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私のプロフィール②ピアノばかりの小学生。

プロフィール第二弾は小学生編です。
とにかくピアノしかありませんでした。
文集に書いてある将来の夢は「ピアニスト」
6年間ブレることなく書き続けました。
そんな小学生の時の私のプロフィールです。

今日のラインナップ
・転校生、掴みはマリオでOK
・ヤマハ退会→あれよあれよと先生が変わる
・のりはごはんつぶ、初めてのコンクール
・ひとつだけ好きなことがありました。それは伴奏です
・交通事故・・・そして知ったサボる喜び

転校生、掴みはマリオでOK。

小学校入学前に父の転勤で静岡県に引っ越してきました。
入学前・・・そうです。
10月転勤で静岡にやってきたので、当時通っていた幼稚園は中退し、その後半年間は近所をブラブラするだけの生活をしていました。ニートのはしりですね。(違)

半年間のニート生活(だから違う)を経て、やっと入った小学校。
お友達が未知の言語を使います
「〜だら?」「〜したっけ」
衝撃的です。
学校の先生も未知の言語を使います。
「いわたさん、字がなりきになってるよ」
「なりき・・・ですか・・・?(困惑)」
※方言で、雑になっている、という意味

色んな意味で衝撃を受けて始まった小学校生活。
やっと慣れてきたときに、更に衝撃的なことが起こりました。
「大家さんが戻ってきちゃうから、引っ越すね」
そんな母の一言で、引っ越した先はなんと隣の小学校の学区
1年半しか通わなかった小学校よさようなら。中学は同一学区なのでまた中学生になったら会いましょう。

かくして私は小学校2年生の途中で転校を余儀なくされました。
新しい学校でやっと自然に「〜だら?」を使えるようになった私は、とりあえず転校先でどうすればいいか考えました。
「みんなと仲良くするにはピアノしかない!」
そう考えた私は、転校先の学校の足漕ぎオルガンでおもむろに耳コピした「スーパーマリオブラザーズ」を弾き始めました。多分3年生の時です。
(よくよく考えるとマリオが出たのは昭和60年の9月なので、3年生の途中ぐらいの話ですね。多分その前から足漕ぎオルガンでゲームの曲を弾いていたんだと思いますが、記憶が曖昧なので脚色します←)

とにかく耳コピ能力だけはありました。
絶対音感をフルに使って、ファミコンの場合は3声しかなかったので余裕で聞き取ることが出来ました。
その後もドラクエだったり、とにかく耳コピしたネタはずっと小学生の間披露していました。楽しかった。

私がマリオを弾くと、男女ともに「おおお〜!」と喜んでもらえた、その事実がただただ嬉しかったのです。


ヤマハ退会→あれよあれよと先生が変わる。

そんなこんなで、学校ではピアノと言えば右に出る者がいないぐらいの(なんて傲慢な)小学生でした。
ヤマハの音楽教室は、何とか飛び級のままで編入し、やはり一つ上の学年の子と一緒に1年学びました。
が、2年生に上がったときに当時のクラスのA先生にこう言われたそうです。
「恵子ちゃんのピアノは、誰かいい先生に見てもらったほうがいいかもしれないです。紹介するのでその先生のところに行ってみませんか?」

ありがたい話です。が、私はエレクトーンが好きだったのです。本当はやめたくなかった。
でも家庭の経済状況や、スケジュールなども考えて、ヤマハの音楽教室も中途脱退・・・。
新しいピアノの先生のところに行きました。
優しくて、とても素敵なE先生でした。
数ヶ月通ったときにこう言われました。
「恵子ちゃん、静岡市内にすごい先生がいるからそこに行ったほうがいいかも」

本当に嫌味なプロフィールですみません(笑)
でも本当にそんなことがあったのです。
当時小学2年生で「エリーゼのために」をスラスラと弾き、「子犬のワルツ」をスラスラと弾いてしまう子供だったのです。
今でこそそういう子供はいっぱいいると思うんですが、当時田舎の小学生には珍しいタイプだったんだと思います。そりゃそうですよね、2〜3歳から毎日2時間練習させられてきたんですもの・・・。

かくして、私は静岡市内のすごい先生(笑)であるS先生のところにお世話になることになりました。小学校3年生のことでした。

S先生は、ただひたすらに優しかったです。
が、どんどん新しい、しかも私が聴いたこともないような曲を課題に出してきました。
一度先生に言ったことがありました。
「先生、みんなが知ってるモーツァルトのトルコ行進曲が弾きたいです」
S先生はニッコリ笑って言いました。
「恵子ちゃんには簡単すぎるから、他の曲にしましょう」

