小説「風の仕業」kaze no itazura 8
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私はついに彼女に再会した。それを私は強く長く待ち続けていたのだろうか。
彼女からの連絡は、久しぶりのメールによってだった。彼女が旅から帰ってきたことを知らせる内容だった。
例のストーカー騒ぎで、彼女は友人のいる警察署に都合三度呼ばれ、又彼の方も何度か事情を聞かれたみたいだった。
私は友人から呼び出された後彼女に連絡を取りたかったが、彼女は私から消息を絶ってしまっていた。
仕方なく私はそんなことも忘れて、その後の生活を仕事や子供の進学、その他の雑事に追われて過ごしていたのだ。翌年アメリカは9・11のテロに見舞われ、それを受け、その翌年にはイラク戦争が始まる等、あらためてアラブやアジアそしてアメリカという多角的な世界の動きが活発化していった。私は日本のしずかな街の郊外で平和に暮らしていた。あれから五年が経ち、子供は大阪の私立高校に通い、私は自分の仕事が定着したことを感じながらも仕事に追われる毎日を送っていた。
その道路は近鉄奈良駅から東に上り坂になっていて、裁判所や県庁のある登大路を通り越し、大仏殿のある入り口へと延びている。春まだ浅い朝は公園側の歩道もひんやりとしていて、行き交う人もまばらだった。彼女は電話で私に待ち合わせ場所としてその坂の中腹のバス停を指定していた。
私はまるで身代金を受け取る犯人に会いに行く被害者のような面持ちで車を運転していた。
時間どおり私は朝の十一時にそこに着いたが、彼女の姿はなかった。指定では西行き車線の所で、路線バスが停まるスペースがある場所は、その辺りには一箇所しかなく、念のため反対側も捜したが、発見できなかった。
そうこうするうちに私のケータイが鳴った。彼女からだった。
「御免なさい。今、電車で、まもなく奈良駅です、ちょっと乗り換えで遅れちゃって」
そう言い訳を、申し訳なさそうな声で言った。私は怒るよりも、慌てた様子の彼女の声が内心可笑しかった。彼女はまもなく来るだろう。そうであれば、車を駅の直ぐ近くまで移動した方がいいだろうということで、車を西向き車線のまま近鉄奈良駅直近まで移動して待った。
ところで、彼女の名前は何だろう?私は迂闊だった、彼女の名前もまだ知らないでいる自分にそこでようやく気が付いたのだ。携帯電話の登録名は、「梅田の女性」だった。そんなことってあるだろうか?確かに彼女もこれまで一度も名乗らなかったし、まるでお互いを知っているかのように話したことを私は思い出した。話す相手は、別にあなたでも君でも良かったから。友人の刑事にも彼女の方から電話させると云ったし、彼女の名前は口にしなかった。彼女には彼の所属や部署の連絡先を教えたに過ぎない。通常そんなことは信じられないことかも知れないが、私は全くそんなことには無頓着な性格なのだ。というより、私はどこかで彼女と一定の距離を空けていたのかも知れない。どちらかと言えば私は彼女の名前を知ることを避けていたと思う。
ハザードランプを出して、駐車を始めて約十分後に彼女が、階段を上がって来るのが見えた。私は彼女の容姿に暫し見とれていたと云ってもいい。それほど洗練された美しさというか、触れがたい威厳のようなものを彼女の身体全体に感じたのだ。だからこそ彼女を疑いもしなかったし、惑わされたと言ってもよかった。
そのとき初めて私はすべてを理解した。彼がいつか言っていた「魔法」がほんとうなら、彼女は彼の催眠術的魔力の被害者であり、旅に出たことですっかりその魔法から「治癒」したのだと…….そう思うことにした。彼女は道路に駐まっていた何台かの車を捜していたが、私が車道側で運転席ドアを開け、半身に乗り出しているのを見咎めるや直ぐに車の横まで小走りにやって来た。その時しばらく映画のスロー・シーンのように、髪が揺れてあどけない顔の側面を写し出したように見えた。少し照れて薄化粧の顔がほんのり紅くなっているように見えたが、助手席のドアを開けて入って来るや、以前と同じ植物的な香りをともなっていて、その時外の風を一緒に引き入れた。風はしばらく彼女の膝あたりに旋回していて、彼女が座ると消えた。
「すみません、遅れちゃって。吉谷智子(ふるたにともこ)です」
そう彼女は初めて自身を紹介して言った。
私も自分の名前を告げ、まるで見合いをしているみたいだねと付け加えると、彼女はひとしきり笑って見せた。そういう彼女は今なお健在であると思った私も釣られて笑った。しばらくして彼女は真剣な表情になって言った。
「私のこと怒ってるでしょ、許せないと思ってるでしょ、そうですよね、勝手なことをしてあなたや刑事さんやいろんな方にご迷惑をおかけしましたから。私はあれから旅をしたんです、ひとりで。矛盾した自分を受け入れること、受け入れない自分とたたかうこと、それから新たな自分をつくること…….。生まれ変わったらあなたに一番先に逢いたかった。逢って謝りたかったんです」
私はもういいんだということを、彼女を正面から見つめ直して、無言のまま気持ちを伝えた。彼女の目から涙が出ているのをそのとき初めて私は見た。私はシートベルトを締めて前に向き直り、車を発進させた。
