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家族関係が悪かった原因は、僕だった

最初に触れておきたいことがある。

僕は父のことが大嫌いだった。
理由はDVだ。

毎日とまではいかなくとも、暴言と暴力は日常茶飯事だった。


遡ること、僕が中学1年生のとき。
両親は離婚した。

かなり揉めた。
両親のケンカは見るに堪えないものだった。

最初、離婚に反対したのは父のほうだ。

両親のケンカを見るくらいなら、さっさと離婚してほしい。

そう思った僕は、2回自殺を図った。

自分が遺書を書いて自殺すれば、離婚してくれるだろうと思ったからだ。

結局、それは未遂で終わったし、遺書が母親に見つかってからは死ぬことを諦めたけれど。

両親の離婚がようやく決まったとき、僕は衝撃的な事実を母から聞かされることになる。

あれだけ離婚したくないと騒いでいた父が、離婚に合意したものの、僕ら子どもたちの親権を放棄したのだ。

僕は辞書で親権の意味を調べた。

そして、思った。
父に捨てられたのだ、と。

父と心理的な距離ができたのは、そのあたりだったと思う。

あるとき、母の仕事の関係で「おじさん」と関わるようになった。

はっきりしたことは確認していないが、おそらく母の彼氏だったのだろう。

「おじさん」は、僕や僕の妹、弟のことを可愛がってくれた。

父がやらなかったようなことまで、やってくれた。

それは僕にとって、嬉しいことではあった。
でも、正直、複雑だった。

どうして赤の他人はやってくれるのに、父はやってくれなかったのだろうと感じたからだ。

その状態は、僕が高校に進学して、家出を繰り返すようになるまで続いた。

ちなみに、なぜ家出をしたのかというと、母との衝突が絶えなかったからである。

このあたりのことを話すと長くなるので、また別の機会に触れたい。

さて、父の話に戻そう。

僕が家出をしているとき、2回ほど父に世話になったことがある。

そのころ、父はまだ再婚していなかったから、二人で何日間か過ごした。

とても静かな時間だった。

二人とも話すことがなくて、ほとんど会話がなかったからである(笑)。

そんな状態でも、僕は父が以前とは変わったように感じていた。

僕を怒ったり、殴ったりしなくなったからだ。


何がきっかけだったか、もう覚えていない。

父と過ごしていくうちに、一緒に暮らしてもいいと思えるようになっていった。

そう思うに至った理由は、他にもある。

当時、母はお金にとても苦労していた。と同時に、体調を崩しがちになり、僕にイライラをぶつける機会が増えた。

僕は毎日が息苦しくて、その環境から逃れたかった。とくにお金のことを言われるのは、つらかったのだ。

僕が父と一緒に暮らすようになれば、お金の面で少しは楽になるだろう。置き手紙をして、僕は何度目かの家出をした。

詳しいことは父に言わなかったが、一緒に暮らしたいと伝えたところ、あっさり快諾。

「どうせおまえは、家族のなかで、はみ出し者になっているんだろう」と言っていた。

その言葉に少しむっとしたけれど、お金のためだから仕方がない。
多少のことは我慢しようと思った。


母には少し経ってから話をする予定だった。
ところが事態は急展開を迎える。

家出を終えて自宅に戻り数日経ったころ、突然、母からこう言われた。

「私はいままで、苦労しているだなんて思ったことはないからね。お父さんのところで暮らすんだってね。あんたが来たら、税金が安くなるって親戚に言ってまわっているらしいよ。それでも、お父さんのところに行きたいなら行きなさい」

僕は父に連絡を取ることも会うこともやめた。

税金が安くなるからじゃなくて、僕と暮らしたいから引き取ると言って欲しかったのだ。

それから数十年経ってから、当時のことを父に話したことがある。

父は何も覚えていなかったけれど「そんなこと言ってないぞ。でも、誤解を与えるような表現だったのかもしれない。すまかった」と謝ってくれた。

だからもう、恨むのはやめようと思った。


僕からすると、自分のことしか考えていないように見えた父だが、僕のことを考えてくれていると感じた瞬間があった。

僕が男として生きたいと打ち明けたときだ。

23歳くらいのころ、僕は精神保健福祉センターに通っていた。性同一性障害のカウンセリングを受けるためだ。

そのとき医師から「ちゃんと両親に話す時間を取れるといいね」と言われていたため、一歩踏み出したかった僕は強引に両親を病院へ連れて行った。

母は現実を受け入れることができず、医師に食ってかかった。

「この子は、一度決めたら絶対に意見を曲げない。性別のことも一時の思い込みでしかない」

そう言いながら、怒りをあらわにした。

いっぽう、父は今は何ともいえないと言いながら俯いただけだった。

診察が終わったあと、しばらく経ってから父は分厚い封筒を送ってきた。封を開けると、性同一性障害に関する資料が何十枚も入っていた。

僕のことを理解しようとして、当時は少なかった専門書をわざわざ図書館などで探し、コピーして送ってくれたのだ。

父は僕のことなんか、どうでもいいと思っているに違いない。そう思っていたから、父がここまでするのが意外だった。

それは喜ばしいことではあったけれど、1つ喜べないことがあった。

「男性っぽい振る舞いをしてもいい。女性と付き合うのも構わない。でも、治療を受けるのは考え直してほしい。ホルモン注射や手術は必要ないんじゃないか?」

という、父の本音を知ったのだ。

このとき僕は、父だけでなく母にも理解してもらうのは、かなり難しいと感じていた。

実際に、父と似たような言葉を、母も口にしていたからである。

僕は次第に、わかってもらえないなら一人で生きようと考えるようになり、家族と距離を置いた。

家族関係が改善し始めたのは、それから20年経ってからだ。

これは今になって感じることだけれど、両親を含めた家族が僕から離れたことはなかったように思う。

とくに心理的な意味で。

これまで起きた出来事を冷静に見ていくと、離れていったのは、いつも僕のほうだったと感じるのだ。

その点についても長くなるから、またいつか書きたいと思う。

何だかこれを書いているうちに、早く家族に会いたくなってきた。
実は来月、約1年ぶりに会うことにしたのだ。

あと、どのくらい、家族に会えるだろう。
あと、どのくらい、一緒にご飯を食べられるだろう。
あと、どのくらい、昔話をしながら笑い合えるだろう。

あと、どのくらい。
あと、どのくらい。

そう考えると、なんだか泣けてくる。

あらゆる意味で、家族が傍にいるのは当たり前のことじゃない。

当たり前じゃないんだ。

それをいつも、忘れない自分でいたい。


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