今思えば、先生は私が耳コピが大得意なのをよくご存知だったんだと思います。
聴けば聴いたとおりに弾いてしまうから、曲を掘り下げることがないからだったのです。
知らない曲だと、曲を理解しようと取り組むけれど、知っている曲だと楽譜通りに弾かないで記憶を頼りに弾いてしまうのを知っていたんですね。
これは全く同じ意味合いのことを大学のときにも先生に言われました。

「岩田、知ってる曲でも知らない曲だと思って吹くんだよ」


S先生のところでは、今の自分にもとっても生きている大切な練習方法をたくさん学びました。
当時は全然そんなこと思わなかったのですが、今になってあの時にやっていたことが全部役に立っているというのを痛感しています。
ピアノであれ、トランペットであれ、全く同じなんだなと思うことがたくさんあります。
そして様々な作曲家とも触れ合いました。
ドビュッシーが大好きになったのもこの頃でしたし、バルトークに出会ったのも小学生の時でした。

ただ、当時の若かりし自分は全く気づいていませんでした。
当たり前なんですけどね。だってピアノが嫌いだったから。


のりはごはんつぶ、初めてのコンクール。

S先生のところに通い始めて2年、小学校5年生の時に先生が「コンクールに出ましょう」と言いました。
県内の新聞社が主催している学生音楽コンクールです。
申し込み〆切直前で、母が慌てて申込みをしました。
あまりにギリギリだったので、直接新聞社に持っていったのを覚えています。
あまりにギリギリだったので、家の中に封筒に貼るための「のり」が見つからず、ごはんつぶをつぶしてくっつけたのを鮮明に覚えています(笑)
全然コンクールの内容を覚えていないのですが、予選も普通に弾いて、普通に通過して、やたら周りの人だけが盛り上がっていたのは覚えています。
本選はほとんど6年生の子ばかりで、みんな上手だなあと思ったけれど、とりあえず自分のやれるだけのことはやりきって5位入選して新聞に顔と名前が載りました。
でも、全然記憶にありません。
だって、ピアノが嫌いだったから。


ひとつだけ好きなことがありました。それは伴奏です。

1人で悶々とピアノに毎日2時間向き合うのは本当に苦痛でしたが、ピアノを弾くのが唯一好きになる時間がありました。
それが、伴奏です。
小学校の音楽の先生、歌は得意なんだけど、ピアノが苦手だったようで、よく伴奏をやりました。
私がいるから、という理由でやたら難しい合唱曲を持ってきたり、便利だったでしょうね〜(笑)でもそれに乗っかるのが好きでした。
歌をうたうのは好きじゃなかったけど、伴奏はみんなと音楽ができる。
私の伴奏ひとつで、みんなが楽しく歌える。
そんなところに喜びを感じていました。
すごく難しい楽譜も好きだったし、それを任せてもらえるというのも喜びだったのです。
1人で音楽をするんじゃなくて、他人と音楽を共有するっていうのが好きだったんでしょうね。それが後々自分がトランペットを続けるということに繋がっているんだととても思っています。


交通事故・・・そして知ったサボる喜び。

小学校6年生の10月に、自転車に乗っていて出会い頭に車に跳ねられるという事故に会いました。
私が飛び出したから悪いんですけど。
けっこうふっとばされて自転車もグシャグシャになりました。
私は、膝の骨を骨折しました。全治2ヶ月でした。
修学旅行にも行けず、大腿部からつま先までギプスだったので小学校も2週間ほどお休みしました。
家でもあまり動けず、ベッドに寝っ転がる毎日になりました。
そこで、気がついたのです。

私・・・ピアノ、練習できないね。

母・・・座れるならできるんじゃないの?

私・・・座れるけど、足が伸びてるから手が届かないよ

母・・・仕方ないわね・・・。

なんと、人生で初めてピアノを弾かない時間が出来たのです。
サボっていたら好きなだけ本が読める。
サボっていたら好きなだけテレビが見れる。
サボるってなんて楽しいんだろう!
ピアノを弾かない生活ってなんて有意義なんだろう!
このままずっと怪我していればいいのに!

ピアノの練習をしないことに罪悪感もなく、練習しないことがこんなに楽しいなんて、小学生の私は喜びました。
そうして、ピアノを弾かない生活にだんだんハマっていってしまったのです。。。


続きます(笑)
今度は中学生編。トランペットとの出会い。

トランペット奏者、作編曲家の岩田恵子と申します。 お仕事の話やトランペットの奏法などについて色々と発信していきます♬