しなければいけないという病

何かをする時に、しないという選択があることを人間は忘れることがある。
忘れても多少困るくらいの事ではあるが、忘れないほうが選択肢の幅は広がる。

行動を起こす際に気にした方がいい事というのがある。
細部はジャンルや自分の立場によって違うのだが、基本的に共通しているのは、何故やるのか、どうやるのか、そしてやる事の意味だろう。
例えば、水を手に入れるのは「水が手元に無いから」であり「水を汲みに行くなり、買いに行くの」がよいだろう、何のために水を手に入れるのかというと「乾いたら生き物は死んでしまう」からである。
乾かないためには水を摂取するのが良い。
これは理にかなっているし、道理が通っている。
間違っていない行動と言っていいだろう。

上の例では三つが一連の流れとしてまとまっているが、人間の行動というのは全てが揃っていることばかりでは無い。
やりたいことと、やるべきことがイコールではないことも多い。
見返りを求めない行動もあれば、社会通念から外れる覚悟を持つこともある。
自分のなけなしの水を他人に与える事もあれば、奪うこともある。
ただ、それらには理か道理が欠けている。
では、それらの行動が何故なされるかというと、人間には心や欲望があるからだ。「人に言われたからやる」というのも、人に嫌われない、怒られない為にやるという意味あいが強く、そこに道理があるわけでは決して無い。

それらを悪と言うつもりは毛頭無い。むしろ人間らしくとても良い。
人間らしいことは率先してやっていって欲しいと思っているが、経験上そういった理にかなっていない行動というのは、疲弊する事が多いという印象だ。
反抗期は長く続かないし、革命はいづれ惰性になる。
しかし、理にかなった行動ばかりをするというのも、疲労が蓄積されることが多いと感じる。効率やコスパのほうが優先される世の中に飲まれる必要はないのだ。


もっと根源的な話をしよう。
今まで「やる」の中での選択、意味を考えてきた。
次はやらないことを考えたい。

仕事だからと割り切るのも、自分の夢を追うのも、行動をする限り疲れからは逃れられない。体も頭も動かせば疲労がたまる。
そういった時、足を止めるという選択肢があるのを思い出してほしい。
そして、足を止める事で自分が止まっていると思うのは間違いである。
安心してほしい。
何もしないことを自分で選択することは、何かをするのと同じくらいに意味のある選択である。止まっている時間であっても、人生には意味がある。

物事はバランスである。
やる事へのモチベーションもバランスだし、やるかやらないかというのも自分でバランスを取るのが大事だ。
自分の心と体を大事にする為にも、天秤にかけるのは大事だ。
ただ秤にあまり重いものを載せると、支柱から折れる可能性がある。
できればかけるものは軽い方が良い。
大きな選択よりも、日々適度に力を抜く癖をつけるのはとても大事なことだ。
と、個人的には思っている。
軽やかに生きましょう。

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