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2023年豊島区議会議員選挙をふり返って

2023年4月23日 3029票 7位/56名 にて初当選いたしました!
「みんなのまちはみんなでつくる」この一見簡単なスローガン。

今の豊島区は区民の皆さんの声がちゃんと届く社会でしょうか?

参加×対話×協働を大切に皆さんと一緒に私はまちづくりがしたい。

令和5年4月23日 23時45分頃 支援者の皆様と喜びを分かち合いました!

はじまり

2022年9月某日、夫が帰宅とともに立憲民主党の衆議院議員鈴木ようすけさんのチラシを机に置いた。「区議会議員募集だって」そう言いながら机に置かれたチラシを見ると、条件が全て当てはまった。立憲民主党なら野党第一党としてやりがいがあると率直に感じた。

なぜ、立候補?


私の曽祖父と曽祖父の兄弟は2人併せて区議会議員、祖父は区の職員と地元の町会長、そんな背中を見て育った私の父は、政治やまちづくりに関心が高かった。
私が幼い頃から「政治はおもしろい、女性の政治家になれ!」そんな言葉をよく家族団欒時に話してくれた。私は小さい時から政治に関心があったわけではないが無関係とも思っていなかった。
区議会議員って何?うちの近所にもいるの?誰なの?そんなことを幼い頃から意識していたのは確かだ。

地元の区議会議員との出会い

小学1年生くらいの時、
地元の椎名町小学校の通学中に、ある区議会議員に遭遇した。オーラがあってかっこいいと思った。
思わず一緒にいた従姉妹と「握手してください」と話しかけた。
その区議会議員は、自転車からわざわざ降りて優しい笑顔で握手をしてくれた。
今思えば、そんな体験も今へと繋がっていたのかもしれない。
それから20数年たった今、私はその議員と並んで区議会議員として働いている。

大学での経験


時はたち、私は早稲田大学 文化構想学部へと進学した。
個性豊かな面々が揃い、それまで私は自分が変わり者だと思っていたが、そうでもなかったことに気付かされ、私にとって居心地の良い場所となった。そんなキャンパスライフを共に過ごしてきたバラエティ豊かな友人らがさまざまなフィールドで活躍し、今でも私の刺激となり誇りでもある。そこでの経験と出会いは今でも宝物であり私のアイデンティティをつくってくれた。

その在学中、突然の不幸があった。父が突然自宅で倒れてそのまま天国へ旅立ったのだ。今まで精神的な支えでもあり家族の大黒柱でもあった父が突然いなくなったのは精神的にとても辛かった。母を支えなければいけないプレッシャーと学費の問題、卒業ができるのか不安しかなかった。母一人、娘一人そんな私たちを支えてくれたのが地元にいる親戚、地域の皆さん、そして行政だった。

なぜ、立候補?続


私は正直、自信がなかった。
今まで民間企業で働いた経験しかない、議員秘書経験も政治のボランティア経験も全くなかった。
ただ民間企業で働いた営業・接客・広報のスキルと子育て経験くらい。それでもチラシに何か縁を感じ、まずは話を聞いてみようと思った。
チラシに書いてあるメールアドレスに、応募事項を全て書いて連絡した。
翌朝、秘書の方から面談をしたいとの連絡があり、池袋のグローバルリングカフェで面接してもらった。
私は、そこで不安を全てぶつけた。
その秘書の方は
「地元生まれで先祖の志を引き継いでほしい、
子育てと民間での経験を活かして当事者としてもっと良くしてほしい、
そして地元の皆さんに恩返しをしていけばいいんじゃないか」
私はその言葉に背中を押され立候補を決意した。


政治活動、始動

立憲民主党内で私が与えられた豊島区のエリアは希望通り、
地元の長崎・南長崎1〜6丁目そして学生時代お世話になったまち高田だった。

私の方針は、「育児、子どもに支障が出ないように活動する」である。
子どもとの時間を働くことで犠牲にしない、
そして何より雇用が安定して女性が働きやすい、女性の地位が確立される、
そんな世の中にしたいという思いを込めて活動しようと心に決めた。
夜の駅頭は極力なし。応援に衆議院議員などが来てくれた時のみ活動した。

