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トランプ対バイデン ――アメリカ大統領選の背景を知るために

 記憶にも新しいですが、アメリカでのBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動がニュースで注目されました。BLMに限らず、現在のアメリカは、トランプ政権の誕生以降、国内の分断――人種間、ジェンダー間、所得格差(貧富の差)――が著しくなっています。2020年5月に刊行以来、ご好評いただいている『なぜ中間層は没落したのか――アメリカ二重経済のジレンマ』では、その原因を「二重経済(dual economy)」という経済構造に求め、政治経済政策がそれを強化していると主張します。
 そんな本書の概要を紹介した「はじめに」を公開します。ぜひご一読ください。

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はじめに


 拡大する所得格差は、アメリカの中間層を脅かしており、中間層は私たちの目の前から消えつつある。アメリカの所得分布の中間に位置する人々は減っており、国は裕福な人と貧しい人に分断されつつある。所得分布は、ひとこぶラクダのような形から、中間に低い部分のあるふたこぶラクダのような形に変化した。私たちは現在でもひとつの国であるが、所得の広がりは国の統一に緊張をもたらしている。
 中間層は二十世紀におけるアメリカの成功に不可欠であった。中間層が提供した人的資源のおかげで、国は二十世紀前半の二度の世界大戦を勝ち抜いた。また中間層は、二十世紀後半のアメリカによる世界経済支配の背骨であった。しかし現在、平均的労働者は職探しに苦労し、中位所得の労働者の収入は四十年間、上昇していない。(中位所得とは、まさに中間に位置する所得で、この値を上回る人と下回る人が同数になる。二〇一四年、三人家族で、約六万ドルだった。)アメリカが二十一世紀に強さを維持するためには、何かをしなくてはならない。
 この問題を複雑にするのはアメリカの歴史である。奴隷制は建国当初のアメリカに不可欠の要素で、その廃止には長期にわたる血なまぐさい南北戦争を経る必要があった。あまりにも多くのアフリカ系アメリカ人が、現在でもアメリカ社会の主流に十分には統合されていない。前進は見られるものの、居住地や学校はまだ概して人種で隔離されており、アフリカ系アメリカ人は全体として白人のアメリカ人よりも貧しい。
 格差と人種隔離の組み合わせは、健全な民主主義にとって問題である。たとえば、民主的な社会では、投票はあらゆる市民の権利でなくてはならない。奴隷は当然、投票しなかったが、アフリカ系アメリカ人の投票を妨げる試みが今日まで続いており、裁判で違法な妨害と主張された注目すべき例も数多い。加えて、黒人は白人と比べて、アメリカの「薬物との闘い」〔麻薬撲滅戦争〕で逮捕・投獄される確率がはるかに高い。
 貧しい白人もまたさまざまに苦しんできたが、政治論争や決定にはほとんど声をあげず、姿も見せなかった。伝統的に、貧しい白人アメリカ人はあまり投票してこなかった。その原因は、写真つきIDの要請のように黒人の投票の抑制に使われた制限や、政党はみな同じで政治家は自分たちのことを気にかけないという広範な信念にあった。最近の経済成長から取り残されたという彼らの失望や絶望は、数々のストレスや自滅的行動につながり、中年の白人アメリカ人の死亡率を押し上げた。彼らの境遇への怒りは二〇一六年の政治に向かった。この怒りは長い間アメリカの政治に影響を与えそうである。

はじめに図1

 こうした動きは、ピュー・リサーチ・センターの最近の調査で劇的に示された。変化は図1に表され、総国民所得が三つの集団に分けられている。中間層、上位層、下位層である。中間層は、アメリカの中位家計所得の三分の二から二倍の収入を持つと定義され、一九七〇年には総国民所得の五分の三以上を得ていたが、二〇一四年には五分の二をわずかに上回るのみであった。図1の線はどれも、一九七〇年以前は水平だったが、二〇一四年以降は動き続けている。
 図1によると、中間層が失った所得のシェアは、中位所得の二倍以上を得ている人たちに流れた。要は、富裕層がより裕福になり、貧困層は姿を消さず、中間層が明瞭に縮小したのである。『21世紀の資本』のトマ・ピケティの研究から知られているように、一九七〇年から格差は拡大してきている。いま私たちが目にしているのは、所得分布の空洞化である。私たちは、富裕層と貧困層がいて中間層はわずかな国に向かいつつある。

