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【試し読み】『教育現場を「臨床」する――学校のリアルと幻想』

 現在日本では、少子化、教員不足、教育格差といった状況が進むなかで、子どもたちの環境も劇的に変化しています。
 内田良著教育現場を「臨床」する――学校のリアルと幻想(2023年8月刊行)は、「部活動」「校則」「虐待といじめ」などの目下の問題を、著者独自の観点から多角的に分析しています。学校の虐待といじめは増えているのか。部活動はだれにとって問題なのか。校則は変わるのか。データを丁寧に分析し、結果から見える「真実」、そして子どもたちや教師たちの「苦悩」がどこにあるのかを明らかにします。
今回ここで、本書の一部「プロローグ」を公開します。ぜひご一読下さい。

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プロローグ


 教育の専門家として情報を発信していると、ときに不思議な感覚に陥る。
 高校生を前にして、高校の教育活動について話をする。教員を前にして、学校の働き方について話をする。私はけっして生徒ではないし、学校で働いているわけでもない。よほど目の前にいる生徒や教師のほうが、毎日学校に来ていて、毎日教育活動を体験している。
 そしてまた、現役として学校に来ていなくとも、この社会に住まう多くの人たちが小中高と12年にわたって学校教育を経験済みだ。12年間とはなかなか立派なキャリアであり、ベテランと言ってよいだろう。
 教育研究者の目の前には、現役の教師や生徒、ベテランの学校経験者がいる。それゆえ、現場に身を置いていない私たち研究者にとって、現場のことを話題にするのは、じつにハードルが高い。
 だから私たち教育研究者は、真正面からは勝負を挑まない。
 みんなが知っていることを、専門家として語ったところでなにも進展しない。現役の教師や生徒、ベテランの学校経験者の視界には入ってこない、それでいて教育現場の核心を突くようなリアルな見解が、私たちには要請される。
 本書はその意味で、じつにひねくれた仕上がりとなっている。「学校のことを知りたければ、学校に行ってはならない」と主張したり、「いじめの件数は多いほうがよい」「コロナ禍のステイ・ホームはリスクが高い」「理不尽な校則は、地域社会がつくっている」と言ってみたりと、非常識でときに幻想を打ち砕くような見解が並んでいる。
 非常識とはいえ、私は自分の性格の悪さを披露するために筆を執ったわけではない。非常識だけれども、私は本気だ。
 厚労省と警察庁の発表によると、2022年に小中校生の自殺者数は、1980年の統計開始以降で過去最多を記録した。小学生が17名、中学生が143名、高校生が354名で、計514名にのぼる。2020年に前年(2019年)の399名から499名へと100名もの急増があり、2021年が473名、2022年が514名と、緊急事態がつづいている。
 不登校の件数も増加がつづいている。2021年度には、小学校と中学校ともに過去最多を記録した。小学校では81,478件で77人に1人(1.30%%)、中学校では157,019件で20人に1人(5.00%)に達している。
 かつて、学校には荒れ放題の時代があった。1970年代から1980年代頃における「校内暴力」全盛期の時代である。校舎の窓ガラスが割られるのは日常茶飯事で、ニュースにもならない。生徒が学校の敷地に原付バイクで乗り込む、校舎内でたばこを吸う、教師を殴る、これらの出来事も、学び舎の日常風景であった。卒業式には、私服警官が保護者に交じって待機していた。
 学校や大人に対する攻撃性を抑えるべく、学校の校則は強化された。頭のてっぺんからつま先まで、生徒の身なりや日常生活を隅々まで厳しく統制することで、刑務所のようにして生徒=囚人を抑え込むことが目指された。
 それから半世紀が経過しようとしている。時代はずいぶんと変わった。
 2020年に始まるコロナ禍(新型コロナウイルスの感染拡大にともなうさまざまな困難や危機)のもと、学校で子どもたちはマスクの着用、会話の制限など多くの規制を受けながら、日常を送ってきた。きっとストレスフルな生活がつづいてきたと推察する。だがそれでも、コロナ禍の息苦しさを他者に対する攻撃に転化することは、ほとんど見られなかった。
 ただ一方で、確実に顕在化してきたのが、先のとおり、自殺や不登校の件数の増加である。コロナ禍がどこまで影響しているのかは、わからない。だが、ここ数年の観察から言えるのは、今日の子どもは、自身の苦悩を他者に向けることはない。学校から離脱する、この世の中から離脱することを、子どもたちは選択している。苦悩の矛先は、外の大人ではなく、自分自身に向けられていくのだ。
 受難は、子どもだけにとどまらない。
 2021年春のこと、Twitter 上における文部科学省の「#教師のバトン」プロジェクトに批判が殺到した。今日、教員の長時間労働の現状を受けて、教員のなり手不足が進んでいる。これに危機感を抱いた文部科学省は、Twitter 上で「#教師のバトン」のフレーズで教職の魅力を発信してほしい、と関係者に呼びかけた。長時間労働の現状において、ポジティブに魅力を語ってほしいとのお願いが大炎上するのは、やむをえなかったと言えよう。 
 「#教師のバトン」が付された、印象深いツイートがある。教師本人ではなく、恋人からの投稿だ。

