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小説「風の仕業」kaze no itazura 9

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 その後私は雑誌の取材で半月ばかりを海外で暮らした。ひとつはニューヨークのロァ・マンハッタンで起きたテロ後の「グラウンド・ゼロ」とそこに暮らす人々の人生を取材するためだった。ここにかつてはあったワールド・トレードセンターの南北のツイン・タワーは、いわばニューヨークの象徴としてあり、またアメリカ経済の象徴であった。そこにテロリストにより正規のルートから外れたアメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便(同じボーイング767型機)の二機の旅客機が突っ込んでいった。
 当時そんなことは誰も予想出来なかったことだし、考えられなかったことだ。特攻隊の時代ならいざ知らず。そこにアメリカン・ドリームを描いていた人達も崩れたビルと同じように、こころの柱を失ったかのように感じたろう。
 もうひとつの理由は、この機会に自分というものを一度外から眺めてみようと考えてのことだった。
 中学三年だったか、高校一年だったか正確には忘れてしまったが、母が私にそういう意味のことを話したのを今でも覚えている。私はその時居間で横になって本を読んでいた。母は廊下を掃除し終え、居間に入って来て、寝ころんでいる私が掃除の邪魔をしていると思っていたかも知れない。私の側には当時職を失っていた叔父さんが同じく寝ころんでテレビを見ていたように思う。とにかく母が私に向かってちょっとあらたまった調子でものを言ったのは初めてのことだったし、それ以後一度もなかったのでいつまでも印象に残った。母は私に「一度自分をそとから見た方がいいで」そう言ったと思うと、箒の柄の部分を私が着ていたシャツの襟の後から入れ込んだので、ちょうどシャツの襟が閉まり瞬間息苦しくなってしまった。私はその時何だか知らないが怖くて母親の顔を見ることが出来なかったと思う。私を戒めるためにわざとそういう行為に出たのか、それともちょうどほうきで、邪魔になった息子の身体をどかせようとしてただ引っかかっただけなのか……..。
 私はその後もどういう理由で母がそんなことを云ったのか、またそんな仕草をしたのかを考えることがあったが、結局いつもはっきりとした考えは思い浮かばないのだった。ニューヨークでもホテルのベッドで横になったときそのことを考えていた。なぜあの時そんなことを母が言ったのか、それは父と母の関係でそういう言い方になってしまったのか、又私の将来のことを考えて、その時の私の状態が危ぶまれてそう言ったのか……..。

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 まだその時ニューヨーク・ヤンキースが勝つ見込みがあって、私は出来るだけバーや公園、地下鉄などといった人混みを選んで人々の共通の話題の中に溶け込もうとしていた。
 あることで自分に対する戒めのために自ら禁酒を課していた私は、アメリカに来てその禁を破ってしまっていた。家庭については、子供を母親に託した格好でいた。海外でも子供とはネットのメッセンジャーで毎日会話していたし、彼女とは不規則なメールで時折会話を楽しんでもいた。
 宿泊先のホテルで、ある土曜の夜持ってきていたノートパソコンを立ち上げ携帯電話に接続すると、例のごとくメッセンジャーが起動したが、早速息子からメッセが届いた。
hirohiro「最近の父さんはちょっとおかしいね」
toruchan「どんなふうに?」
hirohiro「説明は難しいけど、以前の父さんでないみたい」
toruchan「例えば?」
hirohiro「お風呂に入るときでも、前は閉めなかったのに、今は扉を閉めてる。それから、気がついてないやろうけど、料理も今までより味が淡くなった。前程おれの写真を撮らなくなったし(いらないけどさ)おれのシャツを買ってくれるのはいいんだけど、前と趣味が違ってる」
toruchan「そうかな?でもあまりによく見てるから、びっくり」
hirohiro「それって、彼女のせい?」
toruchan「またまたショック!何とも言えない!あまりにビックリさせるなよ、帰れなくなっちゃうじゃん?そろそろ寝ろよ。そうか、ごめん、そっちはそろそろ昼やったな」
hirohiro「おれが歌手になるって言ったとき母さんが反対して、父さんひとりが賛成してくれたな、わすれないよ」
toruchan「父さんの時がそうだったからや、おまえには自分の一番したいことをさせて上げたかったから。母さんは、お前を甘やかしているといつも非難してきたけどね。ただ人生すべて思い通りになるとは限らないけど」
hirohiro「父さんは思いどおりになった?」
toruchan「そうやな、まあなったと違う?だけど知ってるやろうけど、それには高い代償がついてしまった(^_^)」
hirohiro「うん、男は大変だね。父さんみたになれるかな?」
toruchan「ひろきならなれるよ、父さんのようにじゃなくて、もっとりっぱに。じゃ、また明日」
hirohiro「ニューヨークで何かつかんだ?」
toruchan「少しだけ。それから、今度ひろきが母さんを映画に一度誘ったらと思ったんやけど。じゃ、お休み」
toruchan「考えとく、じゃおやすみ」
 私は自宅でも子供とちょっと込み入った会話するときは、メッセンジャーに頼ってしまう癖が出来た。それは息子が始めたことだった。でもそれが極めて有効なときもある。息子の成長ぶりが垣間見えるし、会話の辛辣ぶりが覗えるというものだ。