落合南長崎駅にて朝の駅頭活動中の一枚

一からのスタート


2022年10月〜12月

私は民間企業と子育ての経験しかない。
強みは、このまちで育ったこと、このまちの変化を見てきたこと、その中での感じた違和感を訴えようと考えていた。

私の理念の確立 (住民参加×対話×協働)

区民参加を訴えた
私のキャッチコピー「みんなのまちはみんなでつくる」の前身のチラシ


配布したチラシを見て一人の支援者が現れた。
(その支援者は今は私の右腕となり後援会会長を務めている)

お互いの想いを2時間弱話しあった。そこであるアイディアが浮かんだ。
この対話にこそ意味があるということだ。

支援者の方は、杉並区の政治に関心を持っており
岸本聡子区長のいう、
多くの区民の皆さまと課題を共有し、議論を深めていく
「対話」を大切にしたまちづくりを実践するのはどうかと提案した。

私の持っていた違和感とは、一部の会社やエラい人の話しか通らない、見えない政治だった。この「対話」を大切にするまちづくりに深く共感した。

「対話」をすればより良いアイディアを生み出せる。
この「対話」をより多くの区民の皆さんとすれば、みんなの声が反映されたまちがつくれる。

豊島区は、アートカルチャー多様性を重んじるまち、女性や子ども高齢者に優しいまち、そんなまちをみんなで良くしていきたい!と思った。
私は住民参加・対話・協働を理念に活動しようと決めた。


とある1日のスケジュール


5:00 起床 身支度 家事(洗濯・朝食とお弁当2人分準備)
7:30 駅頭 椎名町駅か東長崎か落合南長崎のローテーション チラシ配り
8:40 休憩 SNS更新
9:30 困りごとお伺い活動
11:30休憩 SNSチェック
13:00お困りごとお伺い活動
16:00子どものお迎え 買い物 家(幼稚園準備 料理 洗濯 掃除など)
18:00夕食 お風呂 子どもの宿題や遊びなど
21:00子どもの寝かしつけ(←なかなか寝ない。。)
22:00自由時間 (子どもと一緒に寝てしまうこと多々)
24:00就寝

2023年 1月〜2月

年始早々、家族全員コロナに罹り、1月は半月ほど活動ができなくなった。
自宅待機中にチラシの第二弾の作成や環境問題(気候変動)を扱ったカルタ大会の
企画と準備をした。
1日のスケジュールは昨年同様、朝の駅頭の回数週3〜4回へ活動量も増やした。
個々の面談や打ち合わせも増え、土日も含め朝から夕方まで毎日何かしら予定が入っている状態。
スッピンで一日過ごせる日はほぼなかった(笑)

カルタ大会チラシ

段々と選挙ムードに


2023年 3月〜4月22日選挙直前まで

区長候補が決まったこともあり、いよいよ選挙ムード、周りの変化も感じてきた。
この頃になると朝の駅頭でのボランティアの数が増えてきた。毎朝誰かしらは手伝ってくれた。

ボランティアの皆様との一枚
ボランティアの皆様とチラシおり大会


「いつも頑張っているね!」「応援してる」「立憲どうにかしろ!」などなど
たくさんのお声をいただく機会が増えた。どんな言葉も政治や私に関心を持っている証拠とポジティブに受け止めた。
マイクを握り演説も徐々に始めた。何者か?から豊島への想いと政策へ、だんだんと濃い内容に色付けしていった。友人の一人に、弁論大会全国1位になった方がおり、話し方や伝え方の指導も受けた。

マイクを通して必死で訴えた一枚


この頃から自身の変化も感じるようになった。駅に立つこと、マイクを握って話すことに抵抗がなくなったのだ。最初は、もじもじ、声も小さく、噛んでばかりで上手に話せない、恥じらいがあった。それがなくなってきた変化に3月になって気づいた。

そして公園でのアンケート活動も始めた。私は住民参加や対話を大切にしたいので政治活動でもそれを実践しようと考えた。

椎名町公園にてアンケート活動を通した対話をしました!

