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【試し読み】万華鏡のように多くの解釈を引き出す聖典の世界。『クルアーン』

 イスラームの聖典クルアーン。ニュースなどで、この本を粗末に扱ったことで国際問題になった、ということを聞いたことがある方もいるかもしれません。
 あるいは、クルアーンを手にテロや暴力を肯定する過激派の姿を見て、「恐ろしい本だ……」と感じた方も少なくないかと思います。
 本書『クルアーン—―神の言葉を誰が聞くのか』では、クルアーンをなるべく色々な立場から分析し、一面的では捉えられない――しかしすさまじい力をもった――その秘密に迫ります。
 たとえば、先ほど紹介した過激派の例は、ムスリムの本当にごく一部の人間による解釈に過ぎません。
 興味深いのは、この本が時代、国・地域、立場など、読む人が置かれた固有の条件によって、万華鏡のように多くの解釈を引き出す……というところです。
 私たちの常識では計り知れない聖典の世界を、少しのぞいてみませんか?

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1.「聖典」としてのクルアーン

誦め、「創造される御方、汝の主の御名において。彼は一凝血から、人間を創られた」と。誦め、「汝の主は極めて心ひろく、筆によって書くことを教えられ、人間に未知なることを教えられた御方である」と。 (96章1-5節)

 この言葉は、クルアーンが最初に啓示された時のものだとされるが、いったい誰が誰に「誦め」と命じているのだろう?
 
 星の数ほど世に書物は生まれてきたが、『クルアーン(コーラン)』はそのなかでも「聖典」と呼ばれる独特な位置にある。「聖典」といわれると、どのような書物を思い浮かべるだろう。キリスト教の聖書、仏教の経典、ヒンドゥー教のヴェーダなどであろうか。儒教の経書(経典)も思い浮かぶかもしれないが、「聖」という字ゆえに、ここに含めるべきか迷うこともあるだろう。
 
 例えばハーバード大学で比較宗教学を教えたウィルフレッド・C・スミスは 『聖典とは何か?—―比較によるアプローチ』で、クルアーンを最も聖典らしい書物として定義しているが、それはなぜだろうか。答えを先にいってしまえば、それが神の言葉そのものとされているから、ということになる。『クルアーン』という名称の意味は通常「読誦されるもの」だとされるが、それは神の言葉そのものの読誦、つまり発声を含意している。これは先ほど引用した96章1-5節が「誦め」という命令で始まることに深く関わっている。クルアーンは神の声による言葉そのものが書かれたもの、という意味で、聖典の究極的な形態と見ることができるのである。
 
 確かに、「聖典」がどのようなものなのかについては学問的にも議論がある。儒教の経書が「聖典」なのか迷いが生じる理由もそれに通じるものである。ただし、ここでは簡潔に「聖」と「典」に分けて、「聖なる存在」に関係する「書」だと理解しておきたい。そうするとクルアーンは「アッラーとの関わりをもつ書」となるが、ここで重大な問題が生じる。「アッラー」を「聖」と認めるのはムスリム(イスラーム教徒)だけであって、信徒でない者にとってクルアーンは「聖なる書物」ではないということである。
 
 クルアーンを読む際に生じる「誰が作者なのか?」や「誰の言葉なのか?」という疑問は、この読者の立ち位置に起因する。もし読者がムスリムならば「クルアーンにあるのはアッラーの言葉」であり、それが非ムスリムであれば「クルアーンの作者はムハンマド」ということになる。このようにクルアーン理解のあり方とは、読者の立場によって大きく異なり、単に「古典」として読むことが難しい。これがこの書物の独自性である。
 
 クルアーンについて予備知識のない非ムスリムが冒頭で引用した句を読めば、ムハンマドが信徒に命じていると考えるだろう。だが、ムスリムはそうは受けとらない。彼らにとっては、命じたのはアッラー、命じられたのは預言者ムハンマドである。そして両者の間には、天使ジブリール(ガブリエル)が存在し、アッラーの言葉をそのままムハンマドに伝えたとされる。このようにクルアーンは読者の立ち位置によって読みとり方、つまり解釈が全く異なるのである。
 
 とはいえ、どちらの立場から見ても、ムハンマドが極めて重要な人物であることには変わりはない。ムスリムにとって彼は、神から遣わされた最後の使徒かつ預言者である模範的人物、非ムスリムにとっては、イスラームという世界宗教の創始者である歴史上の重要人物ということになる。

