なぜ、拙著『はじめての野心』は売れなかったのか?
さて、ここで宣言をしておこう。
私は、もう一度出版を目指す。まだフォロワーが9人しかいないクセに何を言っているんだコイツはといったヤジが飛んできそうだが、私は至って本気なのだ。
リピートアフターミー。
私は、もう一度出版を目指す。
ということなんで、ここで一旦、なぜ自分の本が売れなかったのか?というとんでもなく痛い分析を徹底的に徹底的に徹底的にこれでもかッ!とやっておきたいと思う。
あのね、もう私は疲れたんですよ。
拙著『はじめての野心』を出版してからの約8年間。ずっとずっとずーーーっと売れなかった原因について毎日毎日考え続けて。
一応、マガジンやトップに固定している自伝的エッセイの記事にもそれらしいことは書いてはいるけど、今回で、この記事によって本当に分析するのは最後にしたいと思う。
サヨナラ。
売れなかった本よ…
それでは、Let's writting!
■無知は罪だ!コンセプトの概念を理解していなかった自分は死刑に処す
まず、野心本が売れなかった一番の原因を一つ挙げるのならば、それは間違いなく「コンセプトの概念を理解していなかった」ことにあると思う。
その件に関しては、野心本を解剖しながら具体的に説明していこう。
あれは、2015年8月のこと。
私は、茹でたてのジャガイモのようなアートディレクターに新しいBlogのタイトルを考えてくれないかと相談を持ち掛けていた。
で、その時に私が取り留めもなく話した内容から、茹でジャガは「出版という野心を叶えるまでの失敗・挫折経験から学んだこと」というコンセプトを発掘し、『33才までの野心学』というタイトルコピーを考えてくれた。
そして、そのタイトルのBlogを書きはじめてから約4ヶ月後。『ゆとりですがなにか』に出演できそうな担当編集家より『はじめての野心』というタイトルが書かれた企画書が送られてきた。
宣伝会議コピーライター養成講座を卒業した"今"なら理解することができるが、この企画タイトルは『33才までの野心学』のコンセプトはそのままに「表現の部分」だけを変えてくれたものだった。
『はじめての経済学』といったタイトルの本があるように、野心学もそういった学問の一つであるように尊重してくれていたのではないかと思う。
ただ、ここで『はじめて野心学』というタイトルにしなかったのは、おそらく、ガチの入門書のような真面目な雰囲気になってしまうことを避けたかったからではないだろうか?
また、これも推察でしかないのだが、そうやって「学」を外すことによってパッと見た瞬間に「違和感を与えることができる」といった「狙い」もあったのではないかと考える。
だがしかし、だがしかしですよ。
当時、あまりにも無知だった私は、このタイトルを見た瞬間にこんなことを思っていた。
「はじめての野心?はじめてってことは…2回目とか3回目の野心もあるのかなぁ?」
はい、バカでーす。
っていうか無知でーす。
ホント、知らないって「罪」ですよね…。
この時の私はもう、自分が理解できていないということすら理解できていなかったワケで。
売れないという悲劇は、既に初回の打ち合わせの時からはじまっていたのである。
でですね、ここからは更なる悲劇が野心本を襲っていくワケですが、その詳細については次の項目で語りましょう。
■担当編集者の苦労が水の泡?強さクラッシャー
これは、『嫌われる勇気』の担当編集者である柿内芳文さんがファシリテーターを務めるイベントで私がメモを取った言葉なのだが、これまた自分の言葉に置き換えるということが難しくてむずかしくて…
おそらく、ここで言われている「強さ」とは、その本がどうしたら売れるようになるのか?を考えてつくられた構成。
または、その著者及びコンテンツの中で最も打ち出していくべき「強い部分」ということなのではないかと考えている。
このことを踏まえた上で、野心本の強さとは一体全体何だったのか?を考えてみたところ、初回の打ち合わせで担当編集家が言ってくれていた一つの言葉にたどり着いた
「この本では、中村さんの経験を全部書いていい。時系列で!」
「…時系列?」
「はい。で、第5章あたりでちょっと泣けるといいですね!」
そんなんできるかぁぁ!