皆さんとの対話から生まれた意見、そして支援者の方々とたくさん協議しオリジナルのチラシを作成した。イラストは未来像を表現し、子どもたちが見てもわかりやすくイメージしやすいレイアウトを考えた。
(ちなみに今までの制作物は全て私の自作)

大好きな父との思い出そして想いを書いた
「みんなのまちはみんなでつくる」の誕生

応援演説にて拍車がかかる


直前には参議院議員の蓮舫議員が応援に来てくれた。
素晴らしい演説を横で聞き、自分ももっとわかりやすく上手く想いを伝えたいと思った。
この応援がきっかけで、私の活動にさらに拍車がかかった。

4月8日東長崎駅にて蓮舫議員より応援演説

いつも親切にしていただいている椎名町の不動産に事務所を貸していただけることになった。どんなわがままも快く聞いてくれ従業員総出で応援してくれた。
不動産の窓や入口に立憲民主党ののぼり旗やポスターを大きく装飾し、営業に支障が出てしまうようなご意見もあったにも関わらず、貸していただき本当に感謝している。

4月9日事務所開き

アクシデントも多々発生。。。

子どもの育児に支障がないようにやっていたつもりが
私にも焦りや不安が募り、ついつい自分のことでいっぱいいっぱいになった。
土日もアンケート活動や打ち合わせで予定をいっぱいにしてあまり子どもとのお出かけもゆっくり過ごす時間も作れなかったせいか、
子どもが情緒不安定になった。
改めて、子育てや仕事について考えさせられた。なんのための活動なのか何を変えたくて政治活動を始めたのか原点を振り返るきっかけにもなった。
半日でも子どもとゆっくり過ごす時間を作ったり、いろんな人に支えられながらも何とか日々を過ごした。焦りと不安と申し訳なさでとても辛かった。

また、私自身も疲労が溜まり、選挙期間直前に高熱とギックリ腰になった。大切な選挙直前に2日間も家で療養することになった。
今までの努力が泡になるような気がして不安との戦いは続いた。
それを支えてくれたのは、いつも側で支えてくれた家族と、応援してくれる支援者の方々、そしてSNSでいつもコメントくれる支援者の方々だった。

選挙本番

MY選挙ルール


1、選挙カーから音を出さない(これに関してはまた別の記事で書きます。)
2、子育てがあるため、選挙最終日以外は18時半までに終了させる。
3、SNSを最大限活用する。

音を出さないオリジナル選挙カー

このルールには賛否両論だらけ。
「新人なのに音を出さないなんてあり得ない!」「選挙をなめているのか!」
「ギリギリ20時までやったほうがいい!」「これじゃ絶対落ちるよ」

支援者離れが心配だった。

私は自分なりの考えがあり、時代に合わせた選挙がしたかった。
何が正しいかなんて正解のわからないものに対して、断定するのではなく
試行錯誤しながらも新しいカタチを作っていきたかった。

それこそが政治、新しいことにチャレンジすることが世の中を変える第一歩と信じていた。

古い慣習から学びを得て次に活かすことこそ伝統や慣習がそこではじめて生きてくる。今の時代の流れや社会を考慮しなければ誰も幸せにできないと思った。

そんな想いを伝えたところ、支援者は誰一人と離れることはなかった。

選挙初日の1枚まさかいつもの地元を選挙で練り歩くとは。。


そして、いよいよ選挙戦が始まった

体調は万全ではなかった。病み上がりで微熱があった。

初日は、日曜日ということもあり大学時代の友人、中学高校時代の友人、ママ友、お世話になっている地元の銀行員の方などに応援に来てもらいポスター貼りや証紙貼りを手伝ってもらった。

