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「建築は作品か」問題

先日、アーティストによる作品制作のライブ映像を見た。
できあがりをみて、いろいろ思いを巡らす楽しみがあります。
それはそうとして、作家の作っている様を間近でみる体験は
作家の頭のなかをのぞき込んでいるようでもあり、
思いのほかぱっとできあがったものでなく、
苦悩していることに気づいたりする。
そういう作品そのものが発する以外の
想像力では追いつかないシーンを体感できるのは
何物にも代えがたい、もうひとつの「作品」
なのだと思います。
ライブでその場に居合わせた人には僕以上に感動したことでしょう。

人が作っているという実感

住宅 の場合、大工さんの腕の良し悪しが品や質に左右します。
出来上がり以前の途中経過を依頼主と共有する。
誰が手掛けたかがわかる距離感が掴めると、
やはり建築のことを「作品」と呼んでいいのではないでしょうか。

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感動するもの、未だに。
できあがりはもちろん、それを予感する架構をみたとき。
その架構を人が組み上げているという事実を実感したとき。

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それは作り手の大工さん以上に住まい手はそうなるでしょう。
僕は作っている最中のこの景色を住まい手と作り手と設計者が
共有した時点でそう呼ぶべきと改めて思っています。
それくらい、大した出来事だと思っています。

なにも帰る場所まで映えなくていい

建築に挑むにあたり好きな言葉があります。

ジャーナリズムな建築だけが建築ではない。
 建築はもっと豊かで、深遠なものだ
」(中村好文)

近年はメディアの発達でいろいろな世界観をうかがえます。
どれもこれもいいな!かっこいいな!うまいな!
と思う。

でもそれは、一過性に関わるからいいな!と思うのかもしれない。
毎日佇むにはどうか?

映える空間は確かに魅力的に映るけれど、
毎日いると日常になる。それに耐えうるか。
その強度が日常の空間には必要である。

帰る場所くらいは映えなくていい。
映えるのは時々行く場所に任せてみてもよい。

地味だけれど、深遠なものでいい場所もある。

これもナラティブというやつか

幸せの種を共有すること。
見逃すことなく、あたりまえにせず。

こういう意識であるということを、住まい手だけでなく
作り手にも伝えていくことが設計者として大切な仕事だと思っています。

だから、建築はやっぱり作品に値する。

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