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高校日本史「学習プリント」⑦~律令制度の成立(天智~文武天皇)~

こんにちは。写真は明日香村にある天武・持統天皇陵になります。天武天皇とその志を継いだ皇后の持統天皇の関係を物語っていますね。今回で飛鳥時代最後のプリントで、日本に律令制度が導入される過程を白村江の戦い後から追っていきます。

プリントの構成

 今回の範囲は白村江の戦い(663)から大宝律令(701)の制定までの流れをまとめたものになります。白村江の戦いにおける敗北という対外的な危機状況に対応するために天智天皇のもとで国防の強化と中央集権化が進められていきます。そして壬申の乱(672)で勝利した天武天皇は大友皇子に味方した畿内有力豪族が没落したこともあり、絶大な権力を握り中央集権的な国家体制の整備を推し進めました。そして、その事業は天武の后であった持統天皇によって引き継がれ、最終的に持統天皇の孫の文武天皇の時代に日本で初めての律令である大宝律令が完成します。この時代の日本は、国内の改革に集中していたこともあり、対外関係との結びつきは白村江の戦い以後はそこまで意識する必要はありませんので、国内の流れを基本的にまとめたものになります。

解説

① 白村江の戦いと国防の強化

 白村江の戦いでの敗北後、称制を行っていた中大兄皇子(天智天皇)は唐や新羅の侵攻に備えて国防の強化を行っていきます。対馬島・壱岐島・筑紫国など防衛のために防人を拡充し、情報伝達のための(のろしのこと)を設置した。九州の拠点であった大宰府の防衛のために、周辺には水城(水堀をもった土塁)大野城基肄(きい)城などの石垣をもつ朝鮮式山城が築かれました。これらの技術に百済から逃れてきた人々がもたらした技術が用いられたと考えられています。また、都も対外戦争に備えて飛鳥から琵琶湖の水運を用いやすい近江大津宮に667年に遷都し、そこで正式に即位して天智天皇となりました。幸いなことに唐・新羅は倭には攻めてこず、668年に高句麗を滅ぼします。その後、新羅が唐を撃退して676年に朝鮮半島を統一しました。

②天智天皇による中央集権化

 防衛を強化する一方で、対外的危機状況のなかで大王(天皇)を中心とした中央集権的な体制を整備し、兵士の動員など軍事・財政力を強めるための政策が実施されていきました。まず、甲子の宣では氏上を認定するとともに、豪族の領有民(民部・家部と書かれているが部曲のことだとも考えられている)を認定しました。大王が諸氏族の上に立つことを確認するとともに、豪族による部曲の所有を否定することなくその掌握を進めようとしたと考えられています。この部曲の掌握を前提として、日本初の全国的な戸籍として作られたのが庚午年籍でした。氏姓の台帳として永久保存とされたが、散逸して現存していません。また、近江令(令は行政法)が中臣鎌足らによって編纂されたとされているが、現存せず、存在を疑う意見もあります。これらの天智天皇による改革は大王による支配を強化したこともあり、地方豪族の不満を高めることにもつながっていきました。

③壬申の乱

 大化の改新以来、天智天皇を支えてきた中臣鎌足が669年に亡くなります。鎌足は死に際して藤原姓を授かりました。藤原氏の誕生です。そして、天智天皇は子の大友皇子を太政大臣に任命した後に、病死します。天智の死の直前、出家して吉野へと隠遁していた天智の弟の大海人皇子が672年挙兵します。大海人皇子は伊勢を経て美濃に入り、そこで東国豪族の動員に成功して大友皇子率いる近江朝廷に勝利しました。これを壬申の乱といいます。年号を覚えるとすれば「無難(672)に勝利」なんてどうでしょうか。
 勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となります。軍事的な勝利を収めたことと、近江朝廷側についた畿内の有力豪族が滅びたことで、天武天皇は強大な権力を手に入れることになります。天武天皇は大臣を置かずに皇族を中心とする皇親政治を行いました。大王に代わって「天皇」という称号が実際に使われるようになったのも天武天皇からだと考えられています。『万葉集』の歌からこの頃に天皇の神格化が進んだことが見てとれます。天武天皇が国史の編纂を命じ、その後、奈良時代に完成した『古事記』・『日本書紀』において天皇は天照大御神の子孫とされています。その天照大御神が祀られているのが伊勢神宮です。伊勢神宮もこの頃から整備され始めました。壬申の乱の際に天武が伊勢の神に戦勝祈願したことで、伊勢の一地方神から皇祖神となり国家的な祭祀の対象となったと考えられています。

④天武天皇の改革と持統天皇による事業継承

 天武天皇は強大な権力によって中央集権的国家体制の整備を推し進めていきました。675年に豪族の部曲を廃止し、位階や昇進制度などを整備することで豪族の官僚化を図っていきます。684年には八色の姓が定められ、王族出自の氏族に与えられた真人を筆頭に朝臣・宿禰以下の姓によって豪族の秩序を再編成した。また、日本初の貨幣である富本銭が鋳造されたが、目的ははっきりしていない。中国にならった律令の編纂や新たな都の藤原京の造営も開始されたが、完成する前に天武は亡くなり、その事業は皇后であった鸕野讚良(うののさら)皇女(持統天皇)によって引き継がれていきます。
 持統は3人目の女帝ですね。元々持統は彼女と天武の皇子である草壁皇子への中継ぎとして称制を行っていましたが、草壁皇子がなくなると、天皇に即位しました。これは草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)への皇位継承を確実にするためです。天武には多くの皇子がいました。特に血筋も良く人望の厚かった大津皇子は持統に警戒され、謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれています。持統天皇のもとで、689年に飛鳥浄御原令が施行され、翌年にそれに合わせて作られた戸籍は庚寅年籍と呼ばれている。ここから6年ごとに戸籍を作るサイクルができ、班田収授もここから始まることとなりました。694年(平安京遷都100年前)、日本初の本格的な都城である藤原京へと遷都しました。藤原京は碁盤目状に区画され(条坊制)、天皇が住む宮の周りに役人(官人)などが住む都市(京)が形成されました。

⑤ 大宝律令の成立

 その後持統は15歳となった軽皇子に譲位し、日本史上初めての太上天皇(上皇)となります。これ以降、天皇家の皇位継承は兄弟・世代間継承から嫡男への嫡系継承が中心となっていきます。持統の後見のもと、701年に、刑部親王(天武の子)や藤原不比等(鎌足の子)らによって編纂された大宝律令が完成し、律令制度が整いました。ちなみに律は刑法で、令は行政組織や管理の勤務規定や人民の租税・労役などを定めた行政法です。律令完成後、702年に遣唐使が派遣され、この頃から「日本」が国号として正式に用いられるようになります。

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