アメリカでのトレーニング第23回 「お世話になっていた人が突然いなくなってしまったときの話」

 2019年12月。語学学校のディレクターMBが、突然退職することになった。
視覚障害のある俺を受け入れてくれた張本人であり、コーチと並んで俺のアメリカ留学を実現させてくれた最重要人物。彼女が退職するとは、とんでもないことになってしまった。

 俺が通っていた、かつ住んでいた寮は、ノートルダム大学メリーランド校。この大学の付属機関としてあるのが語学学校。かつて視覚障害者を受け入れたことはないのだが、初めて見学に行って相談したとき、責任者であったMBの「とにかくやってみましょう」の一言でスタートした。
 ちなみにMBとはニックネーム。名前が長いので略してMBと呼ばれている。本名はMary Burch Harmon。

 MB自身も、大学卒業後、10年間日本で英語教師をやっていた。千葉の大学に勤務しているときに、京葉線と武蔵野線の行き先がよく分からなくなって迷子になったと話していた。あのへんの電車は、実際日本人でも乗りこなすのは難しい。


 俺がアメリカにいる間、常に気にかけてくれていて、「何かあったらいつでも相談して来い」といってくれていた。


 実際、授業で配布される資料をどうやって読めるようにするかとか、買出しにつれていってくれたりとか、キャンパスの警備のおじさんや食堂のおばさんとの連携とか、しょっちゅう不具合を起こす寮の施設とか、いろいろと助けてもらった。

友達のAmayahがなくなったときも、一緒にお葬式にいってくれた。

ただ、何者かが俺の部屋の窓ガラスを割ったときは、どんなに頼んでも何もしてくれなかったので、しかたなくダンボールを貼って生活していた。


 最重要人物なだけあって、日本から取材がきたときは、必ずMBにもインタビューが行われる。
 だいたいアメリカ在住の日本人に通訳を頼んでインタビューをするのだが、Who I amの撮影をしたときに担当してくれた通訳のお姉さんは、MBの話を聞きながら、自分の留学時代を思い出したらしくて泣き出してしまった。で、MBの方は自分の話で感極まってしまい、こちらも泣き出してしまった。結果、英語の分からないディレクターだけが取り残されるという、なんとも不思議なことが起きていた。


 そんなMBは、学校をやめて、ブラジルで英語の先生をやることになった。これも、彼女のキャリアアップなのだ。常に次のステップを目指して進んでいく、その姿勢は見習わないといけないし、素直に応援したい。でも、まさか自分がアメリカにいる間にいなくなってしまうなんてことは夢にも思っていなかったので、とんでもなくショックだった。

 12月の最後の授業の日は、通常はクリスマスパーティー。今年はMBの送別会をかねていた。過去の教え子も何人か参加していた。どれだけの学生の人生に、この人は影響を与えたのだろうか。


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 年が明けて1月。MBがブラジルへと出発する前に、自宅で盛大なパーティーを催すとのことで、参加させてもらった。語学学校の先生たちもたくさん参加した。
 MBの家は、学校から車でおよそ45分。両親と3人暮らし。兄弟はお兄さんがいて、近くに家族と一緒に住んでいる。
 親戚やら友達やら、総勢60人ほどが集まっていた。
 学校を離れたことで、MBはノートルダムの問題点について包み隠さず話してくれた。学校の現状は、学生が集まらず、財政的に非常に苦しい上体である。学長含め上の人たちは、経営のことで頭がいっぱいで学生のケアをまったくできていない。語学学校も、不要なものとして切られそうになっている。そんな経営だから、むしろ学生も離れていって悪循環になっている。とかだったと思う。
 学生が離れていくというのは、俺も実感していた。せっかく食堂で知り合って仲良くなった子達が、「学校やめないといけなくなった」といって去っていったのが、一人や二人ではない。


 MBにとって、今回の転職は、キャリアアップだけでなく、シンプルに限界だったようだ。方針やルールは頻繁に変わり、雑務だけが増え、学生のケアをできないもどかしさが募る。この数年はほんとうに苦しかったらしい。


 次に会うときまでに、もっと英語上手になって、きちんと自立してるんだよってところを見せなければと心に誓って帰宅した。



#パラリンピック #水泳 #アメリカ #トレーニング #留学

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