格差拡大の歴史
 本書は、貧富の所得格差のこうした拡大を考察する方法を提供する。私は、アメリカの歴史と政治が格差拡大と大きく関わっていると主張する。特に金融やIT分野で目立つ急速な技術の変化は、この話の重要な一部ではあるが、ごく一部でしかない。奴隷制とその後遺症という、人種をめぐる困難な歴史もまた、この分断の拡大に対する理解の重要な一部をなすのである。
 イングランドの入植者が北米に渡り始めたのは十七世紀である。最初はマサチューセッツ州プリマスとバージニア州ジェームズタウンで、さらに大西洋沿岸地域に広がった。彼らは農耕のための広大で肥沃な土地を見つけたが、入植者・労働者の数が不足し、農耕は思うままにならなかった。先住アメリカ人は、イングランドからの占拠者のために働くことを拒み、ヨーロッパ由来の病気によって人口が激減した。入植者は、彼らの土地で農業をするように他の人々に勧めたが、ヨーロッパ人とアフリカ人に対する移住の呼びかけ方は非常に異なっていた。ヨーロッパ人は自由意思で、またはのちに独立できる年季奉公人として来ることを勧められたが、アフリカ人は奴隷商人によって無理やり連れてこられた。
 ヨーロッパ人はまず農業、さらに工業によって繁栄を謳歌したが、アフリカ人は奴隷生活を余儀なくされた。十九世紀初頭には綿花が経済成長への鍵であり、南部でアフリカ出身の奴隷によって栽培され、北部でヨーロッパ人によって服に加工された。南北戦争で奴隷制は廃止されたが、それは南部の多くの白人にわだかまりを残したままである。第一次世界大戦後にヨーロッパからの移民が制限され、結果として、六〇〇万人のアフリカ系アメリカ人がいわゆる「大移動」の時期に北へ向かった。近年、メキシコや他の近隣中南米諸国からの移民が急増しており、ラテン系の人々も図1の下位層に集中している。働く貧困層をめぐる国民的議論は、アフリカ系アメリカ人に焦点を当てるが、ラテン系も含めて単純に「彼ら」と呼ぶこともある。
 アフリカ系アメリカ人は、州と連邦の両方のレベルで政策論争の焦点にもなってきた。政府の福祉支出に反対する政治家は、かつては受給者を黒人と同一視していた。しかし、一九六〇年代の公民権運動以降、政治家は隠語を代用している。黒人アメリカ人のほぼ半数が図1の「より貧しい」層に含まれるものの、じつは貧しい人の大半が黒人ではない。アフリカ系アメリカ人の数は、貧困層の多数派になるほど多くないのである。貧しい白人も社会福祉サービスの打ち切りの影響を受けるが、彼らは政策論争ではほとんど目につかなかった。ボブ・ディランが一九六三年のマーティン・ルーサー・キングのワシントン大行進で歌ったように、「金のない白人は/後回しのままだが/責めてもしょうがない/ゲームの駒なのだから」。
 人種と階級は別物でありながら、一八六五年に幕を閉じたアメリカの奴隷制時代以来、複雑に絡み合ってきた。ロナルド・レーガンが一九八〇年に大統領選出馬を表明したミシシッピ州フィラデルフィアは、一九六四年に三人の公民権運動家が殺害された場所である。ドナルド・トランプは二〇一六年の大統領選で、同じく遠回しに「アメリカを再び偉大な国に」と主張したが、ここでいう「偉大な」は「白人の」の婉曲表現である。公民権運動は人種差別の言語を変えたが、その作用範囲は狭めなかった。所得がますます不平等になるにつれて、人種差別は富裕層の道具となり、貧しい白人に黒人への優越感をかき立てて、経済的な窮状から目を逸らさせている。
 図1は単純かつ複雑だ。単純なのは、大量の実証研究を印象深く要約しているからである。複雑なのは、経済、歴史、政治そして技術の結果だからである。色とりどりの糸から、首尾一貫した知的織物を織りなすために、私は経済モデルを利用する。モデルとは複雑な現実を単純化したもので、もっとも強い力の間の相互作用を明らかにする。それはまた、他の力をモデルに導入して、複雑な現実をより包括的に表現できるようにする。