と、その時は私は心の中で絶叫していたのだが、今から思えばこのサクッと簡単な"二行"こそが「野心本の強さ」だったのではないかとか思う。
しかし、当時の私はこのオーダーが意味することをまるっきり理解していなかった。というより、怖くて指示通りに書くということができなかった。
自分が野心を叶えるまでの道のりを、ただそのままエッセイのように書いた文章なんて一体全体「誰が」読むのだろう?本当に面白いのだろうか?
といった疑念や恐れによって、何とか価値のある原稿にしなければという焦りから無意識に「上から目線」で「教える」ような発言を連発。
その結果、自己啓発本とエッセイのちょうど間のような曖昧な本となり、書店でも本棚が定まらずにウロウロと動き回った挙句の果てに消えていった。
結局、なんだかハッキリしないモノは売れないんだな、ということを激しく痛感した出来事だった。
それから約6年後。
私は、ひょんなことから『毎日が冒険』(サンクチュアリ出版)という本を手に取るのだが、本書を読んだ時にはじめて編集家が意図していたことを理解した。
時系列で、自分の経験を全部書くというのはこういうことだったのか…!
そういえば、装丁デザインの打ち合わせの時の資料にヒッソリとこの本の表紙写真が貼ってあったような気がする。どうして、その時に気づかなかったのだろう?
ここでもまた、私の知識不足が原因となっている。こんな名著を読んでいなかったのだから。
これまた私の憶測にすぎないのだが、編集家があえて私に『毎日の冒険』みたいな感じでと言わなかったのは本書の文体に引っ張られることを恐れてのことだったのではないかと思う。
なかなかに強烈ですからね。
更に、この冒険本を読み進めながら私は編集家が言っていた「第5章くらいで泣けるといいですね」という言葉の真意を知ることとなった。
そうなんですよ。
まだ、さほど有名でも何でもない人間のちょっとした野心ストーリーなんて「泣ける」という「価値」がなかったら誰が読むんだよ!っていうお話。
思えば、最初に企画書に書かれていた構成によると第5章は「失敗・挫折経験」であった。
そう、これは日本人が大好きなやつ!
一回落ちてから上がるみたいな、要は私に求められていたのは『成功物語』ではなく『再生物語』だったということだ。
なのに私は、身分違いも甚だしい自己啓発本を書いてしまったりして…
そういや、途中で編集家がこんなアドバイスをくれたことがあった。
「"0"というところがいいですね!ここをもうちょっと膨らませてみてください」
間違いない。この"0"というポイントが野心本にとっての一番の強さとなるはずだったのだ。
挫折して、一度は出版を諦めた私が何もかも手放して"0"からもう一度出版を目指すことにしたというエピソード。
これを、第5章に当てはめるべきだった。
しかし、私が実際に"0"を膨らませた場所は第1章、2章だったという…。
その件に関しては、次の項目でより深く詳細に見ていきましょう。
■野心本に潜む『ジキルとハイド』
前述の通り、私は編集家が発掘してくれた"0"という強さを第5章ではなく第1章、2章に当てはめてしまった。
というのも、私は野心本を執筆していた当時「時系列」というオーダーを読者自身の時系列だと勘違いしていたからだ。読者自身が野心本を読むことによって、徐々に野心を叶えていけるような内容にすることがベストだと、そう思い込んでいたのだ。
なので、私は冒頭の第1章、2章に「自己分析」を盛り込んだ。私自身が挫折した時に取り組んだもので、最初の一歩を踏み出す前にこれをやっておけば挫折せずに済んだのに!という後悔から書き殴ったものだ。
そう、私は読者には自分と同じ苦労をしてほしくないという一心で、これを読めば最短最速で野心を叶えることができるんじゃないかという想いを込めて超勘違いな原稿を書き散らしてしまったのだ。
結果、どうなったかというと、野心本は第1章、2章と第3章以降でまったくの別の本になってしまった。一冊の中に強烈なコンセプトが2つ入り、精神分裂を起こしてしまったのである。
