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自己紹介させてください。4

東京都の長谷川です。よろしくお願いします。

タウンマネージャーブログからnoteにデータを移管しています。

こんな取材をしてきました。


インタビューズ
中心市街地活性化キーパーソンを独自に選定し、
幅広い分野でそれぞれの方にインタビューを実施してきました。
8年間で総勢15人。政治家から主婦までと幅広いです。
現在、取材当時の肩書きでない方もいしゃっらいますが、
そのまま再掲載させていただきます。
取材にご協力いただいた皆さま。本当にありがとうございました。


市議から市長へ。あきらめない金沢へ。

インタビューズ[VOL.15]2011.11.30 wed
金沢市長 山野ゆきよし
金沢市市議会議員を4期つとめ、2010 年11、市長選へ。山野氏の志はこうだった。「金沢市民に新しい選択肢を与えないといけない」。市民から信頼の厚い、現職市長への挑戦。そこには、6期 連続の首長誕生への疑問が、山野氏のエネルギーになったと言う。「結果、新しい選択肢として、多くの市民に選んでもらったのだから、古い金沢を守りなが ら、新しい金沢をつくっていかないといけない」。
市長となって約一年、金沢市全体や中心市街地活性化について尋ねてみました。「金沢の顔は、まちなかなんですよ。街なかを歩いてこそ、金沢の魅力が満喫で きるんです。歴代市長が守って来た、金沢市の景観や文化。大きな自然災害にあわず、戦時中も爆撃の被害にもあわなかった金沢。全国的にみても稀な奇跡の歴 史があるんです。建物や景観が、いにしえの時代からそのまま残っている財産を、私が市長となっても守らないといけない」。そう熱く語る、山野市長。
守るべきものがあると、人は行動したがらない。変えることの難しさに挑戦しなくなる。ただ、山野市長はそうではない。それが、マニフェストにもある「金沢 あきない都市宣言」だろう。魅力満載で「飽きることのない」まちづくり、いたるところに「商いのチャンスがある」まちづくり、店が埋まって、人が押し寄せ て、中心部に「空きがない」まちづくり。この3つが、これからの核となっていくのだろう。テーマの設定の仕方もしゃれているが、覚えやすさ以上に、金沢ら しさが光って感じてしまうのです。
「金沢も、中心部は、店も住む人も減っています。放っておいたらそれが加速する。新しい魅力づくりが必要なんです」。トップに立って、はじめて実現できる 政策、そしてその責任の重さを噛み締めながら、こう教えてくれました。「私が市長になってから、最も力をいれているのが広報です。ツイッターやフェイス ブックを活用しながら、市民の参加と市役所だけでは把握できない、細かい市民イベントなども、市の広報の一部としてとりあげる。広報委員会には、市民も参 加しています。それは、各地区の『とんがった』人材です。まずは、そういう方々を集め、今後の金沢の情報発信について、意見を出し合ってもらっていま す」。
本格的に動き出した山野市政。官民一体となって、補助金を活用し、香林坊地区にビームスやジャーナルスタンダードなどファッション店を誘致。金沢駅前と武 蔵、5タウンズを結ぶまちバスと、金沢周遊バス路線の統合など、金沢は新しい市長のもとで、さらに新しく進化を遂げようとしている。新しい市長が、新しい 金沢を発信していこうとしている。さて、富山はどうなるのだろう。2013年の春。富山にも新しい選択肢が、示されるのだろうか。隣県金沢市の新しい動き は、富山市の中心市街地活性化にとっても、けっして無視でない存在なのである。


マグチケという良の摩擦。

インタビューズ[VOL.14]2010.12.8 wed
有限会社ホリーズプラニング代表取締役 堀井宏哲
堀井さんは、もう10年以上おつきあいさせていただいている、私のクライアントである。そして、荒町・総曲輪でショウワやエン、バスカフェとオアバーの オーナーで、私は各店のファンである。コムクレープオープン後も、飲食店オーナーの先輩として、経営者として多大なアドバイスをいただいている。さらに、 トヤマグへの良き理解者であり、ずっと加盟店としてトヤマグを利用いただいている。
今回取材したのは、そんな堀井さんではない。今年の4月から互いに戦略を練ってきた「マグチケ」の企画立案者であり実行委員長の堀井氏である。完全に民間 で実施する、富山市中心商店街の商品券である、マグチケ。その発端は、彼のこんな考えだ。「この商店街に骨をうずめるつもりができたよ。今まで育てても らった恩返しがしたいんだ」。
富山市中心商店街の商品券マグチケ。そんな企画を堀井さんから相談されたのは、2010年春頃。今まで、街の活性化からプロレスまで、いろんな話をしてき たが、「自分で街の商品券を作って、自分の店全店で配りたい」なんて仰天内容とは思わなかった。突然電話がかかってきたあの日、私が最初に答えたのはこう だ。「堀井さん、むずかしいよ」。それでも、堀井さんはやってみたいとがんばるので、いくつかの提案をしてみた。きっと、諦めるだろうと思ったのです。
ひとつは、実施前に、事業叩きをしてみること。2つ目は、トヤマグ全加盟店に自分で説明してみること。面倒なことだけど、マグチケには必要なことだととっ さに感じたので提案してみたら「よろこんでやる」と即答でした。商店街で使える商品券を、組合を通さずに完全民間で実施する。しかも、その財源はすべて自 社で賄う。目から鱗というか、私がまったく考えもつかなかったことを、堀井さんは真剣にやろうとしている。
「社内で会議をしているとき、売上をあげたい…と考えたら、街で使える商品券を当店で発行しようって話になった。今ままでの数年感も、当店は5%オフの クーポンを出していたけど、本当にお客さんがよろこんで使ってくれているのか疑問だった。同じ5%還元でも、当店とそれ以外のお店でも使える商品券だった としたら…お客さんはよろこんでくれるんじゃないだろうか」。そんな話が堀井さんを中心に出たらしい。すごい会社である。
堀井さんは、私と共有してくれている意見がある。「公的なまちづくりは売上にはつながらない」。だから、自主財源を使って、街の経済の拡大再生産にトライ してくれた。そして、遂にホリーズプランニング3店舗の売上5%分の商品券を、お客様に発行するマグチケがスタート。2010年7月~9月末まで発行し、 7月~10月末まで利用可能の内容。結果は、当初の目標のほとんどを達成した。下記がホリーズプランニングが公表した、マグチケプロジェクトのデータであ る。
1)マグチケ総発行額
685,600円
※100円券×3,446枚
※1000円券×341枚
2)マグチケ月別発行額
7月/172,200円
8月/261,700円
9月/251,700円
3)マグチケ最終回収額
417,900円
4)マグチケ最終回収率
60.9%
5)マグチケ月別回収率
7月/19%(33,000円回収)
8月/20%(86,200円回収)
9月/32%(100,800円回収)
10月/61%(197,900円回収)
6)マグチケ各トヤマグ加盟店舗回収結果
■発行元ショウワ&エン&オアバー/264,500円/回収率63%)
7月29,600円/8月58,600円/9月78,100円/10月98,200円
■石谷もちや/61,500円/回収率15%
(7月1,400円/8月3,500円/9月9,000円/10月47,600円)
■コムクレープ/50700円/回収率12%
(7月1800円/8月8,200円/9月9,700円/10月31,000円)
■シーバース&インディゴ17,500円/回収率4.2%
(8月1,400円/10月16,100円
■アットイーズ/10,300円/回収率2.5%
(8月10,300円)
■シーズネイル/3,800円/回収率0.9%
(8月500円/10月3,300円)
■ジィジィヘア/3,100円/回収率0.7%
(8月2,900円/10月200円)
■ムー本店/3,000円/回収率0.7%)
(9月3,000円)
■ハウスオブビューティー&カルチャー様/2,200円/回収率0.5%
(7月200円/9月1,000円/10月1,000円)
■ラフォルマ/800円/回収率0.2%
(8月800円)
■アルバーノ/500円/回収率0.1%
(10月500円)
7)マグチケによる発行元店舗の売上結果
(昨年対比)
●7月/ショウワ92%/エン137%/オアバー89%
●8月/ショウワ91%/エン118%/オアバー107%
●9月/ショウワ114%/オアバー82%/エン150%
●10月/ショウワ115%/エン110%/オアバー100%
堀井さんと決めた、マグチケの目標は3つ。1つは発行所であるショウワなど3店舗の売上をあげること。9月のエンの昨対の売上が150%アップ達成など (平均108%)、事業としてメリットがなければ今後もマグチケは継続できないという理由です。2つ目は、トヤマグ加盟店全店で1枚でも1名でもいいので 使われること。これは、ほぼ達成。コムクレープや石谷もちやなどの低単価で買物できる飲食店での高い利用率は予想通り。高額な物販店で利用されたいという 思いは、堀井さんに強くありました。
3つめ、マグチケ回収率目標20%。世の平均のクーポンの回収率は3%~5%と言われています。過去のホリーズプランニングでのクーポンや金券の回収率は 10%が最高。20%という目標は、かなり高いハードルでした。結果はそれを大きく越えて、63%。これは脅威の数字です。目標達成という点では、こわい ぐらいにうまくいったマグチケ。ただ、堀井さんは、これではいけないと考える。「もっと物販店や美容院で使われてほしかった」。発行所と加盟店の利用比率 は約6:4。予想は8:2だったので、私としては、最初の段階では上出来ではないかと思う。
数字には現れない、マグチケプロジェクトの特徴もありました。当初から予想できなかったことは、マグチケをもらってから利用されるまでのレスポンス。コム クレープで聞き取りした中でも『昨日もらって今日使う』というお客様が多かった。特に7月あたり。そして、他のサービス券と比べて、平日に使われる利用者 も多かった。そして、予想できなかったというより、想定できていなかったことがひとつ。それは、マグチケが発行されるのは、居酒屋やダイニング、バーと いった夜間営業のお店で、それが日中営業のトヤマグ加盟店で利用されたということだ。
通常、富山市中心商店街に誘客するとなると、県域ぐらいのお客様をどう中心部に移動させるかと発想する。今回は、夜から昼への移動である。マグチケは 100%夜に発行される。そして、全体の約4割、つまりホリーズプランニング3店舗にもどった以外の利用は、日中だったのである。顧客の夜から昼への移動 は可能なのだ。先に説明した『昨日もらって今日使う』というお客様は、24時間以内に富山市中心部に2度来たことになる。これは新発見だった。
さらに100円券をつくったことが、高い利用にもつながったと予想。1,000円分を100円券でわたすとマグチケ10枚になる。これが財布のなかでは けっこうかさばる。かさばるので、財布から出したくなるのですが、1,000円分を捨てるには惜しい。では、使っておこうか…という心理ではないだろう か。コムクレープなどで使われた理由のひとつだろう。また、コムクレープでの回収に関して言えば、マグチケ利用者のほとんどは、新規顧客だったといっても 過言ではない。まとめると、マグチケは、新規顧客を平日に連れてきてくれて、コムクレープの売上に貢献してくれたと言える。最終日は一日で37,000円 ぐらいは回収した。これは脅威の利用なのです。
これらの結果は、今の街が最も欲する結果だったと思う。ここまで良い結果がでると、今後も考えて、その理由を検証したくなる。チケットデザインや、ネーミ ング、トヤマグ加盟店を調べるためのトヤマグドットコムとトヤマグiモールでの情報発信は、少しは役立ったと思う。ただ、それらだけでこの好結果を説明す ることはむずかしい。補助金0円での事業だったから良かったのか。新しい発想だったから良かったのか。トヤマグ加盟店のラインナップが良かったからか。
私がいきついた理由は、こうだ。名もなき富山市中心商店街商品券マグチケが、たくさんの方に利用されたのは、ホリーズプランニングスタッフと、ホリーズプ ランニングのお客様との信頼関係が成り立っていたからだ。マグチケは、ただ単に発行されたわけではない。3店舗でお食事のお客様に、そのチケットの内容と 主旨、利用の仕方などを丁寧に伝えられた。説明もなくポンと手渡しされたわけではない。本当に丁寧に配られた。ホリーズプラニングのスタッフ全員が、代表 である堀井さんの意思と目標を理解し、3ヶ月間徹底した訳だ。
そして、ホリーズプランニング3店舗のお客様の多くは、この3店舗の常連のお客様である。聞いたこともない商品券で、本当に明記されている加盟店で使える のかどうかも疑問がつきそうな新企画を、スタッフの皆さんから説明を丁寧にうけたことで、加盟店での利用につながったのだと確信している。ただ発行すれば 良いというものじゃない。本当に利用してほしいという思いもつながったのだと思っています。
この街には、富山市から補助金というかたちで年間1億2,000万円近くの予算がそそがれ、商店街活性化事業に使われている。なのに、商店街の人は減っ た。店も減った。売上も減った。だが、一人の経営者が考えたアイデアを、社をあげて実行した堀井さんとホリーズプランニングは、商店街の経済の拡大再生産 の可能性を証明した。こんな状況でも、補助金を1円も使うことなく、売上は変化させられるのである。新規顧客を呼び込めるかもしれないのである。
私はあくまでもサポートしただけで、マグチケに関してはすべて堀井さんの企画である。この好結果も私は予測できていなかった。いちばんうれしいのは、こう いう人材が商店街から現れたことである。マグチケという『良の摩擦』を生んでくれたことである。そのマグチケを理解し、浸透させてくれたスタッフをもって いることが、うらやましくてしょうがない。完全に脱帽であり、敬服します。
「マグチケはまた続けたい。今度は加盟店でしか利用できないマグチケにしようか」。そんな大胆で、赤字覚悟の新しいアイデアまで出してくれる堀井さん。 「街に育ててもらったので、恩返しがしたいのだ」。こんなことを口走るのは簡単である。それを実行することは本当にむずかしいのである。ここ数年、街での 売上が立たず、閉店する店、郊外に移転する店がつづくなか、彼の意識や存在は、奇跡としかいいようがない。マグチケは、まだまだ多くの可能性を秘めてい る。堀井さんなら、もっと進化させるだろう。マグチケを超える企画も飛び出すかもしれない。そして、ホリーズプランニングのスタッフの皆さんなら、お客様 にもっと浸透させてくれるだろう。私は、まちづくり会社とは、こういう会社だと思っています。