ルイス・モデル
私が用いる経済モデルは、六〇年以上前に開発され、今日でも経済学の授業で教えられており、この話のさまざまな脈絡を一貫した筋立てに統合する。このモデルは、経済学の学習者以外にも理解できるほど明快でありながら、経済発展の過程についての洞察を提供し続けている。
 経済学者はこのモデルを開発者W・アーサー・ルイスの名前で識別し、それはルイス・モデルと呼ばれる。より記述的には、二重経済(dual economy)モデルの原型としても知られている。二重経済が存在するのは、一国内に二つの別々の部門があり、異なる発展水準、技術水準、需要のパターンによって分断されているときである。この定義は、経済発展の分野におけるルイス・モデルの利用を反映しており、本書ではそれを翻案して、世界でもっとも裕福な大国であるアメリカの現状を描き出す。
 これが意外にも逆説的でない理由は、二重経済から生まれた政策が原因で、アメリカはますます発展途上国の様相を呈するようになっているからである。誰であれ自宅から一歩でも出る人は、アメリカの道路や橋の劣化の問題を知っている。また、子供を私立学校に通わせる経済的余裕がないか、よい公立校があることで有名な郊外の高級住宅街に住むほど裕福でないならば、現在の教育危機のことも知っているだろう。
 教育は二十世紀のアメリカの繁栄の鍵であった。私たちが「アメリカの世紀」を生きてきたのは、世界が羨むような教育の長い伝統があったからだといっても過言ではない。クラウディア・ゴールディンとローレンス・カッツがこの点を著書『教育と技術のレース』で指摘した。教育は本書の論旨において二重の意味で重要である。第一に、教育は人々が二重経済の貧しい部門から裕福な部門に移るための鍵となる経路である。第二に、二十一世紀にアメリカが経済的成功を収め続けることに関心を持つ人なら、国の繁栄と成長を維持するために、学校の問題の解決を望むはずだ。
 これはほとんどの人にとって切実な問題に見えるものの、二重経済がもたらす政治は、私たちの病める教育制度を再建するための賢明な行動を妨げている。のちに見るように、現在、教育には二つの制度が、二重経済の各部門にひとつずつ存在する。裕福な部門の学校の質にはばらつきがあるが、最高の学校はアメリカの歴史的経験をよく反映している。反対に、貧しい部門の学校は機能していない。問題解決の試みが知られるのは、その目も当てられない失敗による場合が多い。
 奴隷制の遺産が、すべての子供に教育を提供する取り組みに今でも影を落としている。奴隷制の時代に黒人を教育することは違法だった。今日の政治家は、この人種差別の歴史をほのめかして、貧困層の教育を無視する。都市の貧困地区が良質な教育を奪われるのは、人種を想起させてそうした地区の無視・蔑視を正当化することが暗示されるためである。アフリカ系アメリカ人は暴力行為を非難されるが、それらは概して教育の失敗の(原因ではなく)結果である。地域の学区の統制は、アメリカの拡大期には、良質な教育の鍵であったが、ここ数十年、それは障壁になっている。
 たとえ黒人学生が良質な教育を受けても、経済的地位を向上させるような仕事はなかなか見つからない。工場での仕事は一世代にわたって減り続けており、図1の右下がりの線の主要な原動力になっている。その含意として、教育を受けた黒人の大学卒業生が今日のアメリカ経済で高所得集団に入るためには飛躍的変化が必要になるが、この飛躍は二重の意味で難しい。それは通常さらなる教育を要するうえ、若く賢い黒人を高給の仕事に雇うことへの抵抗が存在する。経済構造の変化はアフリカ系アメリカ人の大部分を従属的な地位に押しとどめていると思われ、最優秀の精鋭だけが脱出を期待できる。南北戦争後の「大移動」期に南部を去ったアフリカ系アメリカ人のように、よい仕事を求めてアメリカに来たラテン系の人々も、似た問題を抱えている。
 この描写は、モデルと歴史の含意を検討するにつれて、より鮮明になる。また、私たちは努力をより実り多いものにするための政治的変革の可能性についても学ぶことになる。未来を言い当てることは誰にもできないが、私たちは経済と社会のさまざまな土台を改善するための変化を希望している。のちに確認するように、二十一世紀の富裕層は、二十世紀にあらゆる黄金の卵を産んだガチョウを殺そうとしている。問題は、どうすれば現在の誤った軌道を修正できるかである。

