も同様でした)。

(6)  官公庁、企業、団体等に在職のままで入学を希望する者は、定められたカリキュラムに従って学業に 従事できるよう、入学手続の際に、「大学院に入学することに支障はない」旨の勤務先の承諾書(様式任意。証明者は上長であれば役職は問わない。)を提出すること。

令和6(2024)年度 東京大学大学院経済学研究科博士課程学生募集要項
(p.4、2023年12月22日アクセス)

上記のように、大学から様式などが指定されているわけではなかったので、自分で作成しました。作成後は、会社に提出し、上長から印をいただいて、博士課程合格後に大学へ提出しました。

(3) 長期履修学生制度の書類提出

博士課程合格後に、入学に必要な書類などが送られます。その中には、「長期履修学生制度」に関する書類が入っていると思います。詳細は以下の引用の通り、端的に言うと学費が安くなります。この申請はしておくとよいと思います。

9.長期履修学生制度について
  「長期履修学生制度」とは、職業を有している等の事情により、標準修業年限内では大学院の教育課程 の履修が困難であると認められる者に限り、標準修業年限を超えて計画的な履修を立てることができる制度である。
 博士課程においては、標準修業年限 3 年を、4 年、5 年又は 6 年として、計画的に履修することができる。
 この制度では、標準修業年限の授業料の総額を長期履修期間として認められた年数で支払うことになる。例えば、博士課程において 4 年間の長期履修が認められた場合、3 年分の授業料の総額を 4 年で除した額が授業料の年額となる。 
 なお、この制度を利用するには、入学手続き時に申請が必要である。

令和6(2024)年度 東京大学大学院経済学研究科
博士課程学生募集要項(社会人特別選抜)補足説明書

(p.3、2023年12月22日アクセス)。

7.  おわりに

編集部 ありがとうございました。最後に、読者の皆さまにメッセージをお願いします。

八下田 ここまでいろいろと話してきましたが、社会人になるか、修士課程に進学するか、国内または国外の博士課程に行くかについて正解はないと思います。いろいろな情報を集めつつ、自分には何が合うかを見極めるのが最も大切です。とはいえ、個人的にお勧めできるとことがあるとすれば、「迷っているなら、まずは後悔が小さい選択肢を選ぶのがよい」ということです。私は学部卒業時点で、社会人になるよりも修士課程に行くほうが後悔が小さいと思ったので、修士課程への進学を選びましたし、修士課程修了時点で、博士課程に進学するよりも社会人になる方が後悔が小さいと思ったので、社会人になりました。結局は自分が選んだ道を後悔がなかったと思えるようにすることが一番大切です。自分が一度選んだものは、自信を持って取り組みましょう。

また、国内と国外どちらの博士課程に進学するかという悩みもあると思います。経済学では留学して研究者になられた方は非常に多いと認識していますが、もちろん国内の博士課程を修了して素晴らしい研究者になられた方もたくさんいらっしゃいます。また、以下の 私の note で言及していますが、特に最近は東大の経済学研究科はかなり魅力的で、分野によっては世界のトップスクールに匹敵するほどの教授陣が揃っています。

 

付記(八下田)

この記事は、あくまでも個人の一意見であり、所属機関を代表するものではありません。また、自分の人生が今のところどうにかなっているのは、家族や友人、恩師など、周りの方々にとても恵まれ、運がよかったことが大きいと思っています。また、自分としては社会人経験も2年ほどしかなく、留学を始めたばかりのひよっこですので、その点も差し引いてご覧いただければと思います。


 

編集部より

八下田さんによる「米国経済学Ph.D.受験記」は「出願準備編」と「出願後・渡米準備編」の2本を公開中です。

出願準備編」では、八下田さんが2021年に一般的な企業でフルタイムの正社員として(つまり社会人として)働きながら、米国の経済学博士課程(Ph.D. in Economics)に出願をした際の経験がまとめられています。

出願後・渡米準備編」では、出願・合格を経て、実際に米国へ出発するまでの準備での経験がまとめられています。

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