越中大手市場の中心にあるもの。

インタビューズ[VOL.13]2010.7.19 mon
越中大手市場実行委員長 秋吉克彦
今年はトヤマグドットコムが10周年の 年。まわりを見渡せば、似たような期間続いている催しがある。約3年ほどといわれている、富山市中活事業の寿命。その催しは、8年にわたり続いている。越 中大手市場である。その中心人物が、大手モールに秋吉屋を構える秋吉さんだ。秋吉さんは実行委員長として大手市場を仕切っている。そんな秋吉さんはこう語 る。「補助金というのは3年を目安に途切れます。あとは自分たちの力でやっていかないといけないんですよ。大手市場はイベントじゃありません、市場です。 まだまだ私たちの目標は達成していませんね」。
秋吉さんと初めて会ったのは、トヤマグ運営3年目ぐらい。もう大手市場はスタートしていたと思う。当初、総曲輪の西通りから磯部町ぐらいまで、サブカル チャー的な店が集まってきた時期があった。ファッション店はもちろん、カフェやインテリアショップなど、総曲輪や中央通りにはない個性的なショップが集 まってきた。今では信じられないが、若い女の子もよく歩いていた。私の会社もそこにあった。大和移転も決定し、今後は総曲輪通りに西側に、お客様も移動す るのではないかと予測し、総曲輪の西側で「西曲輪(にしがわ)」というエリア名を勝手につくって、トヤマグでマップとして紹介していた。そのマップへの問 い合わせが、秋吉さんからあった。
「できれば当店も西曲輪マップに掲載していほしい」。そんな依頼だった。私は悩んだすえ、掲載は見送った。大手町の秋吉屋さんといえば、着物と染物の老舗 中の老舗である。珍しい和の小物も並んでいるのは知っていたが、そんな老舗のお店が…西曲輪サブカルか…どうか悩んだ。秋吉さんに、いろいろ説明しにいっ たのを覚えています。それがきっかけで、秋吉さんとはまちづくりで話す機会が増えました。「大手モールは商店街ではないんです。商店街組合って組織もなく て、振興会というスタイル。商店街と住宅地の真ん中ぐらいの意味合いなんですよ」と語る秋吉さん。隣接する中央通りや総曲輪とは一線を画す、大手モール。 そこに根付いた大手市場。8年という異例の継続性には、秋吉さんの存在は欠かせないはずだと直感的に思っていました。
「イベントじゃなくて市場として見てほしいし、来てほしい。お客様から市場としての評価がほしいですね。なので8年たったとはいえ、まだまだ道半ばで す」。秋吉さんは、決して焦って動くタイプではない。じっくり考えて行動し、ゆっくり物事をすすめていく。総曲輪通りや中央通りにはなくて、大手モールや 大手市場にはある独特の「間」は、秋吉さんそのものではないかと感じたことがある。外部の人間を受け入れて、いっしょに市場をつくっていく。閉鎖的といわ れる商店街の中で、独自の市場を運営をしていく大手市場。
過去、私は何度も秋吉さんと中心市街地活性化についてお話しさせていただいた。突然店に訪問して話し込んだり、ふたりで一杯やりながらだったり。そして私 は、秋吉さんによく怒られる(笑。「それは言い過ぎだよ」とか「そういったらもったいないよ」とか。共通する意見と、異なる考え方を巧みにまぶして、秋吉 さんは話してくれる。その懐の深さみたいなものを、私は8年間感じていた。今回の取材でも、大手市場が8年以上継続される理由は、秋吉さんの求心力にある と思っている。
「これからの大手市場は、モノがよく売れるという評価がほしいですね。出店してくれるテナントさんも、どんどん新しくしたい。もっともっとオリジナリルな 商品を売る店を集めて、市場としてのクオリティを高めたい」。秋吉さんは、そう語る。じつはこれ、真新しい目標ではない。大手市場当初から掲げられていた 目標である。まだまだ道半ばという現実を踏まえて、堅実に、着実に成長していきたいという思いの現れなのである。これが、8年間続く秘密なのだろう。
誰にでもできそうで、そう簡単には真似でない「毎日、毎月、最初の目標を意識すること」。大手市場は何のために生まれ、大手モールとどう存在していくか を、焦らずに、慌てずに、実行に移している。きっと大手市場に参加している人も、その流れと雰囲気をたのしんでいるのだろう。私は、秋吉さんが、通りを和 服で歩いている姿が好きだ。街の呉服店さんのなかで、最も自然な感じに見えるからだ。特別な日ではない、日常の着物に見えるからだ。きっと大手市場の数年 後は、こうなっているのだろう。特別な日のイベントではなくて、いつも通りの市場がそこにある、と自然にとけこんで行いくのだろう。秋吉さんが、真ん中に いる限り。