もちろん、一つの企画の中に2つのコンセプトが存在することはなくもないのだが、それは同じ方向性に沿ったコンセプトである場合に限る話であって、野心本のようにここまで相違のあるコンセプトが2つも入っているケースは珍しい。
ちなみに、野心本に入っている2つのコンセプトというのは、第1章、2章が「最初の一歩を踏み出す前には、最初の0歩を踏む必要性がある」といった自己分析を推奨するような内容で、第3章以降は元々想定されていた「野心を叶えるまでの失敗・挫折経験から学んだこと」である。が、編集家の構成をぶち壊しているので「自己啓発本とエッセイのあいだ」といった"一行"のほうが相応しいかもしれない。
そういえばの話しだが、野心本の制作も終盤に差し掛かった頃に編集家がタジタジとした雰囲気でこんな質問をしてきたことがあった。
「この本、第1章と2章だけのほうがいいですかね?」
当時、慣れない執筆でてんやわんやだった私は、この言葉を聞いた途端に「え、今更何を言っているんだコイツは?」という怒りにも近い心境に陥り、今から全直しだなんて冗談じゃないと言わんばかりに「そんなことないですよ!」とテキトーに言ってのけた。
だが、後々になってコンセプトの概念を理解してから猛省した。編集家が指摘してきた通りだったな、と。これもまたまた憶測だが、あの時、編集家は気づいていたのだと思う。野心本が二重人格になっているということに。
まぁ、そりゃあそうだ。
だって、編集者は他の誰よりもコンセプトを重んじる存在なのだから。けれど、この世の中のどこに著者が書いた原稿の2/3以上を校了日が迫りくる中で捨てることのできる編集者がいるというのか?
たぶん、ゼロだと思う。
こればっかりはもう、私自身の執筆スピードの遅さが敗因だったと反省せざるを得ない。
というか、私のように書くスピードの遅い著者はスタートの時点である程度原稿を用意し、担当編集者にコンセプトを発掘してもらってから、もう一度"0"から書き直して再構築していったほうがいいんだと思う。
意外と、私は自分の創ったものにこだわりがないのだから。もっと、その部分を主張して、今後は遠慮なくバサッと文章を切ってもらわないとダメだ。
で、話しを元に戻したいのだが、私は、当時担当編集家がしてくれていた指摘は全力で正しいと思う。
野心本は、
第1章、2章だけのほうがよかった。
そのほうが「読者」にとっての「価値」が高かったし、時代の風潮や装丁デザインとも合っていた。
しかし、もしもその時に第1章、2章だけに絞って販売していたとしても、商品としてはあまりにも「未完成」で売れることはなかったと思う。
それは後に『メモの魔力』(幻冬舎)に掲載されている1000問の自己分析に取り組んで痛感したことだ。自己分析系のワークは、早々簡単に掲載できるものではない。
何を思ったか、野心本の中ではほんの少しだけ「心に触れるワーク」も掲載してしまったが、これは心理学を学んでいる人間やカウンセラーの資格を持っている人間が提唱する分野であって、私のようなド素人が踏み込んでいい領域ではないのだ。
やはり、私が書くのであれば「挫折した時にこの本の自己分析をやって救われました」といった情報提供だけに留めておく方が賢明である。
もしくは、心に触れないカタチでのアプローチか。それは例えば、キャリアやアート(自己表現)といった方向性からの自己分析だ。
いずれにしても、私のこの失敗は自分の身の丈を知らないことにあったと思う。恥ずかしながら、執筆当時は自分のことを過大評価していたのだ。その件に関しては、またまた次の項目で語ることにしよう。
■この身の程知らずがッ!と言って殴ってやりたい。
そうなんですよ。これなんですよね。野心本が売れなかった大きな原因の一つは。
「#身の程知らず」でもいいのはナイキの広告くらいなもので、自分や自分の考えを商品とする場合は自分の価値や評価を正しく理解していないとコケる。これは芸能界にいた時にも再三聞かされていたことだった。
私は、調子に乗っていたんですよね。
野心本の執筆当時、たった一冊出版が決まったくらいで成功したと勘違いして、単純に拙著『美女と野菜』を出版するまでの軌跡を『毎日が冒険』をオマージュするように書いておけばいいものを、何を思ったのか「上から目線」で「教える」ような書き方をしてしまった。
