カピ哲!

カピバラさんのイラストとともに、純粋経験論(あるいは根本的経験論)哲学について、それな…

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カピバラさんのイラストとともに、純粋経験論(あるいは根本的経験論)哲学について、それなりにディープに説明していきます!

マガジン

  • 音楽

    好きな音楽の紹介など

  • ソクラテス批判・古代ギリシア哲学批判

    私たちは”何一つ知らない”わけではない

  • 純粋経験とは

    経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)

  • 分析哲学・論理学批判

    言葉の意味や、真偽・正誤判断における論理学の位置づけに関して、分析哲学は根本的な誤解をしているのではないか?

  • ヒュームの経験論

    ヒュームの理論から不可思議な懐疑論を除去すると、経験論の神髄が少しだけ見えてくる・・・少しだけ・・・

最近の記事

NO Need To Put Your FINGERS, NOTES Are There ALREADY!

今日はゴールデンウィークの疲れを取る日にしました。少し仕事もしたけど・・・ 下の動画を見て、まさに”目から鱗が取れる”衝撃(?)でした。オープンGチューニングのことは知っていたのだけど、改めてこういうものなんだと初めて”体感”できました。 Less is more、という言葉もなんか来るものがあります。 僕はギターはほとんど弾けないに等しいのですが(大学生のとき飲み会の余興で贈る言葉や思い出がいっぱいを演奏したことはありましたが)・・・ 思わず埃をかぶって悲惨な状態に

    • ”なぜ?”という無頓着な問い

      日本語の”なぜ?”というのはいろいろなニュアンスに受け取れると思います。たとえば「あなたはなぜこの仕事をしたいのですか?」と聞かれるとき、下のような事柄が考えられると思います(他にもあるかな?)。 ・この仕事のどのような部分が気に入っているのか ・この仕事を通じてどのような効果・影響を期待しているのか ・この仕事を選んだきっかけ、成り行き 例えばこの仕事を選んだ”動機”という意味合いの”理由”を問おうとしたとしても、ではその”動機”とは具体的にどういうものなのか、上記3つ

      • アリストテレス『形而上学』の徹底的批判が必要

        アリストテレスの『形而上学』を徹底的に批判することで、哲学という学問が受け継いできた根本的問題・誤謬を明らかにすることができると感じています。 時間をかけてゆっくりやっていきたいです。 哲学をしたいと思う人たち(あるいは現在している人たち)に言いたいのですが、哲学書を決して鵜呑みにしないことです。理解しようと努めるとしても、信用はしないことです。基本的なところで間違っているからです。部分的に間違っているのではありません。哲学という学問の出発点がそもそも間違っているのです。

        • Leave my kitten alone

          こちらはビートルズのアンソロジーに収録されているバージョンです。 なかなかかっこいいのにオリジナルアルバムには未収録です。 ・・・で、今日下の動画を見つけました。セッションミュージシャン時代の演奏がどんなものだったのか初めて知りました。想像以上でした・・・ 1964年時点でこんな激しいソロを弾いてたんですね! 知りませんでした。びっくりです。(KinksのSo Mystifyingのリフをちょっとだけ連想してしまいましたが) ひょっとしてこのバージョンをビートルズが聴

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        • 音楽
          9本
        • ソクラテス批判・古代ギリシア哲学批判
          9本
        • 純粋経験とは
          11本
        • ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)
          35本
        • ヒュームの経験論
          11本
        • 分析哲学・論理学批判
          39本

        記事

          原因・原理を知るためには経験家でなければならない

          アリストテレス『形而上学(上)』(出隆訳、岩波書店、1959年)の分析はゆっくりやっていきます。最初からつっこみどころが多すぎて分析に時間がかかりそう・・・ 以下、引用部分はすべて『形而上学(上)』からのものです。 1.私たちは知りたいときもあれば知りたくないときもあるし、知ろうともしない事も多い 『形而上学』は次の文章から始まる。 ・・・最初から違和感の残る説明である。“感覚器官の愛好”とは何であろうか? “感覚することそれ自らのゆえに愛好される“とはいったいどうい

          原因・原理を知るためには経験家でなければならない

          「経験」と「純粋経験」

          確定申告をなんとか乗りきったのだけれど、まだまだやらなければならないことが山積み・・・ アリストテレス『形而上学』をまた最初から読み直していたのだけど、「経験」という言葉が何を指しているのか、そのあたりを明確にしておく必要があるかな・・・と改めて思いました。 ・・・この場合の「経験」とは、過去に「これはひまわりだよ」と教えてもらっていて、それを知って(覚えて)いる上で、そのものを見て「ひまわりを見た」と判断する状況ということになるでしょうか。 アリストテレスの理論は私か

          「経験」と「純粋経験」

          作業中のBGM 落ち着いたらじっくり聴き込みたい。 そのうちMississippi John Hurtも買ってみるかな…

          作業中のBGM 落ち着いたらじっくり聴き込みたい。 そのうちMississippi John Hurtも買ってみるかな…

          おすすめのレポート

          私が2012年から少しづつ書き溜めてきたレポートの中で(現時点における)おすすめのものを挙げてみます。素人の方だけでなく職業的哲学研究者の方たちにもぜひ読んでみてほしいと思います(というかむしろそちらの方向けだと思います)。 レポート一覧はこちらです(経験論研究所:レポート一覧)。 ウィトゲンシュタイン:論理はアプリオリではない 論理空間とは何なのか ~野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第8章「論理はア・プリオリである」の分析 http://miya