凌ぎを削って活性化しようじゃないか。

インタビューズ[VOL.12]2010.4.21 wed
株式会社牛島屋専務取締役 竹内孝憲
初めての試みです。本来インタビュー対象 は、その存在や実績に私が共感できる方を直接取材し、ご紹介するインタビューズ。今回の武内くんは、私と目標はほぼ同じですが、その活性化手法がまったく 異なる方です。自分とは違う意見の持ち主に話を聞くのは、初めて。たとえプロセスは同じじゃなくても、思いが同じならきっとどこかでリンクする。そんな思 いで話を聞かせていただいた。
武内くんと初めて会ったのは、4年ほど前。ある方の紹介で一緒に飲んだことがある。といっても武内くんはアルコールは一滴もダメなようで、私だけ酔って話 していたはず(笑。彼は、富山市中央通りの呉服店の老舗「牛島屋」の専務取締役である。そして、中央通り商栄会の前青年部長。中央通りのサラブレッドと言 える。いずれ中央通りの理事長になる人材だと思っていたので、「ぜひ早く理事長になってほしい」とお願いした覚えがある。
その後は、たまに会ったときに挨拶する程度だった。昨年の「一店一品運動」の勉強会で再び会い、この商店街の未来についていろいろ話す機会があった。私と しては意気投合していたつもりだったが、ある日からお互いのスタンスに違いが出た。「武内くんが考える、富山市中心市街地活性化とはなんでしょう?」。イ ンタビューズの最初は、そんな大枠からの質問だった。
「商店街の商店主は、メーカーになるべきだと思うのですよ。どこでも売っているものを店に並べても、これからはもっと売れない。牛島屋はメーカーになろう としています。牛島屋本店は実験場で、オリジナル呉服から入門着まで取り揃えています」。商店主として、自分たちが街で生き残るために必要なことははっき りしている武内くん。では、商店街全体としてはどう考えているのか、つっこんで聞いてみた。
「商店街は、長年自分たちの好きなこと、やりたいことをやってきた。お客さんのニーズと違うイベントを繰り返してきたように感じる」。もっとお客様の声を 聞かなければいけないという点では私も同じ。続いて経済の拡大再生産について質問した。「商店街には売上が必要ですよ。今の通行量では売上はあがらな い」。ここも、まったく同意見。
では、どうやったら売上があがるのでしょうね?という質問をぶつけた。初めてここで、私の考えとの違いが現れた。「まずは商店街の世代交代。新しい外部の 血も入れる。街に人がないないと売上は上がらない。中央通りでイベントをやりたいという人に商店街を解放したり、ターゲットを若い人、お年寄り、子供連れ とかにそれぞれに分けてイベントを行うことで、売上は上がると思いますよ。そういった活動が多くなれば、店舗も増えるはず」。
武内くんは、最近で言えば、中央通りで地域通貨「未来ぽーろ」の事業を開催したり、中央通りの交流サロン和が家、フリーマーケットを中心としたイベント越 中騒動、ガラス作家と商店がコラボしたSUGOROKUなどをサポートしたり、フォルツア総曲輪で開催されるシンポジウムやセミナーにも講師として参加。 数々のイベントや行事を主催したり、支援したりしている。そういえば、担手が減ってしまったと言われる、山王祭りの中央通り神輿もかついでいた(笑。とに かく精力的に、イベントで街を盛り上げている。仕事も急がしいのに、それだけの活動を矢継ぎ早に商店街で実現させることは、本当に敬服します。
そこには、中央通り商栄会前青年部長という肩書きだけでは得られない「信頼」があるのだと思います。中央通りに関わる若い人材からの厚い信頼や、商店街の 垣根をこえて信頼関係でつながりあう商店街ネットワークの牽引者としての存在感は、彼の魅力と商店街を復興したいと思う情熱がなければ築き上げられない。 武内くんを、私は最初にサラブレッドと称したが、じつは自ら汗をかき、商店街の隅々まで目をくばり、さまざまな立場のさまざまな主張に対して、耳をかたむ けられる人材なのである。才能と血筋、そして努力の人なのである。
そんな力があるから、主張や手法が異なる私とも話ができ、部分的には互いに協力できるのである。煙たい存在でも、とがった存在でも、武内くんの前ではみな 「商店街を思う人」となる。武内くんは、近い将来は完全なる商店街のリーダーとなる。いや、もうリーダーといっても過言ではない。もう少し世代交代が進め ば、誰がなんと言おうと、彼を中心に、富山市の商店街活性化は動き出す。
たくさんの人が街に関われば、異なる意見がぶつかるのは当然です。私と武内くんのような差もあれば、もっと別の意見もあるでしょう。これからも、異なる意 見の摩擦は続く。しかし、多くの主張が集まれば、商店街活性化の原動力となる。21世紀の新しい商店街のリーダーは、どんな意見も排除せず、すべてをとり まとめられる力が求められる。武内くんには、その能力があると思っている。
インタビューズで書ききれないぐらいの話を2時間近く話をさせていただいた。残りの部分は、フロムトヤマグでも紹介したい。教えてもらった武内くんの考え 方のすべてを、私には肯定することはできないが、じつは、武内くんから依頼されたイベント参加には、コムクレープとしてほとんどイエスと即答してきた。例 え意見が異なっても、目標が同じなら協力する。これは武内くんから学んだことである。今後も要請があれば、当店は参加する。トヤマグでも告知する。今まで もそうだったし、これからもそう。最後にふたりで確認したことは「互いに凌ぎをけずって協力しよう」。きっと良い摩擦がおこるはずです。


