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福沢諭吉「教育の功徳は子孫に及ぶべし」

『福翁百話』で前回の記事で紹介した「教育の力は唯人の天賦を発達せしむるのみ」から4つ連続で教育に関するエッセイが掲載されているのですが、今回はその2つ目となります。

現代語要約

  穀物の品種改良の要は種を選び、その栽培に努めることである。良い種を蒔いてそれを丁寧に栽培すれば、前年の種よりさらに良い種が出来るだろう。これを長年怠らなければ著しい進歩があるのに対して、最初に良い種を得てもしっかりと土を耕し栽培を丁寧にしなければ、種の品質は次第に悪くなりそれを元通りにするのは簡単ではない。

 人間の子どももこれと同様である。良い父母の子どもで心身の素質が屈強であっても、教育に気を配らないか、教育の仕方を間違えるか、または家風が腐敗していたりすれば、その子の品格を落とし、それが代々続いていけば初代の遺伝はすべて消滅して、弱くて愚かな子が生まれるだろう。江戸時代の大名や富豪の子孫で、愚かだ無気力になっている人がいるのが良い例である。

 名家の子孫でこうなのだから、無学文盲の身分の低い子どももこの例とは逆に必ず向上する道があるのは疑うまでもない。先祖以来全く文字を知らない子を教えるのは難しいことで、その身一代で学業で成果をあげるのは難しいが、代々教育を受け続ければ、品種改良と同様の原理により、子孫で大学者を出すことも決して難しいことではない。

 智者の子孫が愚者となるも、愚者の子孫が智者に変わるのも、病気やけがなど特別な場合を除いて3・4代の歳月が必要でずいぶん緩慢のようであるが、ぞの漸進漸退の事実は議論の余地がない。

 そしてその進退はただ教育の程度のみにある。故に教育の功徳(恩恵)は単に教育を受けている者自身のみならず遠く子孫にも及び、社会全体が進歩または退歩するのも、その国に行われている教育法に力が入っているかどうかに関係することを認識しなければならない。

考えたこと

① 「天賦遺伝」も教育によって変わる

 前回の記事で福沢は人の知能は「天賦遺伝」によって決まっていると言っていましたが、品種改良に例えてその「天賦遺伝」も教育をどうするかによって進歩もするし退歩もすることを述べています。福沢が一個人の教育観だけでなく、世代をまたいだ社会の発展という巨視的な視点から教育を考えていたことが分かります。彼の文明観とも共通する要素ですね。というより、彼は文明の発展という視点からも教育を考えていたということでしょう。

② 大きく・長い目で教育を捉える

 「家」意識の弱い現代において、教育は子ども個人のためのもので、子孫にも続いていくという意識はありませんよね。3・4代かけないと愚者は智者にならないなんていうのは、科学的根拠が無く参考にならなそうですが、教育の力で何でもすぐ変わるという姿勢に対するアンチテーゼでもあるのでしょう。
 現代において教育は子ども一個人にフォーカスして、偏差値だの学歴だのに躍起になっていますが、「子どもに良い教育を与えて、その後の子孫や社会に還元されればいいなあ」くらいに余裕を持っておくことも大切なのかもしれません。とにかく教育の成果を求めて焦りすぎてはいけませんね。


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