自己啓発本を書こうとしていたのです。
それは自伝的エッセイを書くだけの自信がなかったという「言い訳」もあるけれど、一番は心の奥底で消化できずにくすぶっていた「復讐心」が「爆発」してしまった結果なんじゃないかと思う。
芸能界にいた頃から、ずっと売れずに虐げられたような環境下にいると「発言権」がないような気がして周りに何を言われても黙り込んでしまう。
言い返さずに、すべての言葉を飲み込んで「いつか見返してやる!」といった「怒り」を心の奥底でフツフツと煮えたぎらせてしまうのだ。
で、それが溜まりにたまって「小さな成功」を掴んだ瞬間に大爆発した。
今まで言い返すことができずにいた言葉をこれでもかッ!と吐き出してしまったのだ。過去に出遭ってきたムカツク野郎よりも「上」に立つために。
教えるとは、
一種の復讐かもしれない。
少なくとも、野心本を執筆していた時の私は復讐心に燃えていた。特に、男性陣に対して。私は、ずーーーっと何の専門家でもない年上の男性から偉そうに教えてこられるのが嫌でイヤで仕方なかったから。
だから、野心本の本質を見つめてみると、その矢印は読者ではなく「過去の恨み」に向かっていたのだ。
そんな本、売れるワケがない。
本当に読者のことを考え、自分の身の丈をしっかりと認識することができていれば、やはり担当編集家が考えてくれていた書き方が当時の私にとってはベストだったのだと思う…。
いや、それは違うか。
根本的な問題は、もっともっと前の段階にあったのだ。
本当の私は、他の誰よりも上から目線で偉そうに教えたいし、主張したいし、持論を展開したいし、導きたいし、言語化したいし、経験を晒していきたいし、心の内側を暴露していきたいということを「渇望」している悪魔のような人間だ。
で、あるならば、SNSの段階からその方向性でガシガシと本音を書き殴りながら数字を集めていなきゃダメ!
自分なりの持論を全開にして、何もかもを吹っ切るように書いていないと後々方向転換を切りことなど不可能に近いのだから。
まんべんなく好かれようとして、いい子ちゃんの優等生になんかなるなよ。
本当の「身の程知らず」とは、自分自身の特性やエネルギーの大きさを認めることができていない人間のことだ。
この身の程知らずがぁぁ!
今後は、その点を踏まえながら全力で100%自分の本音を晒しながら書き散らしていくのが吉だと思われる。
■ターゲットが100人!?
ちょっと話しは変わりまして、野心のターゲットについてなんですけど。
こちらも今から思えば正気の沙汰とは言えないというか、私はターゲットを100人設定していた。というのは大袈裟なので正確に表現するならば、私は執筆当時、一項目ずつターゲットを変えて文章を書いていた。
すべては、
売りたいという欲のために。
メチャクチャ安易なんですけど、色々な人に刺さればその分売れるんじゃないかっている考えだったんですよね。
しかし、その後どの本を読んでもターゲットは「たった一人」に絞るべし!という掟が…。
もちろん、そうではない持論を展開して結果を出されている人もいますが、ほぼほぼ8割9割の人達が「ターゲットはたった一人」だと豪語しているので、この考えに従って反省していくべきなのでしょう。
でも、よくよく考えてみたらその通りですよね。誰か一人に刺されば、その人に似たような人は10人100人1000人10000人といるワケで。
結局、色々な人に刺さるようにするってことは誰にも刺さらない本になるんだということを身をもって知った次第です。
ちなみに、野心本に関しては読者の方から送っていただいたメッセージから分析するに二極化していましたね。第1章、2章っぽい人と第3章以降っぽい人に別れていたという(笑)
なので、今後もしもまた本を書くとするならば、ターゲットはたった一人に絞ってみたいと思う。
ただ、そのたった一人を「誰」にするのか?という問題なのですが、これがまた私の場合は難しいんですよ。
そもそも、私は私自身のためにしか文章を書くことのできない人間でして。すべての文章は自分を楽しませるために書いているワケです。