「やるべきことはやったのか」の概念。

インタビューズ[VOL.11]2010.01.16 sat
総曲輪通り商盛会副理事長 高松實
今でまで、プロデューサーHインタビューズに登場しなかったのには、訳がある。身近すぎて、どう紹介して良いのかわからなかったのが本音である。あれから 9年ぐらいかかって、ようやく言われていることがわかった。だから、このタイミングで登場です。高松さんと出会っていなかったら、トヤマグも、プロデュー サーHというコンテンツも、継続されていなかっただろうと強く思っています。
高松さんは、コムクレープのある大気ビルのオーナーであり、中央通りシーバースや総曲輪通りインディゴ、CiC1階フレンチラインを運営するエスニック ワールドのオーナー。CiCの販促委員長であり、総曲輪通りの副理事長を勤めていらっしゃる方だ。最初の出会いは、富山駅前CiCでの販促会議だった。 CiCの販促プロデュースを担当することになった私。トヤマグも始まったばかり。そして、まだまだITのスキルも、地域活性化のノウハウも、タウンマネー ジメントの経験もない私。その会議の後、高松さんと打ち合わせをする機会があった。高松さんのCiCの店「フレンチライン」の販売促進の相談だった。「こ の店についてどう思うか?」。確かそんなぶっきらぼうな内容だった。
当時の持てる能力をふりしぼって答えてみた。高松さんから返ってくる言葉は「よくわからない」という感想だった。その後も何度も何度も打ち合わせを重ね、 ようやく形になったのだが…。当時の高松さんは「変人」の異名をとる難解な人物だった。打ち合わせ中に話題はしょっちゅう飛ぶし、決まった…と思ったら 「まだ決めた訳ではない」とひっくり返されるし、はたまた急に、怒りだす。
この人とはぜったい仕事はできないと何度も思った(笑。なのに、いつのまにか、なぜだか、富山市の中心市街地活性化の話題については、良く話こんでくれ た。まだ、歴史も常識も法律もしらない私に、わざと無理難題をぶつけてきた。当時の高松さんの持論は「何とかして中心市街地の駐車場を無料にすることはで きないか?」だった。
あるとき、こんな事を私は提案してみた。「スポンサーになってくれたら『街の駐車場を無料にしよう』とラジオで言い続けますよ」。これがFMトヤマグの始 まりである。FMトヤマグ第一シーズンは、富山市の中心市街地活性化をテーマにした30分間のラジオ番組だった。3ヶ月間いろんな角度から検証し、番組の 締めは「街の駐車所を無料にしてみよう」と言い続けた。
番組は1クールで終了したが、その2年後、本当に中心市街地の9つの駐車場を無料化した「街なか感謝デー」が実現した。当時あるテレビ番組のニュースで、 私が一回目の街なか感謝デーをプロデュースしたと報道されたが、実は高松さんの信念なしでは語れないし、高松さんなしでは実現していなかったのである。そ して、その後も、コムクレープオープンの逸話がある。
8年前は、商売はど素人の私。いつか街で実際にショップをしてみたいと高松さんに相談していた。当時の私はきっと甘い考えで相談していたと思う。それでも 一度も高松さんは「あなたには無理だ」とは言わなかった。2年間のクレープ研究と、富山駅前CiCでの臨時ショップ実験も終え、そろそろ本気でテナントを 探そうと思っていたころ、冗談で私は高松さんに聞いてみた。「エンゼルの跡地を使わせてください」。
エンゼルは、シーバースの横にあった老舗の喫茶店だ。7年前には、すでに空き店舗となっていた。エンゼル前といえば、よく富山市の中でも最も高い路線価を 記録していたところ。そんな一等地を貸してもらえるはずもないが、ものは試しで口を滑らせた。「おもしろいな」。そんな返事が返ってきた記憶がある。そし て、「どうせなら、エンゼル跡地を改装して小さなショップを入店させることができないか?」なんて話まで飛躍した。
最初は冗談か?とも思ったが、話はどんどんすすんでいく。この相談を最初にしたのが、2004年1月後半。コムクレープオープンはその年の4月23日なの で、どんなスピードかわかっていただけると思う。私もいきなりの話で、コムクレープオープンのための資金の準備に追われた。そのスピードで、話はさらに拡 大。隣接のシーバース改装まで広がって、私は少々びびり始めた。またいつ高松さんに「まだ決めていない」と言われたら…とヒヤヒヤしていたらコムクレープ もオープンできなくなる(笑。そして、設計段階までいって、本気だったことが実感できた。ついにシーバース+エンゼルの改装が決まった。
2004年4月23日。コムクレープとシーバースを核テナントにした、民間リノベーションであるminimall091が完成した。高松さんの英断と投資 がなければ、不可能なプロジェクトだった。コムクレープの奥には、レディスファッション店とメンズファッション店、雑貨店の3店が入居した。3つの店はそ れぞれ5坪ほど。とはいえチャレンジショップではない。家賃補助はないし、その他の行政支援もない。店は、ブースとして準備されているので、一から作るよ りも出店しやすいが、家賃もそれなりだった。本気で商売しないといけない厳しい環境を高松さんは作った。そして、3人の店主に「本気で商売してください。 そして、儲けてください」と言い続けた。もちろん、私にも。
この9年間、トヤマグでも大変世話になっているし、良き理解者である。トヤマグが富山大学生をサポートし、総曲輪ブランド100選を選ぶ「aモールプロ ジェクト」でも協力してもらった。公的な中心商店街の活動ではないため、こういった高松さんの貢献は、富山市の中心市街地活性化の表舞台の実績には刻まれ ない。高松さん本人も、そんなことは望んでいないだろう。高松さんの口癖である「やるべきことはやったのか」が、それを表している。
高松さんが望んでいる中心商店街の活性化は、既存の店舗のやる気がわきあがる事だ。補助金ではどうにもならない、概念の問題だ。通行量が減ったから、郊外 店にお客様を取られたから、行政が何もしてくれないから…と言い訳せずに、今の自分たちの商売を、最大限魅力的に見せているか?その接客は顧客満足を高め ているのか?その商店街のイベントや販促活動は、お客様に喜んでいただけるサービスか…など、それぞれ各人に与えられた使命を、最後まで果たしているか? と問いかけている。それが「やるべきことはやったのか」の意味である。
最近まで、この意味がわかるようで、わからなかった。9年つきあって、少し理解できた気がしたので、インタビューズに登場してもらった。高松さんとは、こ の9年間数多くのことを、計り知れないぐらいお話させていただいたし、聞かせていただいたし、時には激論を交わしたので、取材用のインタビューは短めだっ た。この9年間の私の記憶を辿っての原稿編集で記事を書かせていただいた。
私は28歳でサラリーマンを辞めたので、この10年間以上、上司はいない。私には、ああしろこうしろと指示してくれる人がいない。すべて、自分で決定しな いといけない青二才に、高松さんという存在は大きかった。トヤマグも今まで何度も辞めようと思った事がある。そのたびに高松さんは、私を「挑発」した。ア ドバイスではない。「プロデューサーHたるものそんなことも出来ないのか?」と、のせられているのである。そして、そのたびに「今に見てろよ」と、のせら れた振りをした(笑。
トヤマグが10年間続いているのも、駐車場無料化できたのも、FMトヤマグが今まで続いているのも、CiCの販促活動でいろんな事に挑戦できたのも、コム クレープが今なお営業できていることも、minimall091が完成したことも、高松さんなしでは語れない。頑固で気が短く、執念深くて商店街が好き。 そして変人同志(笑。この私と高松さんの共通点が、ときには4時間以上も商店街について話し込んでしまうという、自分の父親よりもよく喋る関係をつくって いるのでは…と思えてしまう。
今年で72歳になった高松さんは、いろいろなものを引退しようとしはじめている。私はそれが気に入らない(笑。まだまだ商店街のために、中心市街地活性化 のためにやるべきことがあるのでは?と問いかけたい。トヤマグのプロデューサーHというコンテンツは、高松さんが作り出した幻想であると思っている。変な たとえだが、赤塚不二夫に対する、タモリみたいなものである。
「プロデューサーHたるもの…」の一言で、いろんなものが実現しているし、継続されている。その挑発こそが、トヤマグのエネルギーになってる。富山の中心 市街地活性化の歴史にはのっていない、高松さんの行動こそ、私はもっと評価されるべきだと思っている。こう書けるようになるまで、9年かかった。9年か かったということは、私も中途半端に書いているわけではない。9年かかって「やるべきことはやったのか」が、今は私の口癖になった。自分で自分に、常に問 いかけている。


20代で街なかに住むということ。

インタビューズ[VOL.10]2009.06.25 thu
総曲輪モデルズ ツタエ
ツタエと会ったのは、5年ぐらい前でしょ うか。トヤマグドットコムのコンテンツ「総曲輪モデルズ」の登録から。モデルズ5人目の登録。協力してもらっているゲストブログへの日記は、140話を超 えている。街をもりあげたいと、たくさん協力してもらっている総曲輪モデルズの一人である。こんな書き方をするととっても、彼女が老けて感じるが、彼女は まだ25歳。生粋の街っこだ。
実家は丸の内にあって、総曲輪小学校卒。芝園中学を出て、県立高校に進んだ彼女。専門学校に行くために東京に2年住んだが、また富山に戻って就職した。 「東京は肌に合わなかったです。満員電車が苦手で(笑」。独特のゆっくりした雰囲気で彼女が話すのは、地元総曲輪への愛着だ。「小学校のときの友達で山室 にお嫁さんにいった子がいます。街がいいなあなんて言ってますよ。これぐらい距離があるだけで、なかなか帰って来れないみたいです」。
以前から気になっていたツタエ的空気感。それは、とても自然に街に暮らす仕草だった。インタビューアーの私も、街なか居住者である。職場も街。なのに、私 にはどこかに無理がある。街なか居住者です!って宣言しておかないと認められないと言うか、無理矢理好きになろうとしているというか。彼女にはそれがない のだ。書いてくれるゲストブログの日記からは、自然に街にいて、自然に街を楽しんでいる女の子の空気が伝わってくる。今回のインタビューズは、その理由を 知りたかったからだ。彼女には、今までに、総曲輪スタイルドットコムモデルや、FMトヤマグ特番出演、完結しない写真集フォトグラモデルなど、今までたく さん依頼してきた。
「よくいく店は、インディゴ、清明堂、フォアモスト、マツヤ、ジャーマンベーカリー、石谷もちや…かな」。現在も彼女は、街に住んでいる。モデルズになっ てからめでたく結婚されたのだ。なんと旦那さんは中央通り出身。今は二人で中央通り付近に住んでいる。「偶然なんだけど、結婚しても街に住めてラッキーっ て感じでした(笑。家にいて暇だなあと思ったら、街をぶらぶら。みんないくところがないっていうけど、私は今でもけっこう楽しいです」。
20代で街に住む。富山市がすすめる街なか居住の鏡みたいなスタイル。それも運命的というか偶然な出会いと自然なかたちで、実現している。強引に移り住ん で来た私からしたら、うらやましい。本来、街なか居住は、幅広い層の移住が理想だろう。高齢者ばかりでは先細りになる。若い世代が、街で暮らすことにもっ と興味をもってくれたらいいと思う。ツタエは、それを実践している大人の街っ子なのである。皆さん、街なかで暮らす喜びみたいなのを、彼女の日記から伝 わってきませんか。
「街がデートスポットになったら、若い人が将来住みたいなって思ってくれるかもしれませんね」。のんびり語る彼女の言葉からは、やっぱり街の愛着を感じ る。「街の暮らすためのバランスがよくなったら、もっとみんな興味を持てるかも」。私が真似したい彼女のバランス。何とか身につけたいものだ。そんな彼女 は、今年ママになる。小さな命が、この街に、誕生する。21歳で総曲輪モデルズになって、23歳で結婚して、25歳でママ。なんだか、うれしい。ぜひ、こ れからも、総曲輪モデルズを続けてほしい。ママになった彼女は、このあとどんな視線で街を写真で切り取るのか、ゲストブログで教えてほしい。ベビーの登場 も、期待しています。待ってますね。