彼氏も教師ですが、昨日一緒に寝ていると夜中突然バッと起きておかしい様子だったから「どうした?!」って聞いたら「明日の部活行きたくない…」って泣きながらポロッと一言。試合+審判で、審判の講習も自費、審判のための靴や服、小物まで自費。そして無給。行かんでいい。私が電話してあげる! って言ったけど、今日朝早くから出て行った。(2021年4月11日付)

 投稿の日付からすると、土曜日の夜の出来事のようである。夜中に突然起きて、涙してしまうとは、いったいどれほど週末の部活動指導が、本人の負担となっていることだろう。このツイートは、約8,000件のリツイート、二2.7万件の「いいね」を記録した。なお、このツイートにはつづきがあ
り、結局その先生は、朝早くから部活動指導のために出て行ったとのことである。
 「子どもの前では笑顔」――これは、教員の合い言葉だ。業務の負荷が高くて疲弊したり、保護者からの苦情で心が傷ついたりしても、学校に着いた瞬間から、一人の元気で強い指導者を演出せねばならない。夜の涙は、生徒にも保護者にも、同僚にも管理職にも見えないまま、日常がくり返されていく。
 「子どもの前では笑顔」でいる事実が問題なのではない。それが教師としての「あるべき規範」として求められることで、個々の教師の苦悩が見えなくなってしまうことだ。私たちははたして、その教師の苦悩に気づけているのだろうか。既存の「先生らしさ」「教師らしさ」を放棄するところから、議論を始めたい。
 思い起こせば、学校の厳格な校則が維持されるべき理由にも、「あるべき規範」がつきまとってきた。「中学生らしさ」「高校生らしさ」である。黒色の靴下は中学生らしくない、ツーブロックは高校生らしくない――よくよく考えると謎理論なのだが、それが堂々と通用してきたのが校則である。既存の「中学生らしさ」「高校生らしさ」も、一度放棄したほうがよさそうだ。
 時代は移りゆく。私たちの価値規範も、移り変わっていく。そして、人の苦悩を目の当たりにしたときには、価値規範が移り変わっていくのを待つことなく、積極的に変えていくことも必要だろう。自分がもつ常識を疑ってみるときが、いまここに来ているように思う。改めて、非常識だけれども、私は本気だ。