で、あるならば、自分自身をターゲットにすればいいじゃないか!という声が聞こえてきそうだが、それだけは絶対にありえない。
なぜなら、私は私のように中途半端な人間が書いた本を買うことがないからだ。
もしも、手に取ることがあるとするならば、最低でも10万部を突破した時か朝の情報番組やSNSで話題になった時だ。
なので、私自身はまずターゲットからは外れる。というより、ターゲットは私が私自身のために書いている文章を本気で面白がってくれる人、この本を読みたいと心から思ってくれる人がいいかもしれない。そう考えると、ターゲットとして設定すべき人間はただ一人。
それは、担当編集者だ。
よく、担当編集者は「最初の読者」だと言う人がいるが、私は本当にその通りだなと思っている。というのも、2冊の本を出版した後に読者の方が送ってきてくださったメッセージの9割が2人の担当編集者の文体にそっくりだったからだ。
なかには、これ、本人じゃないの?と見間違えそうになるようなメッセージもあった。だから、私の本のターゲットは担当編集者なのだと思う。
ま、これはあくまで私の仮説なのだけど。
でもでも、そう考えることができるのであれば、また本をつくる時にはどれだけ私の文章を本気で担当編集者に面白がってもらえるかが勝負だし、そうやって目の前にいる一人を喜ばせるために書いたほうが合理的な気がする。
結局、ターゲットは30代後半~40代の女性です。とか言われても、そんな顔の見えねぇヤツのことなんか知らねぇし!って感じ。
書けないよ。
会ったこともない奴のためになんか。
と、ここで文句を言っていても仕方がないので、時が来たら要相談ということで宜しいでしょうか?
■自意識は殺しておけ
はい。前の項目に書いた通り、もしも次に書く本のターゲットを担当編集者に設定するならば、絶対に絶対に絶対に「自意識」を殺しておくことは必須だと思っている。
ここで私が言うところの自意識というのは「売ってやろう」「自分を表現してやろう」「目立ってやろう」といったエゴとも言うべきコントロール欲のことで、これがあるとまぁ商品や作品はこじれていく。
芸能界でも、売れている人達のインタビュー記事を読んでいるとほとんどの人が自意識を捨てた時から売れるようになったと言っているように、モノでもコトでもヒトでも「何かを売る時」には作り手の自意識は不要であると考える。
特に、ビジネス・実用書に関しては自意識を入れて書くなどもってのほかだ。
そう考えると、以前は批判的に捉えていた「ゴーストライター制度」は理にかなっているのかもしれない。ビジネス・実用書に必要なものは著者自身が持っている「コンテンツ」だからだ。
ビジネス・実用書の著者は、作家や小説家とは違う。文章力よりもコンテンツ力のほうが必要なのであって、こましゃくれた文章表現よりもいかに内容を分かりやすく伝えるかといったサラッとした言葉が求められている、と今の私は考えている。
だが、野心本を執筆していた当時の私はてんで真逆をやっている。一つ一つの文章にチカラを入れ、タイトルよりも強いキャッチコピーのような言葉を乱立させてこれでもかッ!と自己表現をしようとしている。
それじゃあ、結局のところ何が言いたいのかワケワカンナイ本になってしまうし、実際、読者からも読み終えた瞬間にオエッとなったと言われた…。
そういうことだ。
更に、この時の私はあり余った自己表現欲求を想定デザインにまで押し込もうとしていた。非常に恥ずかしい話だが、装丁デザインでも最初はその時の自分というものを表現しようと企んでいたのである。
しかし、野心本に関して言えば、装丁家の素晴らしいアイデアによって現在のカタチへと着地。こういった面も含めて、著者というのはつくづく自意識というものを放棄して文章内容に集中したほうがいいんだよな、と反省を込めて書いておく。
自分の作品ではないのだから。
ちなみに、自意識にも関連しているイタい話しはまだまだある。それは本の帯に掲載されているキャッチコピーに関することだ。(つづく)
■クリエイティブの逆算は御法度です。
最初、担当編集家が考えてくれていた野心本の帯に掲載されているキャッチコピーは【何もない「自分」じゃなくなる!】だった。
しっかーし!