頑固でぶれないから守れるものがある。

インタビューズ[VOL.9]2008.12.15 mon
千石町商店街副理事長 窪田憲修
私が千石町の「異変」に気づいたのは、3 年ほど前である。がんこもん祭り。手づくりのチラシが千石町商店街のいたる所に貼られていた。千石町商店街は、富山市の越前町交差点を境に、大手町から南 へと続く商店街である。アーケードはなく、通りは車も通行できる。店舗数は34店舗。総曲輪通りなどのように、ファッションを核にした商店街ではない。寿 司屋、洋食屋、中華料理屋、肉屋、そば屋、居酒屋、アイスクリーム屋といった飲食店を中心に、薬屋、和菓子屋、ガラス屋、自転車屋、美容院、化粧品店、整 体院、クリーニング店、中古レコード店、家具屋、お茶屋…などが並ぶ商店街である。富山市中心市街地では目立たない商店街かもしれない。
けっして派手とは言えないイメージ。ただ、なぜか活気を感じるのである。通りに人が数多く歩いていることはない。車の通行量が多い訳でもない。この不思議 な感覚を私は毎日感じていた。じつは私の通勤コースなのである。いや、他にも道はたくさんあるはずだけど、あえて千石町を通って毎日仕事に向かう。その秘 密が、やっとこのインタビューズで理解できたのだ。「店が営業している」からなのだ。がんばって商売をしているので、生きているのである。千石町商店街 は、ほとんど空き店舗がない(住居になった店舗は含まず)。かつては60店舗以上あって現在は半減。その多くは、引退だそうで、後を次ぐ後継者がいなくて 廃業となったそうです。しかし、2008年現在残りの店は元気に朝から商売している。決して多くない人通りでも、活気を感じる理由はそこにありました。そ して、ずっとわからなかったもうひとつの理由がやっとわかったのです。きっとキーマンがいるはずだ。
インタビューズ先は、千石町商店街のそば処まるぜん。前回のインタビューズのしきだ議員や、千石町商店街の北森理事長を訪ね、千石町のキーマンが判明。窪 田副理事長の存在が、千石町のがんこもんたちの柱になっているとのことだった。千石町で親子三代で飲食店を経営している窪田副理事長。20歳のときに、単 身大阪へ。調理学校で一年勉強した彼は、そのまま大阪の飲食店で5年修行した。洋食屋でコックを2年間。新地の割烹で板前もこなした。「大阪で5年目のと きに、そろそろ富山に帰ることを決心したんですよ。帰省して、店の手伝いを始めました。当時のまるぜんは今よりも狭くて、奥の小あがりもなかった。せっか く修行して戻ってきても、狭い店ではやることがなかった。それで、今度は西町の大喜で働いたんです」。意外で身近なラーメン修行は、その後の『そば屋』と しての彼に大きな影響を与えた。
「年間10万人のお客さんが来る大喜。10万人に顔を覚えてもらおうと必死でしたよ。そしてわかった。ラーメンは同じ材料と作り方でも、味が違う。一口に 富山ブラックなんて言っちゃいけないぐらいに繊細な食べ物なんです。大阪での5年間、大喜での4年間の経験は、今まるぜんのメニューに生きてますね」。そ の間に、まるぜんを切り盛りしていたお婆さんが亡くなられた。人出が減り、店がまわらなくなり、大喜からまるぜんに戻った。弟さんとの二人三脚で、『くす しそば』の新しいまるぜんが千石町同所でスタートすることになる。「まるぜんに帰ってから、千石町商店街の会合に出るようになりました。最初の役割は商店 街のイベント担当。企画宣伝部長だったかな(笑。はりきってがんばったんだけどね…」。昭和60年代当時の千石町商店街は、まだ多くの店が軒を連ねてい た。だが、現在の富山市民プラザの場所には、富山市民病院があったが、郊外への移転のため撤退。その影響が、少しずつ千石町にも出はじめる。
「最初に企画したイベントは、店の前に商品を出そうって企画。物産展みたいにお客様につくっているところを見てもらおうと声をかけました。結局OKは3店 だけ。そしてイベントは幻に(笑。お客様の流れが、郊外へ郊外へとなりはじめて、何とかしないといけないと思いかけたころなのに、なかなかみんなの意識は 変わるもんじゃないですね」千石町商店街は、南北で校下が異なるため、昔から微妙な温度差があった。意見がまとまらなかったそうだ。「それを変えないとい けないと感じて開催したのが『千石町ダイナミックフェスティバル』(笑。2年目に考えたイベントでした。テレビ局とタイアップしたり、プロレーサーの土屋 圭一さんを呼んだり、車を展示したりしてのイベントでした。驚くぐらいに人が集まったのを覚えていますよ」。この大胆なイベントが、現在のがんこもん祭り の前身である。
ここからは私が驚いた言葉のオンパレードである。「イベントは自分たちが楽しくないとダメ。だから若いお店も集めてみんなで考える。全員参加が基本だ」 「千石町商店街には駐車場がない。いいお店が集積していないと、わざわざお客様は足を運んでくれない。お店単位で駐車場も確保しないといけない」「10年 後の千石町は今よりも5~6店舗減る。引退するお店があるからね。20年後は引退の対象は自分にも当てはまる。さらに減るかもしれない。これではいけな い。だから、空き店舗を商店街として埋めていかないといけないんだよ」。「市電が環状線化したら、千石町の入口をミニライトレールが走る。入口には公民館 があって富山市から借りているんだが、それを商店街で買い取って千石町にシンボルに作り替えたい」。私が言葉を失いそうだった。当たり前の考え方や意識 が、実際の商店街の人から聞けるなんて思っていなかった。そして、それを実践している商店街だからこそ、変化しているのだとも確信した。
昨年の総曲輪フェリオのオープンでは、まったく客足や売上に影響がなかったという千石町商店街。フェリオとの距離は約200mほど。総曲輪や西町と同じこ とを考えてはいけないのだろう。同じ未来を描いてもいけないのだろう。なぜ、そんな熱い考えをお持ちなのかを聞いてみた。「どんな商店街でもそう思ってい るんじゃないの?」。あっけらかんと言い放たれて、私はまたも唖然とした。千石町は、職人の街である。そして、北森理事長、窪田副理事長をはじめ、がんこ もんが「元気に毎日商売している」商店街である。今回の取材では、総曲輪や西町からちょっと距離があることでからか、かなり大きな意識の違いを感じた。 「私は貧乏性なんですよ。何かしていないと落ち着かない。商店街に空いているお店があると埋めたくなる(笑。なので家主さんにも貸してほしいとかけ合う し、若い人が千石町にお店を出してくれたら本当にうれしい。毎日みんなで飲んでます(笑」。
「異変」の原因はシンプルなものだった。とてもやる気のある窪田副理事長ら商店街執行部と、地権者もテナントも関係なく話し合えるコミュニケーション。そ して、自分らの商売に真剣に取り組む姿勢と、集積することの強みをイベントなどで還元する試み。大きな再開発事業で自分たちを見失うこともなく、ぶれない 地道な商店街活性化だった。『がんこもん』というコンセプトのもと、これからも新しい展開に着手する。2009年から富山市の補助をうけて各店のファサー ド整備事業を実施するのだとか。この補助を千石町商店街が活用するとは意外だった。ちなみにこの補助は、商店街の3分の1以上が希望し、各店がファサード 工事の半分の金額を自己負担しなければ実現できない。つまり商売に「やる気がないと」できない。もしも、富山市中心市街地に視察に訪れる方がいらしたら、 ぜひ千石町商店街も見てほしい。普通には歩いては見えないかもしれないが、感じる事ができると思う。商店街で商売を頑張る。そして、お客様を喜ばせる。そ の結果、見た目派手な商店街ではなくても、空き店舗がほとんどない千石町商店街。今回の取材で、がんこもんから、元気をもらった。数々の課題をかかえる富 山市中心市街地活性化の中でも、千石町は、千年先も存在しているかもしれない。