          おすすめのレポート

          古代ギリシア哲学に全然共感できない・・・

          今はアリストテレス『形而上学』読んでます。あちこち脱線してますが、あっちいったりこっちいったりしながら進んでいきたいです。 古代ギリシア哲学って、言葉を弄すれば弄するほど現実から乖離していく、そんな印象です。 アリストテレスの言う「知恵」も、経験の裏付けがなければ単なる妄想です。もちろん数学も同様です。 そういう意味では、経験から因果関係を説明しようとしたヒュームは哲学という学問において非常に重要な転換点であるはずなのですが・・・ 現代の哲学に(ヒューム研究者含め)ほ

          古代ギリシア哲学に全然共感できない・・・

          アリストテレス『形而上学』届いた。しょっぱなから「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感覚器官〔感覚〕への愛好があげられる。」とあり心配だ… 「感覚することそれ自らのゆえに愛好されるものだからである。」さらに心配度が増す… 大丈夫か?アリストテレス?

          アリストテレス『形而上学』届いた。しょっぱなから「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感覚器官〔感覚〕への愛好があげられる。」とあり心配だ… 「感覚することそれ自らのゆえに愛好されるものだからである。」さらに心配度が増す… 大丈夫か?アリストテレス?

          Goodbye

          all the words that you said all the things that you did all the fun that we had but you never be around the magic we shared had faded but I don't wanna be hated say goodbye (スマホでご覧の場合は、Listen in browserを選ぶとすぐに聞けます) 先週作った曲です。

          哲学は本当に”愛知”なのだろうか?

          哲学はいったい何の”知”をもたらすものなのだろうか? 私にとって、一般的な哲学とは”空論への崇拝”にしか見えないのだが・・・プラトン、カント、フッサール、ハイデガー・・・ 哲学から自然科学が生まれたようなことが言われるのだが・・・実際のところ、古代ギリシア人たちの思索の中から事実・現実に即した「正しい」認識を求めるものが(時代を経て)科学へと発展し、事実・現実に即していない「正しくない」認識が哲学として残ったようにも思える。 ・愛知というより反知識(特に経験的知識)、科

          哲学は本当に”愛知”なのだろうか?

          『存在と時間』ー(存在論という虚構)=(ハイデガーという一人のおじさんの人生訓)?

           ハイデガー『存在と時間(上)』(桑木務訳、岩波書店、1960年)の批判的分析、まだ序盤にすぎないのだが・・・今のところの予想では、  ハイデガーの”存在論的”分析は、実質的に”存在的”なレベルにおいての存在分析であり、本来性やら気遣いやら時間論やらも、存在的なレベルにおけるハイデガー自身の印象にもとづく分析に収斂していくのだろう。結局のところ、 『存在と時間』ー(存在論という虚構)=(ハイデガーという一人のおじさんの人生訓) みたいな形になるのではなかろうか。賛同でき

          『存在と時間』ー(存在論という虚構)=(ハイデガーという一人のおじさんの人生訓)?

          ハイデガーは、コギトという虚構における”先存在論的な存在”というものを求めてしまった

           ハイデガー『存在と時間(上)』(桑木務訳、岩波書店、1960年)、”現象学的研究方法”の分析をしているところです。「A 現象という概念」(62ページ~)における問題点だけでも(あまりにつっこみどころ満載なので)けっこうな内容のものが書けそうです。  とりあえず思ったのは、 (1)病気における「現われ」の説明が不適当。 ・・・病気の何らかの症状はそれ自体が「病気そのもの」であって、現れ=現象であると言える。病原菌によってもたらされる病気にしても、病原菌そのものは病気ではな

          ハイデガーは、コギトという虚構における”先存在論的な存在”というものを求めてしまった

          みんなちがってみんないい=相対主義、ではない!

          相対主義に関して、書籍やネット記事やらユーチューブなどで、 「みんなちがってみんないい」という金子みすゞさんの詩の一部分が相対主義を示す言葉であるかのように説明されているのだが、これではあまりにもみすゞさんに失礼なのではないだろうか・・・? 「みんなちがってみんないい」の詩は(正確には「私と小鳥と鈴と」)、それぞれできることとできないことがある。それぞれができることをお互い尊重するというか、それらを素晴らしいと感じる、といったものだと思う。皆の存在を肯定できる気持ちという

          みんなちがってみんないい=相対主義、ではない!

          「相対主義」対「絶対主義」との対立=事実を置き去りにした哲学者たちが勝手に議論していること

           相対主義も絶対主義も、極端な思考であると思います。古代ギリシアにおける議論で、相手を論破しようとするあまり、”売り言葉に買い言葉”的な流れで見解が極端になってしまったのでしょうか?  真理への確信が個人的・パーソナルなものであることは、共通の真理の否定にはなりません。 そのあたりのことについては、拙著 ・・・で詳細に説明しています。(「私がいるから経験がある」のではなく「経験があるから私がいると思うことができる」~経験論への誤解に対する若干のコメント|カピ哲!の後半

          「相対主義」対「絶対主義」との対立=事実を置き去りにした哲学者たちが勝手に議論していること