最初に車を発進するときには、いつもの癖で必ず座席の位置とミラーの角度を確認するが、この時は自宅で既に行っていることを、再び実行したので、我ながらどうなってるんだろうと首をかしげてしまった。やはり私は彼女によって初期化してしまったんだろうか?その後高天交差点ではUターンできないので、一度交差点を右折して、ガソリンスタンドに入り給油してから、再び国道に出たところで車を停車させ地図を見ながらあらためて私は口を開いた。
「どうして分ったの?あの時」
「え?」
車を再び発進させ、近鉄奈良駅の横を通過して、道が上り坂にさしかかる頃車を加速させた時に彼女がようやくその答を返した。彼女には私が云ったことの察しが付いていた。
「あなたはあの時地下鉄東梅田で降りて、回数カードで改札を出て、そのあと一所懸命になって、スーツのポケットや何かいろんなとこを捜してたでしょ?あの時あなたが捜してたのは、これじゃないかしら?」
と彼女が云った時、ちょうど交差点の信号が赤に変わった。私は前の車に沿い車を停止させた。彼女が私に差し出したものは、私が個人用に使うためパソコンで作った名刺だった。
その名刺を受け取り、私は思い出していた。あの時私は、誰かに会う約束をしていて…..誰だったろう、その人に渡すために名刺が入っているか、服をまさぐって確かめていた。名刺を捜すことが出来なかった私は、そのまま進んで、その途中で、そうだ、彼女に出逢ったのだ。だから予定を変更したのだ。
そう思いを巡らしていると、じっと彼女が私の方を見ているのに気付き、後続車にクラクションで促されてようやく私は我に返って車を発進させた。県庁東の交差点を越えて、しばらく進むと空いていた駐車場に車を入れる作業に入った。
「でもジュンク堂書店に行くってどうして分ったの?あの時」
「私が行きたかったから。それに私と同じコースを歩いていたから。だいたい分るわ、地下鉄から長いコースを歩いて、あのへんでどこに向かっているくらい」
質問の回答はがっかりする程至極簡単で明快だった。話し方も以前の彼女に戻っていた。平日の駐車場は空いていて、一日千円で入れることが出来た。大阪市内ではこうはいかないと思い幾分得した気分になった。彼女は歩道上で辺りの景色を見て楽しんでいる様子が窺えた。そうか、そうなのか...私は今まで彼女に体よく騙されていたことになる。車を預けて、二人で若草山の麓まで歩き、そこから山に登った。
年に一度年の初めにはこの山に生えた植物は焼き尽くされ、そこに新たな植物の芽が息吹き、小動物も新たな住処を得、山は生まれ変わるのだ。遠目では優しい小山でも、登るとかなりの勾配があり、彼女の手を引いてやらねばならなかった。しかし登れば奈良市内を一望の下に見渡すことが出来る景色が広がった。二人ともしゃがんで膝を抱えて座った。そこに風が麓から勢いを付けて吹いてきて、新参者の私達を巻き込もうとした。私は彼女の肩を引き寄せて、必死になって風に抗|《あらが》っていた。
私は、二人の出逢いを回顧して可笑しかった。その感情が彼女にも移って、二人して身体を揺らしながら笑っていた。
風によってそこいらの植物が目を覚まし、小動物達も息を吹き返す。私達はそこでしばらく過ごした後、下山して茶店風の店に入り遅まきの昼食をとった。私たちは久しぶりに向かい合わせになって食事をすることになった。
「何だかこうやって二人で食事が出来るのを長いこと待ってたように思うよ」
「私もそう」
私たちはしばらくお互いに見つめ合った後、運ばれてきた膳を前にして、自分たちが空腹であることに気付かされた。食事の後、奈良公園の中をそぞろ散歩して車のところに戻った。
彼女に車で送ろうかと云ったところ、少し考えた後で、健気にも今日はひとりで帰りますと告げた。近鉄奈良駅で彼女を降ろしたが、彼女が去った後に車の中でキーを一つ見つけた。運転席と助手席の間にキーは落ちていて、それはよくあるロッカーや会社のデスク用の小さなキーでホルダーも付いていなかった。それで私の車の最後の乗客だった彼女が無くしてないかを確かめようと、教えてもらった携帯メールで聞いた。すると心当たりはないと返事が来た。またしても私は不思議な感覚にとらわれ始めた。以前にもこんなことがあったなと感じつつ、これはゲームでいうアイテムなのだろうか、というような荒唐無稽な想像しか出来ないでいた。
D刑事からケータイに電話が入ったのはそんな時だった。彼はあれから彼女から連絡があったかどうか聞いた。私はその節はお世話になったことの礼を言い、今逢ったばかりの彼女のことは伏せて、彼女から一度電話があった、今は彼女も普通に生活している、その代わり私が少しおかしいと云ってやった。彼がやはり、あんた彼女の虜になったんだな、と聞くので、そうなのかも知れないが、実は彼女の所為で自分が「初期化した」らしいと答えた。
なんだって?「いや、パソコンで、フリーズしたときに最終手段としてするやろ、出荷状態に戻すってこと。だから人間も今まで身体に覚え込んだことが、何らかの障害でそのことが飛んでしまい、まったく何も知らない、つまり初期の状態に戻ってしまう、そんなこと」
私には分らんけど、要するに恋の病だろうが、それは治るのか?と、努めて標準語で彼は聞き返してきた。
「どうか分らない、少なくとも私がストーカーにはならないとは思うんだけど。女性の方がストーカーになることはあるかも?」
ご馳走様。それは真面目に言ってるんかい。私はあんた達の恋の仲介にはもう加わりたくないんでね、捜査の依頼は受けないよ、と言い残して、じゃまた、と云って一方的に電話を切ってしまった。
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