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「個体や性質や関係といった項を取り出す」「個体や性質や関係をかき集める」とは具体的にどういうことなのか

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析の続きです。これまでの記事は、以下のマガジン

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

をご覧ください。なお、本文中の引用はすべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房、2006年からのものです。

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 机が茶色いということ、その机の上に赤い本があるということ、こうしたことがら、つまり事実は、たんに個体、性質、関係の寄せ集めとしては規定できないのである。だからこそ、われわれはいきなり事実から始めねばならない。事実を構成している要素として、個体や性質や関係といった項を取り出し、そこから事実を組み立てていこうとしても、ただ個体や性質や関係がそこにかき集められているだけでは、どうにもならない。

(野矢、35ページ)

と野矢氏は説明しているが、では関係という項を取り出す・関係(や個体・性質)をかき集めるとはどういうことなのだろうか?
 実際に試してみれば分かるのだが、「上」とか「下」とかいう位置関係を示そうと思えばやはり机と本とがそこにある事実を指し示した上でその関係を示すしか他に方法がないのである。
 あるいはお餅の上にミカンが置かれている、というふうに別のシチュエーションを用いて上下関係を示すこともできようし、二つの図形を縦に描き、こちらが「上」でこちらが「下」だというふうに像として(つまり事態として)示すこともできよう。ただいずれにせよ、関係は様々な事実・事態として現れざるをえないのである。
 関係だけではない。個体や性質についても同様のことが言える。先に引用した野矢氏の文章を再び見てみよう。

性質なき個体も個体なき性質もナンセンスであり、個体と性質は必ずや組になってそれゆえひとつの事実としてのみ、現れる。

(野矢、36ページ)

・・・つまり、性質をある言語表現に対応する対象として示そうとすれば、それは事実(あるいは事態)とならざるをえない、個体をある言語表現に対応する対象として示そうとすれば、それもやはり事実(あるいは事態)とならざるをえない、ということなのである。
 個体・性質(や関係)を取り出すとかかき集めるとかいうのはナンセンスであり、もともとそのようなことなどできようがないのである。結局現れるのは事実、あるいは事態でしかない。
 なぜこのようなおかしな話になってしまうのか、それは野矢氏が像を言葉と混同している、つまり事態(さらには事実)と言葉とを混同してしまっているからである。「上」とか「下」とか「上下関係」という”言葉”を用いることはできる。そして言葉は具体的事実や事態の代替物であるかのように思われるであろう(実際言葉にはそのような機能がある)。しかし厳密には言葉はあくまで言葉であって関係そのものではない。先ほど説明したように、言語化することで目の前の光景以外の様々な光景やら像やら(つまり事態)を想像したりすることはできる。つまり言葉そのものが事態なのではなく、言葉から(関係という)事態が導かれる(連想される)ということなのである。関係とはその(関係という)言葉が指し示す対応物としての事実・事態であり、事態・事実を「関係」という言葉で表現しているのである。
 先に説明したように、野矢氏は言葉も事実であると述べている(野矢、45ページ)。しかしこれは言葉そのものが実際に(しゃべられたり読まれたり書かれたりして)現れたのであれば、(言葉が)現れたことが事実として現れたということなのであって、言葉が個体・性質・関係を含む事実として現れるということではないのである。43ページの「ミケは寝ている」の事例においても、野矢氏が言語と事実(・事態)とを混同している様子が見て取れる。
 分かりにくいと思う人もいるかもしれないが、この違いは重要である。
 野矢氏が「個体や性質や関係といった項を取り出し」と言うとき、実際のところ、それはその事実に現れている個体や性質や関係というものを言語化したということなのではなかろうか。「本」「机」「茶」「上」「下」(野矢、34ページ)というふうにである。
 言語化されたとき、先に私が示した事例のように、その言語(「上」とか「下」とか)は「お餅の上にミカンが置かれている」といった別のシチュエーションや「二つの図形が縦に描かれた」画像(像)のように、異なる事実・事態を連想させたりすることがある。言語化することで、目の前の机と本がある光景とは別の事実・事態との繋がりが形成されうる。
 これらのことを考え合わせた上で、先ほどの野矢氏の説明、

個体や性質や関係といった項を取り出し、そこから事実を組み立てていこうとしても、ただ個体や性質や関係がそこにかき集められているだけでは、どうにもならない。

(野矢、35ページ)

は、目の前の事実から導かれた言葉「本」「机」「茶」「上」「下」を再構成して文章を作り上げ、その文章が示す事態を想像した場合、先にあった事実そのものをどこまで再現できるのだろうか、そういう問題であるように思える。つまり言葉で事実すべてを説明しつくせるのか、言語ですべてを伝えることができるのかという問題である。もちろん完全にはできないだろうが、どの程度正確に再現できるかは言語表現の巧みさにかかっているであろう。
 対象(個体・性質・関係)の総体で事実すべてを説明しつくせるのか、という問いそのものはナンセンスであり、実質的には言語ですべてを説明しつくせるのかという問題に収斂してくのである。
 ここまでの話から、野矢氏の以下のような”事実観”には少々無理があると言えるのではなかろうか。

その事実はいかなる細部ももたない。ただその事実としてある。のっぺらぼうの事実。いささか不自然な態度で目の前の光景を眺めてみていただきたい。具象画を抽象画として見るような感じだろうか。

(野矢、36~37ページ)

実際に試してみたら良い。具体的景色が抽象画のようになることはない。事実は常に具体的なものである。関係・個体・性質も事実として現れざるをえない。
 目の焦点をずらせば景色がぼやけたりはする。しかし景色がぼやけるということは事実そのものもぼやけてしまうわけで、抽象画になったりのっぺらぼうになったりするわけではない。ぼやけた景色というものが事実として現れるだけである。目の前の景色がぼやけてよくわからないのであれば、そこから関係、個体、性質というものを見出す(そして言語化する)ことなどできるだろうか?
 また別の論点もある。視野を広げれば言語化が難しくなり視点をはっきりさせれば言語化しやすくなる。目の前に大きく広がる光景を一言で言語化することは困難である。ただ「目の前に広がる光景」と呼ぶことはできようが。焦点を絞っていけば「山の森が紅葉している」というふうにより具体的に言語化できるであろう。このような話はできようが、目の前の光景が抽象画のようになるとかのっぺらぼうになるとかそういう問題ではないことは明らかである。


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