本書の概要
 本書の議論は四部に分かれる。第Ⅰ部でルイス・モデルを説明・翻案し、モデルの含意と現在のアメリカへの適用を示す。ルイス・モデルの含意に、上層部門が貧しい部門の賃金を低く抑えようとすることがある。たとえば、ボストン・グローブ紙は最近、新聞配達の費用の削減を試みた。ほとんどの人は、新聞が朝どのようにして玄関に届くのかなど考えないが、新聞配達は過酷な夜間のマラソンになっており、低所得労働者は経済の片隅で人目につかず働いている。配達運転手は被用者ではなく独立の請負業者と分類され、したがって医療費用の保証も退職金の積立もない。彼らは一年三六五日間働くが、給料は通常の仕事に見劣りし、休みが必要な日には代理人を見つけなくてはならない。彼らの多くは日中、別の仕事をこなして家族を助けている。働く人たちはますますこうした労働条件を強いられるようになっている。
 第Ⅱ部では見かけ上の逆説を解消する。民主主義国において、経済の一部門がその意思を他の部門に押し付けることがいかにして可能なのか? なぜ多数の貧困層は投票で少数の富裕層を落選させないのか? 中位投票者定理はこうした疑問のより厳密な問いかけを助け、可能な答えのありかを示唆する。政治の投資理論という別の見方が、二重経済における民主主義のあり方を明らかにする。
 第Ⅱ部は、人種とジェンダーが私たちの意思決定に及ぼす影響から始めて、もっとも裕福なアメリカ人が政治において果たす役割に進む。彼らの活動がもっとも目立つのは、中西部の数州である。インディアナ州のヘッジファンド経営者たちが声高に支持した州知事〔現在は副大統領〕マイク・ペンスは、政府支出の削減、州の年金制度の廃止、公共部門の被用者組合の弱体化あるいは撲滅を望んでいた。この政策課題はウィスコンシン州でさらに推進されている。州知事スコット・ウォーカーは、より以前に着手し、企業による政党への直接出資を認め、独立の州政府説明責任委員会を、政党任命者からなる委員会に差し替えるところまで来ている。隣のミシガン州では、州知事リック・スナイダーが、貧しく黒人の多い町フリントの飲料水に含まれる鉛についての警告を無視していた。鉛中毒が黒人の子供たちに及ぼす有害な影響は長期にわたるため、フリントの事例を「環境人種差別」と呼ぶ評者がいる。
 これは、一連の立法措置や裁判所の判決によって政府の政策を支配することができた富裕層の計画である。すべての人に対する投票権の保証を目指した民主主義を、この一世代で弱体化させてきた政治構造においては、人口構成よりも所得がものを言うのである。所得はさまざまな形でものを言うが、選挙戦への支出は投票の中身と誰が投票できるかの双方に影響を与える。この新しい政治を生み出す決定を正当化してきたのは間接的な人種差別であり、それは貧しい人々を「他者」として厳しく罰するが、黒人と褐色人(ヒスパニック系)のことを指している。文字通りの人種差別的発言はなかったものの特筆に値することは、医療費負担適正化法〔通称オバマケア法〕のもとでメディケイド〔低所得者・身体障碍者向けの公的医療保険制度〕の無料適用拡大を拒絶した州は、ほとんどがもともと南部連合(訳注1)に属していたことである。
 本書の第Ⅲ部は、第Ⅰ部と第Ⅱ部の洞察を特定の政策分野に適用する。軸となるのは、「多数派少数派(majority minority)」と「民営公共(private public)」という二つの矛盾語法である。最大の見えざる政策は、図1に取り上げた期間における大量投獄の拡大である。ニクソン大統領が薬物との闘いを宣言して以来、アメリカの収監率は、他の現代民主主義国の水準から、以前には全体主義国でしか見られなかったような水準にまで上昇している。二十一世紀には黒人男性の三人に一人が刑務所行きを予想されている。ただし、黒人が囚人の過半数を占めるわけではない。ヒスパニック系男性の六人に一人、白人男性の十七人に一人が刑務所行きを予想されている。しかし、薬物との闘いは黒人コミュニティを浸食してしまった。言いかえると、二〇〇一年には、三五歳から四四歳の黒人男性の二二%が収監経験を持ち、他方、この年齢集団のヒスパニック系男性の数字は一〇%、白人男性は四%であった。