2.ムスリムから見たムハンマドの生涯


 クルアーンは、アッラーの使徒であるムハンマドについてどう述べているだろうか。

実にアッラーの使徒は、アッラーと終末の日を期待し、アッラーを常に念じる者にとって、良き模範であった。 (33章21節)


 この世の終わりを強く願い、アッラーの名を頻繁に念じるムスリムたちにとって、ムハンマドは模範的人物であるという。この句は、メディナにいたムハンマドやその支持者たちが、多神教徒に攻め込まれた時のものだとされる。この状況のなかでムハンマドは、アッラーを念頭において死を恐れない勇猛な行動をとったと認められているのである。アッラーの言葉によって褒められたムハンマドは、当然ながら、信徒たちにとって理想的な人物として理解されることになる。
 
 ムハンマドの生涯については、ハディースと呼ばれるムハンマドの言行を伝える伝承によって知ることができる。ハディースは独自の形式を持ち、マトン(本文)とイスナード(伝承者の鎖)からなる。ムハンマドの言動をそばにいたAが見聞し、さらにBに伝え、BがCに、CがDに……そしてGがHに伝える。その「言動」の内容がマトンであり、AからHの伝承者名がイスナードとなる。このイスナードの信憑性が弱ければ、そのハディースの信憑性も低いものと判断される。
 
 ハディースによって伝えられるムハンマド像はムスリムの視点によるものであり、西洋の非ムスリム研究者たちのなかには、その信憑性に疑問を抱く者たちもいた。実際にハディースの偽造も行われたため、ムスリムの学者たちによって選別されてもきた。現在では、六つのハディース集が最も信憑性が高いとされている。それらのなかでもムスリム・イブン・ハッジャージュ(817/821〜875年)とブハーリー(810〜870年)が編纂した二つの『サヒーフ』(どちらも題が同じで「真正」の意味)が最も高い権威をもつ。さらにムハンマドの生涯について伝える重要な資料が、イブン・イスハーク(704頃〜767年)が著し、イブン・ヒシャーム(?〜833年)が編集した『預言者伝』で、これも多くのハディースに基づいている。これらのハディースからムハンマドの生涯を概観し、クルアーンがどのようにして与えられたとムスリムが考えているのかを、これから見ていきたい。
 
 ムハンマドは570年ごろ、アラビア半島のメッカ(アラビア語原音でマッカ)で生まれた。当時アラビア半島の周辺には、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、395〜1453年)とサーサーン朝ペルシャ(226〜651年)の二大帝国が並び立ち、覇権を争っていた。ムハンマドはメッカを支配していたクライシュ族のハーシム家に生まれたが、彼の父は生まれる前に亡くなり、母も6才頃に他界し、孤児となってしまう。そこでクライシュ族の長老だった祖父アブドルムッタリブ(生没年不詳)に引きとられ、祖父亡き後は伯父のアブー・ターリブ(?〜619年頃)の保護下で育った。
 
 メッカはイエメンからシリアへの隊商行路上にあり、商業で栄えた。ムハンマドは長じては隊商交易に従事するようになり、誠実な人物として認められていたようである。またメッカにあったカアバ神殿には360体ともいわれる神の偶像が祀られ、多神教の重要な巡礼地でもあった。クライシュ族はカアバ神殿を中心とするフバル神信仰の管理者で、かつ、交易で富を得て、メッカを支配した一族であった。当時のメッカは部族社会で出自による身分差が激しく、拝金主義的な風潮が広まっていた。
 
 ムハンマドは25才頃、隊商交易を営む女性ハディージャ(?〜619年)と結婚し、子どもは6人生まれたが、息子2人は夭折し、娘が4人いた。ハディージャはムハンマドよりも15才ほど年上で、彼が彼女に雇われたことを機に結婚したとされる。このように、ムハンマドの最初の妻はいわゆる「キャリア女性」である一方、ムハンマドが預言者であることを信じて支え、最初のムスリムとなった。ムスリムの間では、理想的な女性の一人とされる。

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【著者プロフィール】
大川玲子(おおかわ・れいこ)
明治学院大学国際学部教授。イスラーム思想専攻。
ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)修士号取得。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。文学博士。
著作に、『リベラルなイスラーム—―自分らしくある宗教講義』(慶應義塾大学出版会、2021年)『クルアーン――神の言葉を誰が聞くのか』(慶應義塾大学出版会、2018年)、『チャムパ王国とイスラーム――カンボジアにおける離散民のアイデンティティ』(平凡社、2017年)、『イスラーム化する世界――グローバリゼーション時代の宗教』(平凡社新書、2013年)などがある。

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