記憶が共有できるネットワークづくりへ。

インタビューズ[VOL.8]2008.12.15 mon
富山市議会議員 しきだ博紀
政治家と聞いて何を想像しますか。市議会 議員とは、どんな人だと思いますか。年齢や立場によって、さまざまな政治家像を抱くと思います。もしかして、共通しているイメージは「遠い存在」ではない でしょうか。私自身、富山の議員の方々に、中心街活性化をテーマを持って、何度かお会いさせていただいたことがある。当時私も抱いた「遠い存在」というイ メージのなかで、数名の議員の方は、親身にそしてリアルに、中心市街地の現実に耳を傾けてくれました。その一人が、今回インタビューさせていただいた、し きだ博紀富山市議会議員。その人柄や趣味といった、中心市街地活性化への距離感は、「遠い存在」というよりも、街の記憶と未来を共有してくれる「頼もしい 存在」に思えています。
じつは、富山市総曲輪を地元ととする市議会議員はいない(2007年12月現在)。地元選出の議員がいるいないが、どんなシチュエーションで、どのような 影響があるのかは私は詳しくは知りませんが、総曲輪住民の代表者が、市議会にいるかいないかは重要ではないのかと感じていた頃がありました。「学生時代、 街は私の遊び場でしたよ。楽器店のアルバイトをしていましたし、ライブもちょくちょくやってましたよ」と語るしきだ議員。地元は別だが、富山市中心市街地 に対して、昔からの交流人口としての地元意識を強く持っている。「総曲輪には毎日来ていましたよ。西町にも、駅前にも。当時は若い人を中心にいろんな流行 や文化がありましたね。そう、文化の発信基地みたいなところでした。東京は遠いけど、総曲輪は一番身近で一番文化や情報に近い街だったと思います」。
そう語るしきだ議員ですが、今市議という立場に立つと富山市中心市街地にどう関われているのか気になったので、ずばり聞いてみました。「個人の思い出や思 いとは別に、中心市街地関連の担当委員会に入っていないと、なかなかまちづくりに関われないのが現状ですね。議会のルールでいえば、市議会で発言できるの は一年で一度、20分間です。その中に、自らの地域活動から実感した市民の声や、地域が要望する議題を質問するわけですが、多くの意見を20分間に集約し て質問に立たないといけないのです」。つまり、市議としては、モチベーションだけでは、中心市街地活性化についてまで、深く言及できないのが現実なのだと か。ただし、総曲輪をはじめとする中心街に、思い入れの強いしきだ議員としては、少しでも活性化できるような活動をしたいと思っているそうです。
「議員が活動するためには、地域の皆さんの後押しがいる。それが、総曲輪であるなら、総曲輪の皆さんといっしょの活動でないと効果がありません。議員の地 域活動は原則自由なのですが、街とのネットワークがしっかりしていないと」。街の情報も随時入ってこないと、議員らの認識と、市民や商店主とギャップが生 まれて来るとも語るしきだ議員。では、市民代表として、中心市街地活性化に自ら参画するには、地域とのパイプやネットワークが必要ということになります。 「総曲輪が地元ではなく、毎日総曲輪にいるわけではない議員が、活性化を担当する議員や委員会に情報提供や意見交換するとしたら、独自のネットワークが必 要でしょう。できれば公的な組織。かといって商店街の組合じゃないといけないわけではありません。任意のグループでもなるべく多くの人が参加していたら、 きっと流れも変わると思います」。
そうだ。そこなのですね。記憶や思いを共有できれば、交流人口の集まりでも充分まちづくりは可能なのですね。地権者や、地元の組合、行政の担当課、議会の 担当委員会にはない発想が生まれるかもしれないし、交流人口の集まりなら、来街客に近い感覚でまちづくりが、考えられるかもしれない。私は、しきだ議員の インタビューのなかで、そんな思いがふくらみました。街でショップをかまえていても、場所を借りているテナントというだけで、中心市街地活性化には参加で きない現実。地元ではないと活動しにくい議員。ただ、そこで生まれ育っていなくても、街で遊び、買物し、恋をし、アルバイトしたりした記憶は、地盤や地権 と同等のエネルギーになるのかもしれません。しきだ議員の話をお聞きしていると、まだ、街の活性化のために、肝心なことを実行していないではないかと感じ てくるのです。
市議である今でも、バンド活動や音楽関係ボランティアにも携わる、しきだ議員。グランドプラザで開催されたあるイベントにはPA担当で参加されていた。西 町のサウンドマックスや中教院のライブハウスアーティストも、彼のなじみの店であり、音楽という趣味は、今でもしきだ議員のアイデンティティである。そし て、街には音楽というフィルターを通じて関わっている。現役交流人口なのだ。かつて音楽小僧だったころと同じように、街を楽しみ、街の文化をつくってい る。頼もしい存在の市議会議員がいるのですよ。テナントも、地権者も関係ない。若いショップの皆さんは、話をしてみる価値は、かなりあると思います。20 代30代40代なゆえに、考えられる街の未来もあるはずです。若い世代で、話して、聞いて、街の交流人口代表で、委員会に議会に立ってもらったとしたら。 街は変わる、かもしれない。そんな希望を抱かせる力が、しきだ議員には、あるのです。


アートマーケットという奇跡と軌跡。

インタビューズ[VOL.7]2007.4.4 wed
株式会社富山市民プラザ本社営業部イベント受付グループチーフ 森野かよ子
富山市民プラザの変化に気づいたのは、4 年ぐらい前でした。まずは、ビジュアルから。単純ですが、掲示されているポスターがかっこいい。そのポスターに刻まれるイベント名はアートマーケット。見 慣れぬイベントの募集告知とともに、今までのイメージをくつがえし始めた富山市民プラザ。その後の、様々な催しは、しっかりとしたコンセプトありきで動い ているように見えた。比較的毎年傾向が変わってしまいがちな、公共施設の取り組みやスタンス。それを、4年かけて育てようとする富山市民プラザには、きっ と活性化のキーマンがいる。昨年より取材依頼を重ね、ようやくご紹介いただいたのが、富山市民プラザのコンセプターでありスポークスウーマン的存在の森野 かよ子さん。彼女だった。
「アートマーケットは4年前にスタートしました。市民が作ったオリジナルのアート作品を展示販売するイベントです。文化や芸術って、普通の人の生活から生 まれるものだと思います。それを発表する場を作りたかった。有名芸術家の華やかな展示会を開催する施設はたくさんある。市民プラザはその名の通り、市民の 手作りに注目しました」。そう語る彼女は、続けざまにこうも話してくれた。「文化は短期間で創造できるものではないと思います。アートマーケットなどを継 続させるには、市民を飽きさせない展開と、そして出展者の方々の自主的な活動につながるよう心がけています」。アートマーケットから、手芸フェアやクラフ トフェアなどのスピンオフの企画も誕生し、一年を通じて富山市民プラザは、市民に文化体験のチャンスを提供している。
この原動力は何か。モチベーションを持続させているエネルギーは何なのか。市民プラザと名のつく施設は全国にある。地域の活性化に貢献すべく設けられた施 設も、県内随所にある。しかし、富山市民プラザの活動は、かなり見映えがいい。そして、コンセプトがはっきりしている。さらに、集客力という実績がある。 富山市民プラザという大きな施設に、彼女の存在はあまりに大きいはずだ。キーマンが動け、キーマンにセンスがあり、キーマンに決断力がなければ、不可能 だ。彼女のスキルの高さが、そのままイベントやビジュアル等に反映できる仕組みは、隣接する商店街にとって羨ましい限りである。「イベントごとにデザイン を担当していただくデザイナーさんは適材適所で変えています。若いスタッフや学生のアルバイトも、自主的に意見を言ってくれます。トップがある程度自由に やらせてくれるので、責任は重たいですが、やりがいをもって楽しくやれます」。
施設として街の中で独自のポジションを構築しつつ、アートマーケットなどで市民に刺激を与え続ける。富山市民プラザのキーマンは、実は総曲輪校下で生まれ 育った街っ子だった。「やっぱり、ここ(街)が好きです。私が幼い頃の活気ある街に戻れたらいいなと考えながら、みんなが主役になれることをいろいろ考え ています。アートマーケットも、1回目から出展者が半分入れ替わり、変化を繰り返しています。街もきっと変化できる要素があるのでは?」。今まであまりな かった接点。総曲輪と富山市民プラザとの関係についても、ずばり聞いてみた。「アパレルのショップが多い総曲輪ですから、ファッションをテーマにコラボ レーションしてみたいですね。思い切って男性向けのイベントや、ちょっとエッジのきいた企画もいっしょにできたら面白いと思います。」。私は、彼女は富山 市民プラザにとってはもちろん、街に対しても貴重な存在であり人材だと断言する。
街の衰退が加速しているが、こんなに頼もしく優秀な人物が、中心市街地内施設を活性化させているのだ。商店街だってやれないわけはない。そう思わせる力 が、彼女にはある。私としては、ぜひその活躍の場を広げてもらいたいと痛感している。公共施設と商店街、文化の創造と商業の活性に、接点はある。顧客も共 有している。そこには上下関係も競合関係もなく、協調することで新しい価値を見いだせると信じている。商店街のすぐ隣に、全国でも例のない施設と人材がい るのだ。他県からみたら、きっと羨ましい限りのはず。ちなみに、2007年アートマーケットは、3月24日25日の二日間開催で、観客動員は約 17,000人であった。かつて総曲輪で最も通行量が多かった、旧西武前の土日合計の通行量に、匹敵する。


