小説「女三四郎と呼ばれた巡査」1
はじめに
この小説は、現代でも何かと女性が生きるのが難しい時代において、何とか「意地と根性」を見せて生き抜いていく一人の若い女性である花菜を通じて、歯を食いしばった戦いを同じ女性の中に見出すことで、少しでも女性として励みや自信を見出していただければ幸いです。
1 令和の時代に「女姿三四郎」登場か
彼女の名前は、須賀田花菜。大卒で二十二歳。一昨年大阪の泉南郡のりんくうにある警察学校に入校した。警察学校では、短期と長期に分かれるが、大卒なら短期課程に属し、高卒や短大であれば、長期課程に配属される。いわゆる「短期」であれば、第〇〇期短期課程と呼ばれ、学校で半年間の教養(授業)を受けることになる。逆に「長期」であればうんざりする程長い1年もの教養期間がある。彼女は履歴書には正確に書かない事柄が一つあった。それは小学校時代から大学に至るまで武道に精進していたのであるが、それがもし採用面接で聞かれれば、学校卒業からそのまま道が決定されてしまうのが嫌だったから敢えて高校の時に柔道で日本一になったことを書かなかった。大学時代に花菜は子供のいない叔父須賀田望の強い要請で養子縁組をしている。よって大学の時には高校時代までの野崎花菜の存在を知る者は誰もいなかった。似ている、と思われたことはあったが。いわゆるリケジョになってからは名のある大会にも出てはいない。別に武道と決別したわけでもないが、昔取った杵柄はそう簡単には身体から消えるわけではなかったし、地元の町道場では子供に教えてもいた。ただオリンピックや国際大会なぞといった代表選手に選ばれて、強化選手の中でがんじがらめになるというのが我慢ならなかっただけだった。
得意技は巴投げと連携した寝技、関節技であるが、大内刈りや体落とし、大腰も得意だった。巴投げが捨身技であるから、寝技が得意でなければ潰される危険性がある。花菜は右利きだから、左手が引き手であるが、いつも練習する相手が左利きが多かったためにいつの間にか引き手が左から右へとスイッチ出来るようになっていた。つまり相手を左にも右にも投げれる便利なスタイルをしごく自然に身につけるようになっていたのだった。彼女の隠れ技は咄嗟に思いついたものではなく、自然に身に付いていたものなので咄嗟に彼女の技が出た時には直ぐに交わすことが出来ないことが多かった。対戦相手はいつも彼女がどういう風に仕掛けてくるか分からず、掛ければ上手く交わされ、彼女の繰り出す自然体の動きには直ぐには対処できないのであった。いつの間にか投げられて天井を見ている自分を見出すことになる。そして彼女が警察官を目指したのも叔父がまだ現役の警察官であったのと関係がある。特に耳が潰れている分けでもなく、彼女が柔道で鍛えているなんていうのも誰も知らないことで、例年署の昇段審査の前に行われる署内の柔道大会でそれが奇しくも初めて発揮されることになってしまった。
2023年春赴任後花菜の対戦相手は、既に赴任後一年経っていたいわゆる柔道特錬生(柔特)で、負け知らずの初段女子だった。その相手に布施警察署赴任間もない彼女が黒帯を巻いて正面に立ったのだった。花菜がこれまで初段後昇段審査というものを受けなかったのには少し訳があった。勝ち抜きであれば最初から出れるし、弍段以上の中堅や大将を名乗る柄でもなかったし嫌だった。試合は初夏の頃に行われた。誰しもその試合を固唾を飲んで見守った。執務中の者を除いて道場にはかなりの人数の警察職員が詰めかけていた。初段女子の佐藤選手が仕掛け、それをかわすという試合運びで、審判員も二分経過後に初段の花菜に厳しく「指導」を与えた。三分が経過した。佐藤選手が背負を掛けようと仕掛けた。それに耐えて、再び相対した瞬間、今度は花菜がごく自然に佐藤選手の二の腕を制し、そのまま巴投げを決めてしまっていた。呆気に取られた先輩の佐藤選手は数秒天井を見上げていた。審判員はすかさず右手を真っ直ぐ天井に伸ばして大きく「一本!」と号していた。立ち上がった佐藤選手が審判に促されてようやく我に返り、立つべき位置に立つと、二人を見守っていた会場の様々な顔にそれぞれ驚愕の声がもれ、静まり返った後に盛大な拍手が鳴り響いた。