当時、まだ宣伝会議コピーライター養成講座に通う前だったスーパー無知で生意気な私はこともあろうがベストセラー編集者である編集家に向かって「何もないじゃ弱くないですかね?」という意見を送信。
そして、屁理屈をこねてこねてこねてパンを焼き上げ、編集家の口にギュッと詰め込んで食べさせてしまったのだ。
で、なぜかその屁理屈パンをおいしい!と言って喜んで食べてしまった編集家をねじ伏せてキャッチコピーを【何者でもない「自分」じゃなくなる!】へと変更。その言葉に合わせて、本文内容も書き換えてしまった。
はい。
これがいわゆるクリエイティブにおける逆算と言われているものです。よい子はゼッタイにやってはいけないことです。
いやぁ、痛いですね。
ただ、今から思えばこの本のキャッチコピーはなかなかに考えずづらかったのではないかと思う。だって、私が不要な原稿を書き散らかしたせいでコンセプトも何もかもグッチャグチャだったから。
けどね、やっぱりこの本のキャッチコピーは【何もない「自分」じゃなくなる】が正解だったんだと思う。私が「何者でもない」に変更したせいでBlogの読者から「自分が手に取るような本じゃないと思った」と言われたから。
よい子のみんなは、ちゃあんと担当編集者のいうことをきこうね!
■場違いなPRで175万円の損失!
ご報告いたします。2冊の本にかけたPR料金は総額で175万円ですが、どちらも泣きたいくらいに結果が出ませんでした。以上です。
その原因は色々と思い当たるのだが、特に、2冊目の野心本に関して言えばスピリチュアル本に強い会社に依頼したことが敗因だったと思う。
野心本、ゴリゴリの現実主義者が書いた本だぞ!スピリチュアルと真逆だぞ!そんな場違いなPRをして効果があると思ってんのか?
と、タイムマシーンがあるなら当時の自分をビンタしてつるし上げたいところなのですが、目の前に『ドラえもん』はいません。
ただただ反省するしかないんです。
あとさ、これって結構重要な話だと思うんですけど、自分で執筆するタイプの著者はどうしても一番の広告媒体である自分のSNSの更新が執筆中は疎かになってしまうものじゃないですか。
で、そうなるとですね、アクセス型のSNSに軸足を置いているとどうしても広告力が落ちてしまう。執筆中にアクセスが減ってしまうんですよ。
はい。
これはリアルに感じましたね。
まぁ、私の場合はそれだけではなく、最初は野菜のBlogをやっていたところに野心のBlogを上書きしたカタチだったので、結果として野菜のBlogについてきてくれていた読者を裏切ってしまったような感じになっていたんだろうなって思う。
要は、反感を買っていたということ。
アクセス数の中身って、ファンだけじゃないですから。アンチが9割ってこともあるのです。
某タレントも言ってました。
数万人のフォロワーがいるのに、イベントに来てくれたのはほんの数人だったと。
悲しい。
非常に哀しいです。
でもきっと、これと同じようなことが私が出版した時にも起きていたのではないかと思う。ぜーんぶ、想像ですけどね。
だけどもだけど、そういったことが実際にあるのなら、最初から自分は一つのコンテンツだけではないということを見せていき、且つ、アクセス型ではなくフォロワー型のSNSに注力したほうがいい。
ということで、
私は今noteをメインに活動しています。
■結局は、人間力なんじゃない?
疲れた。もうこの項目で書くのはやめることにする。自分の本が売れなかった原因について考えるのもこれが最後なんじゃ!うわぁぁぁあ!
思ったんですけどっていうか、ここまで色々なことを分析してあれこれ原因と思わしきことを挙げてきましたが、結局あの時の自分には「人間力」がなかったから売れなかったんじゃないかと思う次第であります。
というのも最近ね、『わたしが「わたし」を助けに行こう』(サンマーク出版)っていう本を読んでひどく感動したんですよ。
ああ、いい本だなぁーって。
私の書いた野心本とは大違い。
ただただ読者のことだけを想って、本当に読者の心に寄り添いたいと思われている感じがヒシヒシと伝わってきて、実際に掲載されているワークに取り組んだらまるっと人生を変えることができた。
特に、人間関係に関すること。
で、その時にやっぱりこういう本が売れていくんだなって思って、本当に過去の自分が恥ずかしくなったんです。
だから、
ここにきて結論!
私の本が2冊とも売れなかった理由。それは、著しく「人間力」というものが欠如していたということ。まだ、本を書くべき人間ではなかったということが一番の原因だったんだと思いまぁす!
以上です。