街はファッションにこだわるべき。

インタビューズ[VOL.6]2006.3.24 sat
株式会社アクロポリス代表取締役 大城雅樹
総曲輪のmouやガーデンをはじめ、街や 駅前で数々のファッション店を展開する大城氏。彼は、今こそ総曲輪は、街は、ファッションだと語る。「ファッションが好きな店って、見るだけでわかるじゃ ない。頑張っているお店って、前を通るだけで気づくじゃない。エルサカエやインディゴ、インフェイズパラディ、ミクストやスギタニは、ファッションが好き で好きでたまらない人がやっているお店って、すぐにわかるじゃない」。大城氏は、20年以上前から、街でファッション店を経営している。まだ、ブランドと して知名度がなかったころから、ドルチェ&ガッバーナやエミリオプッチを取り扱い、育てながらブレイクさせた自負がある。私が、大城氏と初めて会ったの は、約10年前。とあるプレゼン会場でのこと。その時の第一印象と、現在のイメージはまったく変わっていない。それだけブレていない人物なのである。
「富山は、こだわりと遊び心が欠けすぎている。見た目にこだわらなさすぎだと思うよ。見た目重視となると中味がなさそうな話になるけど、ファッションは別 だね。ファッションを追求することで、本質的な部分が切り替わってくる」彼のショップで取り扱っている商品は、インポートブランドが多い。ファッションが 好きで好きでたまらないお客様が、そのブランドへのこだわりやデザイン性を重視して購入される。中には確実に嗜好品という価格帯も多くあるが、大城氏のこ だわりが店の魅力そのものになっている。お客様は商品と同時に、幸せを買っているという。「20万円のジャケットが、幸せにしてくれる。それがファッショ ンの喜びだよ。夢を買っているんだよ。そういう夢を売る店が総曲輪にたくさん集積されれば、総曲輪だってブランドになる」。見た目に、ファッションに、デ ザインに、こだわって追求するからこそ、夢が生まれる。会って話を聞いてみたいと思わせる人物には、必ず夢があり、憧れがあるのと同じ。私には、大城氏 は、街の理想のひとつにも思えてならないのだ。
それは、海外と富山市中心街を行き来する大城氏ならではの、視点でもある。「雑誌レオンに載っているものなんて、イタリアじゃ当たり前ですよ。レオンはイ タリアの日常風景。ファッションにこだわって、いいブランドを育てて、それが街をつくっているんだよね」。正直、大城氏のような人が、総曲輪に存在するこ と自身、不思議に思うことがある。年の三分の一近くを海外ですごしているとはいえ、拠点は総曲輪。それだけ、この街への愛着もひとしお。「やる気があっ て、がんばっているファッション店の人とは、ぜひ話してみたいと思いますよ」。総曲輪で、突き抜けたオーラと実績がある大城氏。彼の言葉は、重く、そして 新しい。
新しく、総曲輪通りで、時計店(ローラプェルフェッタ)とファッション店(ムーアネックス)を始める大城氏。再開発工事まっただ中でも、常にお客様に提案 する姿勢に、変わりはない。「突き抜けて何かをしようという店が、これからは残るんじゃないかな。こんなのあり?って感じのお店が」。総曲輪通りはファッ ション店が多い。しかし、突き抜けていないからか、ファッション街とは呼ばれない。大城氏からは、そんな歯がゆさを感じた。突き抜ける。つまり、ファッ ションに徹底すること、スタイルを重視すること、ファッションに関して、総曲輪はどこにも負けないと言われるようになること、なのだろう。見た目にこだわ ることで、見えるもの、見せるべきものが、見えてくるはず。大城氏の生き方そのものが、総曲輪通りの可能性かもしれない。こんな偉大なる先輩がいる総曲輪 通りは、今、中心街活性化の全国モデルになろうとしている。これは大チャンスなのである。


目指すのはコンパクトシティの実現。

インタビューズ[VOL.5]2005.7.13 wed
富山市長 森雅志
「市町村合併して、いろいろ仕事が増えま したよ」。市長として2期目に入り、市町村合併という大仕事を成し遂げられた森市長。市長にあうのはこれで4度目ぐらいですが、インタビューという形式は これがはじめて。お忙しいなか時間をとっていただき感謝です。かねてより、市長にお聞きしたかったのは、中心街の行政の立場としての活性化策。中心商店街 の活性化は、商業者の役目ですが、行政との連携やバックアップなしでは、正直成し遂げられません。両輪で進むことがベストであり、どちらがかけてもいけな い。ちぐはぐな戦略では、結果が出ない。そんな思いで望んだインタビューは、市長のこんな言葉から始まった。「私たちが取り組むのは、まちなか居住と歩い て暮らせるまちづくりです」。
「この7月から、まちなか居住を促進する補助事業が始まりましたよ」。街の夜間人口すなわち定住者を増やそうと、富山市は、都市地区内に家やマンションを 建てる場合や、それを購入する場合に、補助金が出る仕組みをつくった。また、賃貸物件に対しても、家賃が月1万円まで補助される。高齢者やファミリー層の “定住”が目的だ。「平成26年までには、7,000人の人口を増やそうと考えています」。空洞化の原因のひとつには、定住者の減少は影響している。まち なか居住推進は、にぎわい創出という点では、きっと結果を残すのだろう。
ただ、住むには不便といわれる中心街。車社会の富山で、街で暮らすということは、脱クルマ社会も意味する。「来年4月から営業するライトレールをはじめ、 コミュニティバスまいどはや、お年寄りを対象としたお出かけバス事業など、公共交通の整備をまちなか居住とともに充実させて、歩いて暮らせるまちづくりを すすめないといけないですね。目指すはコンパクトシティです。一度拡がった富山市の居住区域を再結集するのは大変な事業ですが、中心部において富山市の未 来を考えると、都市部として発展したコンパクトシティを実現したいと思っています」。市長が考える市の方針は決まった。次は、そこで商売を営む商店街が、 都市部に見合う、景観づくり、スタイル提案、テナントミックス、サービス拡充、MDや店舗づくりを進めなければいけない。
富山は田舎である。たしかに日本海側の地方都市だ。しかし、どんな地域にも、都市部は必要である。歩いて暮らせる中心部がなければ、富山市全体に拡がるビ ジョンは描けない。市長が考える10年計画は、期待できる都市計画。そこで、中心商店街としては、それに応じて独自に活性化戦略を設計する必要があるのだ ろう。「意欲的な商店街は、ぜひ応援したい。本来駐車場は今こそ無料化すべきであって、関係各所に理解してもらって、市民の皆さんが集まりやすい環境をつ くらないといけないと思っています」。市のコンパクトシティを目指した長期計画に基づいて、中心商店街には短期・中期の商業活性化策がいる。いい街は、誰 もが一度は住みたいと思う街である。買物客の皆様に、この街に住んでみたいと思われるような、今すぐできるおもてなしとは何だろう。森市長の手腕と、商店 街の足並みが一致したとき、きっと中心商店街活性化の全体像が、完成するのだと思います。


3つの視点で、未来を見つめるべきでは。

インタビューズ[VOL.4]2005.7.13 wed
中央通りフォアモストオーナー 根本洋ニ
私が根本さんと初めて会ったのは、約20 年前。こうやってインタビューすること事態、想像していなかった。感慨深いものがありました。某ショップスタッフ時代から中央通りにフォアモストオープ ン、そしてオーナーとして多店舗展開をされる現在に至るまで、根本さんにとって、街はどう映っているのかかねてから非常に興味がありました。「今の商店街 の状態がいいと思っている人がいる。それは、おかしいですよ。商店街事務局の方向性にも、疑問を感じる出来事がありました。本当は、もっと活動に協力した いと思うところも。毎月毎月商品の買い付けにアメリカに飛ぶので、商店街の会合にはなかなか参加できない。いろいろ誤解されることもありますが、本当は ちょっと違いました」。
ずっと街といっしょに生きてきた根本さんならではの、視点だった。急に今の衰退状態になったわけではない。良い時代に、次の手を打っていかなかった結果 が、今だと話す。そして、次の視点は、金沢との比較だった。「自分の店が金沢竪町にあると、やはり比べてしまいます。事務局のまとめ方や、全体の協力の仕 方などは、まったく異なりますね。正直、かなりギャップを感じます」。長年の視点と、他県からの視点。根本さんの商店街に対する思いは、こう続いた。「通 りに人がいないのは、お客様不在でビジョンを考えてきたからじゃないかな」。
いなくなったお客様に、戻ってきてもらうために、やらなければいけないことが沢山ある。最終的に必要なのは、お客様の視点なのだ。若い人だけにターゲット をしぼっても、もう無理。あきらかに、10年前に比べいなくなったのは家族連れ。もっと家族で買物しやすい場所に変わらないといけないのだとも、根本さん は語った。「駐車場や再開発の問題にしても、買物に来る人の立場で話が進んでいなかった。もう一度戻ってきてもらうには、視点を変えて、通り全体で同じ目 標を持って行動に移すことじゃないんでしょうか」。最後の視点は、今までもっとも足りないとされる見方ではないかと感じました。
3つの視点で、未来を見つめていかなくてはいけない。中央通りは今、非常にきびしい時代に突入していることは間違いない。しかし、もしも根本さんのような 人が、商店街活性化の陣頭指揮をとってくれたとしたら。きっと、未来はおのずと変わるのだろう。街の多くのショップが、目標としていたり、憧れを抱いてい る人の声だからこそ、説得力がある。そんな時代が一秒でも速く訪れてほしいし、3つの視点の先に、同じ目標、同じ夢がある中央通りになることが、まずは通 りとして取り組むべきことではないかと感じました。