 多くの貧しい黒人の家庭には、刑務所行きの経験のある家族や親戚・隣人の知り合いがいる。あまりにも多くの黒人の母親が、シングルマザーとして子育てに孤軍奮闘することを余儀なくされている。そして学校に通う多くの黒人少年が、かなりの確率で警察に呼び止められ、逮捕すらされて、しまいには収監されることを知っている。現状がこれだけ厳しいとき、そんな子供が将来を考えらるのだろうか?
 一人親の家庭は両親のそろった家庭よりも貧しい。彼らが住むのは貧困地域、通常は都市であり、学校の質は低い。この三十年ほどの政府の決定は、学校制度を二つに分岐させた。一方は大学に進学する富裕な郊外の白人のもので、他方は収監の脅威が頭から離れない都市の黒人と褐色人のものである。郊外の学校は地方税による財源が潤沢な一方、都市の税基盤は、大量投獄が個人と家族に課す経済負担によって縮小した。
 こうした政策の組み合わせは悪循環を生み、黒人男性は刑務所におり、黒人女性は疲労困憊し、黒人の子供は良質な教育を奪われている。少年には有利な機会がほとんどなく、警察との接触が多い。多くの少年がしまいには収監されるかもしれず、このシステムを永続させる。政治家は、生徒が中途退学して刑務所に行くようなら、都市部の学校への投資を増やす価値はあるのかと議論している。彼らが見落としているのは、これが大量投獄と複雑な財源の取り決めを伴う制度の結果だということである。この循環をミシェル・アレクサンダーは「新ジム・クロウ(訳注2)」と呼んだ。
 都市への公共投資も放置されてきた。都市の社会基盤(インフラ)は、道路や橋梁から公共交通に至るまで劣化が進んだ結果、以前には発展途上国にしか見られなかったような、ルイスが描いた荒廃した状況に近づきつつある。さらに、住宅ローンの焦げ付きや教育の不備による個人の負債が膨れ上がっており、その規模は消費支出を妨げ、二〇〇八年の金融危機からの完全な回復を遅らせている。
 最後の第Ⅳ部では、アメリカの経験を他の裕福な国々と比較して、現在の政策の変更を望む場合に可能となる変革の可能性を示す。一部の国は、所得格差の急激な拡大という我が国のパターンに続いた。他の国は、この進展を緩和するため、社会の最上層で増加を続ける所得に庶民が少しでもついていけるように助ける施策を制度化してきた。一国内での貧富の分離という傾向は、本書で概要を述べる問題に対処するための政策によって抑制できるのである。
 しかし、アメリカには二重経済のルイス・モデルが当てはまる。それは上層部門が下層部門の賃金を低く抑えたがる理由を示す。まさにその賃金抑制がこの四十年間にアメリカで起こってきたのである。本書は経済学、政治学、歴史学に依拠して、技術変化が私たち全員に及ぼす影響を説明し、まるでこれまでの歴史が起こらなかったかのようにより良い国を思い描くことはできないということを説く。建国時の経済成長は奴隷制に支えられていたが、血みどろの南北戦争を経て、私たちは奴隷制に終止符を打った。歴史の遺産に導かれて、アメリカ社会は二つの別個の部門に分かれるところまで来ている。この既存の経済構造を理解しなければ、多様性に富むこの国の異質な部分を将来的にまとめあげる方法を考えることはできない。

(訳注1) 一八六一年、南北戦争期に合衆国から脱退した南部の十一州が結成。奴隷制を擁護する憲法を制定したが、一八六五年に敗北して合衆国に再編入された。
(訳注2) ジム・クロウはアメリカの人気ショー(一八二八年)で戯画化された黒人登場人物の名前。のちに黒人の蔑称となり、人種隔離政策、さらにはアメリカ(特に南部)の人種差別的法体系を指すようになった。

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なお、本書には、トランプ氏が大統領に就任したあとに執筆した「エピローグ――トランプ氏の経済的帰結」も収録しています。11月のアメリカ大統領選の論戦の背景を知るためにもぜひ読んでくださるとうれしいです。

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