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 グランド・ゼロの後遺症は、四年が経った今日でも人々の心から消えてはいない。ヤンキース・スタヂアムでもゲームを中断して追悼する時間を設けている。八月の末は秋の気配がそこかしこにするとはいうものの、まだ夏の暑い照り返しの日もあって、私は陽差しを遠ざける術も知らずにバッテリー・パークにある幾人かの人間が集まって訴えかけている様子の彫像を見ながらしばらくそこに佇んでいた。

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 付近には大阪の西成区と同じような野宿生活者がたむろしていて、私はTシャツやバッジや写真など観光客目当てに売り付けてくる者を避けようと、足早にそこを離脱して北へ向かった。途中で路上に車を止めハンバーガーを売っている爺さんからコーラと50セントのハード・ボイルド・エッグズを買って消火栓の上で食べようと思ったが止めて、グランド0を見通せる、チャーチ・ストレートを隔てた向かいの階段に座って食べた。

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 西側には重なるように第二と第三のワールド・ファイナンシャル・センターが見え、角度的にちょうどツィンになっているようで不思議であった。しばらくすると「自由の女神」Statue of Liberty に向けて遊覧してきた飛行船が一つのビルの後から現れ、また別のビルの陰に隠れた。空はもう澄み切った秋晴れだった。

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 昼過ぎで人の姿もまだまばらだったが、一時間くらいの間には歩道上が通りにくいと思うほど人だかりがしてきた。フェンスの中には十字架の形をした鉄骨があるくらいで、フェンスの前に掲げられたパネル(そこには当時の様子を再現した写真や文綴られている)を見ても、ここを訪れた観光客にはすぐにグランド0の意味するところが何かはピンと来ないかも知れない。私はメトロに通ずる北側の階段をゆっくり下りて、地階の薄暗い空間を見通したが、何もない。ただフェンスの端にはよく見ないと誰も気づかないようなところに象徴的な文がいくつかしるされているのを見つけた。

If a man can live in New York,he can live anywhere.(Arthur C.Clarke)ニューヨーで生きていける者なら、どんなところでも生きられる、そんな意味だ。クラークは、映画「2021年宇宙の旅」の原作者である。ここには古くガタが来ているが高層ビルが無数に建ち並び、その中を道路が広く縦横に整然として通っている。自分で選んで自由に生きられる。誰しもがここに住んだなら好きになる街、それがニューヨークだ。犯罪も多いが、夢もある。音楽もある。歌もあれば、踊りもある。
 警察も消防も、ことあればいち早く現場に駆け付ける。だからそのことが9・11の時には返って裏目に出たのだと思う。この国には正義感がいっぱいで、イラクが戦争になったら、国のために戦うのを誇りに思う若者がいる。日本にはそんな若者は少ないだろう。イラクは死に行くようなものだと、人に言われたとしても、もし仕事であれば、それが命令であれば彼は厭わないだろう。私も自衛隊がイラクに行くのは反対だったが、私が記者として命令が下ったらとしたら、進んで現地に出かけたろう。私はすでに1963年にこの国の、一つの理想を抱いた大統領が暗殺されたときに、アメリカという国が一つの方向性を持ったと思っている。そしてある時アラブゲリラはアメリカの経済の中枢であるウォール街のあるロウァ・マンハッタンを狙ったのは単なる偶然ではないと思えるのだ。


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