品と粋。それぞれの総曲輪スタイルへ。

インタビューズ[VOL.3]2004.9.6 mon
総曲輪通り商盛会理事長 松井健資
英断の連続ではないだろうか。私はずっと そう感じていた。「総曲輪通りは、若い販促委員会に任せたい。総曲輪らしく、自分たちでつくっていってほしい」。総曲輪通り商盛会松井理事長は、商店街の 若い人材に、総曲輪通りのイメージづくりや販売促進を委ねている。総曲輪フォトグラフィックストリートをはじめ、今までに試みなかった手法を積極的に取り 入れている。昔聞いた理事長のこんな言葉が印象的でした。「かつて総曲輪のコンセプトは、品と粋だった。これからも文化の香りのする商店街であってほし い」。何十年も総曲輪通りの一部として生きてきた理事長の思いは、確実に若い人に浸透している。
そして、その思いは一方通行ではない。若いショップからの、松井理事長への信頼が厚いのだ。任せられた人たちは、期待される分プレッシャーも大き いだろうが、責任をもって自分たちがやるというエネルギーに満ちている。今までは商店街の動きに無関心だった人たちも、その動きに注目したり、参加すると 手を挙げてくれる人材も出現した。英断の連続と大胆な人材登用が、確実に新しい総曲輪をつくろうとしていると思います。そのうえで、理事長という重責に日 夜汗を流していらっしゃる。まちづくりは人づくり。販売促進委員長や長期計画委員の人事は、10年後の総曲輪を見据えたプロジェクトの、始まりのようにも 感じています。
商店街は、商店街の人間がつくる。当たり前のようで新しい動きは、正直私は、松井理事長の采配でないと、あり得なかったような気がします。トップ が動けば、全体が変わる。その影響力を充分に理解し、適材適所の人材配置と、多くの意見を取りまとめながらすすめる総曲輪通りの活性化。その歯車は、がっ ちり噛みあったと思います。どのぐらいのスピードで、どのように進化していくかは、総曲輪通りの皆さんのエネルギーにかかっている。数年後の大和移転とい うビッグチャンスを控え、通りは大きな局面に入った。
「ショップオーナーらの、オフの時間が肝心。もっともっと経験しないと。まさしく今は個の時代。お店の数だけそれぞれの総曲輪スタイルがある。そ れを追求していってほしい」。全体で進めること、個店で行うこと。松井理事長は、双方の視点をもって未来を見つめている。「個性的なオーナー、専門的な ショップが増えることが、商店街の魅力になるんだよ。総曲輪スタイルはいろいろある。いろいろが集まって総曲輪スタイルになる」。松井理事長の手腕が、商 店街のやる気につながっている。未来を変えるまちづくり、いや人づくりが、今スタートした。


巨大ホテルは一商店であると発想する。

インタビューズ[VOL.2]2003.9.17 wed
富山全日空ホテルマーケティングマネージャー 西垣 徹
「よろしければ、ホテル対商店街ではなく て、ホテルも商店のひとつとして考えていただきたいと思っております」と、彼は、きりだした。街はもっとインターネット的になるべきで、お店同士がもっと リンクをはって、情報と顧客を流通させる動線を拡げることも大事であると、話は続いた。なぜ、全日空ホテルのマーケティングチーフへのインタビューなの か。それは、同じ中心市街地に存在しながら、街の空洞化に影響されない富山全日空ホテルの戦略に、活性化のヒントがあるのではないかと想像したからです。
彼の話の中によく登場する『動線』という言葉。これは、お客さまとの接点を現している。特に新しい接点からの動きを指している。そして、サービス力と商品 力で、接点から生まれた関係を動かし、点から線にしていくのだ。「当ホテルとしましては、顧客管理を徹底させていただいております。よく利用していただい ている人に、もっと利用していただくためにサービス向上があると位置づけているわけでして、最重要顧客がお求めになるものは用意できるよう心がけておりま す」。マーケティングマネージャーの立場での、言葉ではないと感じた。ホテルマンに当たり前に備わっている、お客さまに対する姿勢の現れを垣間見ました。
条件や組織スタイルが異なるとはいえ、やはり経営されているビジネスは強い。「僭越ながらお話申しますと、こうあるべきというスタイルにこだわりすぎて は、いけないと思う次第です。中心商店街の皆さまも競争されていらっしゃると存じ上げますし、顧客の動線は絶えず変化していると感じております。当ホテル でも今、脱マニュアルを各スタッフに求めています。ホテルとはこういうもの、と決して思わずに、ホテル内の各セクションで競争するぐらいの意識でないとい けないと常に申しております。ビジネスホテルとシティホテルの競争の結果、やはり私たちはサービスの向上に努めることになります。その為には、ホテル全体 と捉えるより、個々の努力なしではむずかしいのはないでしょうか」。
彼のような人材が存在するだけで、企業の総合力は向上する。社内はもちろん各方面からの信頼の厚さも、黙っていても私は耳にする。ホテルは一商店と発言す るのは、巨大なホテルであっても、個々の力の結集であるということではないだろうか。商店街と大きく総括する前に、個店の在り方に言及すべきという発想が 必要なのではないだろうか。商店街対ホテルとイメージすると、何も視えない。富山全日空ホテルの細かな変化や細やかなサービスは、もっとミクロな目で診る べきです。彼のような視点と信頼、顧客動線を探るというマーケティングこそ、中心市街地活性化に最も必要な『動線』だと学びました。


商店街の新陳代謝を加速させるものとは。

インタビューズ[VOL.1]2003.7.8 tue
竪町商店街振興組合事務局長 植村なおみ
「街は自律しないといけないと思うの」。 そもそも、彼女の一言が、このインタビューズのきっかけでもあった。彼女は、金沢市竪町商店街が全国公募して選出された、商店街の事務局長である。着任し た経緯も稀なのだが、その哲学も商店街らしくないポジションで、極めて注目する価値があり、引き込まれるものがある。その集大成とも言えるシステムがタテ マチドットコムのリニューアルではないだろうか。
この春リニューアルをとげたこのサイトの、最も新しいポイントは「ティーズパス」である。サイト上から会員登録を推進していくことで、商店街の顧客ネット をつくることが目的である。ただ、普通 の顧客管理と最も違う店は、商店街の全体の情報だけでなく、自分の好む店の情報だけを顧客側が選べる店だ。「やる気のある店に、お客さんが集まる仕組みを つくらないといけない」。以前に彼女から告げられた言葉は、商店街を保護するというよりも、がんばる商店を自律させるという強い意識だった。
しかも、この会員登録はPCと携帯電話により実行できる。いわゆる商店街顧客管理のIT化を遂行した、全国に先駆けての事業。前例なきものに着手すること は、商店街という古い体質が許さない場合が多々あるが、彼女の地道な説得と先駆的行動力がなければ実現しなかったのではないだろうか。国のIT活用型経営 革新モデル事業の指定を受け、大規模な予算を投入され完成した、まったく新しい商店街ホームページは、現在試験段階にあるという。
「始めてみないとわからないことも、たくさんありました。でも、少しずつ改善して環境を作りあげます。システムが完成したからといって、急激にアクセスや 会員が集まるとは思いません」。その運用と改善、そして更なる進化に目を輝かせる彼女の手腕は、商店街を超えて評価が高い。最終インタビューを行った日、 中心商店街の駐車場無料化はあり得るかという質問をぶつけてみた。その数日後、タテマチドットコムで竪町パーキングの平日基本料金200円が発表されてい た。トヤマグでも話題になった駐車場問題に、商店全体で正面 から取り組みはじめたという。駐車料金値引の全国に先駆けての行動力は、街の新陳代謝を待っていない。逆に加速させているようにさえ感じる。そして、彼女 の存在は、これからも金沢市竪町商店街に不可欠であり、全国の商店街で求められている人材に思えてならない。


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