両者立ち合いの位置まで戻されて、それぞれ礼をする。審判員があらためて花菜の側に手を大きく上げて勝ちを宣言した。
「誰やぁあれ、新人ちゃうんか?でも佐藤も初段やし特錬やで、どないなっとるんや、え?」どこからともなくそういった呟きやら溜息やらガヤガヤと騒ぐ声が会場を埋めていた。実は花菜は既に実力は日本一に輝いていたが、昇段試合は講道館初段以降出ていなかった。段が上がっても同じだと考えていたし、要は実力で勝つしかないと思っていたからだった。コーチの先生もずっと彼女の意思を重んじていたというより、その方が対戦上色々都合が良かったのだ。大学では理系という専門分野に打ち込むことが多く、殆ど試合というような舞台には出てはいないし、今回の試合は久し振りだったのだ。
花菜はごく自然にというか、しおらしく会場である道場に一礼して一旦外に出た。そこに術科指導の向田が近づき、花菜に赤色の鉢巻を手渡し腰に巻くように告げた。それは取りも直さず次の試合が待っていることを意味している。向田も大学では彼女が練習という練習もしていないと聞かされていたから花菜が佐藤に勝つなんて思ってもいなかったし、花菜自身も度胸試しをしたかっただけなのだった。術科担当の向田も一度くらいマグレで勝てても次はそういかないと踏んでいた。
そして場内で誰かが須賀田選手を呼ぶ声がして、先程と反対の位置に付いて花菜は一礼し、前に踏み込んでまた一礼する。直ぐに試合は始まった。道場の外には他人の頭だけが見え隠れする中でどうにか試合を見ようと右に左に首を振るものがいる。噂を聞きつけて各課から飛んで来た連中もいるので入り切れない程の混雑になっていた。座って見物する者の外側には中腰、立って見る者が並んでいるので中の試合を覗くにも人の頭が邪魔する程であった。
二段の大城選手が花菜の前に呼ばれていた。花菜の対戦相手であった。段の差があっても実力が決められる訳ではない。初段であっても経験さえ積めば、二段や参段の選手に引けを取らない。彼女がかつては全国優勝を遂げた選手であるなどとは誰も気づいていないからだった。対戦する大城でさえもちろんそうだった。直ぐに試合は始まった。花菜は一度使った手を使わないタイプだった。誰しも警戒するからだし、得意技は一つではないからでもあった。隙があれば「大腰」で投げると決めていた。大城は同じ右投げの選手であった。出来るだけ早く勝負を決めるつもりでおり、積極的に花菜に仕掛けてきた。三十秒で審判はまたも花菜に対して「指導」を与えた。早過ぎる判定に首を傾げる者もいた。
誰がみても優勢は大城選手。見物に来たみんなが思っていた。積極的な対戦ぶりよりも彼女はこれまで無敗の、そして昨年からの「特練生」なのだから。勝敗を決したのは、はじめ、という審判の掛け声があってからおよそ3分後。大城は積極的に仕掛けて、得意の大外刈で決めようとしていた。大城の方が上背があったし、自信もあった。逆に花菜はそれを待っていた。大城が仕掛けた。大城の右足が花菜の右耳のあたりにまで上がった時だった。すかさず花菜は両手で大城を大きく抱き上げるように相手を抱えつつ、一旦花菜の左腰の上に大城の身体を乗せて逆に右に投げた。素早い動きだった。スイッチヒッターとしての花菜の面目躍如だった。大城は花菜の前方で右に大きく空を蹴り、かつ一瞬に花菜の右横に飛ばされていた。
場内にはどよめきが起こった。何が何やら分からない騒然とした空気の中で、静寂の後にやがて一斉に拍手が湧き起こる。大城は頭を掻きつつ立ち上がるが、項垂れていた。花菜は平然として位置につくが偉そうではなかった。ただ大試合には慣れていたものの、警察の中の道場では少し事情が違っていた。殆ど全員が先輩か上司であるからだったが、花菜の実力が署内で認知された初めての試合だった。花菜の顔は明らかに照れ顔で真っ赤になっていた。
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