老若男女、人が集まり事務所は活気で溢れた。
自身の体調不良も忘れるくらい頑張ろうと思えた。

しかし、初日に無理をし過ぎて選挙戦三日目になり、再度発熱。そして喉が潰れ声が出なくなった。午前中の予定を急遽病院と療養に切り替えた。

主治医にどうしても早く治してほしいと懇願した。
最終日はきちんと活動できるように、休憩時間を増やし街宣車に乗るなど休み休み活動した。

「対話」を軸に

椎名町サミット通りにて練り歩きの様子


私の活動の基本は、練り歩き(徒歩)か自転車。
これにも実は工夫をした。私は「対話」を大切にしていたため、徒歩でも話しかけられそうな方に話しかけその場で5分でも10分でも話をした。
また自転車も、ただぐるぐる周るのではなく、人を見つけ次第、自転車から降りてひたすら話しかけ対話をしてきた。

選挙中のとある1日のスケジュール

5:00 ボランティアの方が場所取り 私は自宅でいつも通り家事・育児
7:00 駅にてご挨拶
8:00 演説 ビラ配り
9:00 練り歩き OR      自転車  (ひとりひとりと対話) 辻で演説
10:30 休憩
11:00 練り歩き OR      自転車  (ひとりひとりと対話) 辻で演説
12:00 昼食
13:00 公園にてインタビュー
14:00 練り歩き OR      自転車  (ひとりひとりと対話) 辻で演説
16:00 駅かスーパーか商店街の場所取り
17:00 演説 ビラ配り
18:00 片付け
18:30 帰宅 SNS 更新

ライバルの不安

他の候補の選隊は、平日でもパッと見5〜10名、事務所前を通るとお菓子を食べていたり人がたくさんいて賑やかだった。演説も多くの人が集まっていた。
LEDライトにスピーカー付きの街宣車も毎日20時前のギリギリまで鳴り響いた。

それに比べ、私は平日は2名で行動、多くても4名くらい。
演説時は、通行人くらいしかいない。
18時30分には活動終了。

サミットの前、少し寂しい平日の選挙活動

やっぱり厳しいかな、そう思うこともあった。私がそんなことを考えていたら支援してくれた方全員に申し訳ないと思った。どんな結果になっても区民の皆さんのために最後まで諦めない

「周りがどうだろうと私は私の戦い方で勝つ!」

そう改めて気持ちを持ち直した。

インタビュー形式の「対話演説」


最終日は20時まで、最後は椎名町駅で締めた。
遠方からも多くの友人が集まった。また初日に来てくれた友人も再度最終日も応援に来てくれた。
今まで「対話」を軸に活動してきた締めくくりとして
まちの人にインタビュー形式の「対話演説」も実践した。
これは今後の活動にも活かしていきたい。

まずは支援者の方にインタビューし、話しやすい雰囲気づくりを心掛けた

最終日の一体感

最終日の朝、十文字高校の恩師の言葉を突然思い出した。
「一緒に頑張る仲間がいるから自分も頑張れる」「最後まで諦めるな」
その言葉を思い出し最終日、最後まで頑張ろう思った。

最終日の4月22日は、
桃太郎チーム、事務所待機チーム、メンタルサポートチーム(友人)、SNS実況配信チーム、食糧供給チーム、子どもの面倒見るチーム、

↑チームを作っていたわけではないが、
必然と多くのチームができているように感じた。

グループラインを最大限活用し、各チームうまく連携が取れていた。
私の中で何か一体となる感覚が確かにあった。

このまま最後まで突き進もうと思った。


最終日の20時前ギリギリの写真

反省点

振り返ると反省点は多々ある。一番は子どもへの配慮、そして自身の体調。

次回はもっと子どもファーストで戦う。
朝の駅頭が本当に必要か、街宣車を出すか、子育て中の身として活動時間に更なる工夫を凝らしていきたい。

そして時代に合わせた新しい選挙のカタチを作っていきたい。多くの人が政治に関心を持ってもらえるような工夫を考えていきたい。

最後に、

私一人の力では到底不可能だった。多くの人との出会い支えがあり私は勇気と力をもらえた。これからもまだまだ険しい道のり、これからが本当の戦い。初心を忘れず、支えてくれた多くの皆さん、そして私に1票を託してくれた3028名の皆さんの想いを胸に私は挑戦し続けます。

当選証書と共に選挙戦を戦った皆さんと










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