 本書は、慶應義塾大学出版会の隔月刊誌『教育と医学』で、2019年7・8月号から2022年5・6月号まで掲載してきた連載「教育のリアル――現場の声とエビデンスに迫る」に、加筆・修正を適宜おこないながら、一冊にまとめたものである。
 連載期間は、全世界が新型コロナウイルスの感染拡大で大混乱に陥っていた時期と大部分を共有している。コロナ禍初期の2020年頃は日本全体が高い緊張感と不安感に包まれていた。その時期の連載稿には、当時の空気感がダイレクトに反映されている内容もある。いまとなっては、あのピリピリ感は過去の思い出になりつつあるが、当時の私自身の記録としてもできるだけその空気感を損なわぬよう、本書に残した。
 『教育と医学』の連載稿の執筆に際しては、読者層を想定して、私は次のことに留意した。『教育と医学』は1953年創刊の伝統ある雑誌であり、読者には学術界の関係者も多い。個人的な日記のようなものにならぬよう、できるだけ科学的な根拠(エビデンス)や学術的な議論・理論を参照するよう努めた。そもそも非常識な路線を走るときにはそれなりに説得力が発揮できるよう、用意周到な武装が必要である。そうは言っても浅学であるため、連載稿をもとにした本書が、どこまで読者の学術的な欲求を満たすことができるか、はなはだ不安ではある。
 本書は、五部から成る。
 第一部では、教育現場と研究者(である私)との距離感を起点としながら、「臨床研究」の射程を探った。合わせて、今日の学校教育の最重要関心事と言ってよい、学校の働き方改革について、その特質をメディア論から読み解いた。第二部では、学校の働き方改革の中心的課題である部活動を話題にした。生徒側のリスク(ケガ)と教師側のリスク(指導の負担)の両方に着目しつつ、部活動の現在と未来を描いた。
 第三部は、ちょうど新型コロナウイルスの感染拡大にともなう一回目の緊急事態宣言(2020年4月〜4月)の前後に書いた記事をまとめた。未知のウイルスを前にした、学校教育ないしは私個人の答えなき思考の跡がたどれるだろう。第四部は、学校の校則を取り扱った。理不尽な校則をセンセーショナルに問題視するのではなく、また生徒主体の校則見直しを美談にすることもなく、語られぬ校則論を展開した。第五部では、子どもの受難に着目した。ここでは、教育/福祉、教育学/社会福祉学、文部科学省/厚生労働省といった縦割りの枠組みを越えて、学校さらには家庭における子どもの受難を広く描き出した。
 以上が、本書の構成である。非常識すぎて、理解を得られない内容も多々あることだろう。それはきっと、私の書き方や視点がまずいのであって、非常識であること自体がまちがっているわけではない。ぜひ私に替わって、読者の皆さんに非常識のバトンをつないでいってもらいたい。

(続きは本書にて)

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【著者略歴】
内田良
(うちだ・りょう)
名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授。専門は、教育社会学。教員の働き方、部活動、校則などの教育問題に取り組む。著書に、『「児童虐待」へのまなざし――社会現象はどう語られるか』(世界思想社、2009年)、『教育という病――子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(光文社新書、2015年)、『ブラック部活動――子どもと先生の苦しみに向き合う』(東洋館出版社、2017年)、編著に、『だれが校則を決めるのか――民主主義と学校』(岩波書店、2022年)など。

【目次】
プロローグ
第Ⅰ部 学校と「臨床」
1 「臨床」という幻想
2 丸裸の先生が学校を変えていく
3 組織に閉ざされる個々の声

第Ⅱ部 部活動はだれのためか
4 スポーツにケガはつきものか──コピペ事故の構造
5 部活動という聖域
6 「外部化」幻想の落とし穴
7 部活動はだれにとっての問題か

第Ⅲ部 コロナ禍の学校
8 インフルエンザにかからない方法──マネジメントがリスクを生み出す
9 リスクのアンテナ──ゼロリスクをあきらめる
10 だれが子どもを黙らせているのか

第Ⅳ部 校則は変わるのか
11 校則という桎梏(しっこく)
12 コロナ禍が校則を動かした
13 私生活への越権的な介入――「学校依存社会」を読み解く

第Ⅴ部 家庭は安全か
14 コロナ禍における子ども虐待の「消える化」現象
15 減少する子ども虐待、増大する危機感
16 安全の格差、子どもの受難──虐待といじめの地域差に迫る
17 学者は真実を知っている?──いじめのウソとマコトに迫る

エピローグ
文献注

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