平安王朝の形成ー桓武・嵯峨~高校日本史「学習プリント」⑧つき
こんにちはコウちゃんです。この記事では「泣くよウグイス平安京」で有名な桓武天皇から嵯峨天皇までの時代の流れを解説していきます。高校日本史をベースとしてますが、社会人の学びなおしにも是非ご活用下さい。
プリントの構成
このプリントは平安時代の基礎を築いた平安初期の桓武・嵯峨天皇の時代を扱っていきます。平安京に遷都を実行した桓武天皇の二大プロジェクトが平安京への遷都と蝦夷の征討でした。また、この時期は律令制度にとっても転換期で両天皇の下、積極的な政治改革が行われました。そこで、遷都に伴い起きた政変や関係する天皇、政治改革、蝦夷の征討この3つを軸に流れを追える構成としました。
解説
①桓武天皇の即位と二大事業
前回のプリントでやったように称徳天皇で天武皇統は断絶し、天智皇統の光仁天皇が即位しました。そして、その子どもが有名な桓武天皇です。実は桓武天皇は、長子でしたが皇太子ではありませんでした。桓武の母は渡来人系の高野新笠という人物で身分が低く、皇太子は聖武天皇の娘を母とする他戸親王でした。しかし、藤原百川の画策によって他戸親王は廃太子され、桓武天皇が即位することになりました。
母の出自の低さや陰謀により即位したこともあり、桓武天皇の権威は高いものではありませんでしたが、桓武は新たな都の造営と蝦夷の征伐という二大プロジェクトを実行していくことで、自らの指導力を示し、権威の確立を図っていきます。まず、784年に山背国の長岡京へと遷都を実施します。背景となったのは光仁から桓武へと天智系の新たな皇統の成立を示すことや奈良の仏教勢力の政治からの排除などが背景にあったと考えられています。近年は、平城京の都市問題や内陸のため物資の運搬が難しいなど様々な面が指摘されており、1つに絞ることは難しいです。
②遷都事業の展開
長岡京周辺には大阪湾へつながる淀川など大きな河川が集まり、水運に便利な場所でした。しかし、遷都の翌年に造営責任者であった藤原種継(式家)が暗殺されてしまいました。その首謀者は事件直前に死去した大伴家持(万葉集の編者)であり、彼が仕えていた皇太子で桓武天皇の実弟の早良親王も関わっていたとされました。早良親王は無実を訴えて絶食して亡くなったと言われています。この事件後、桓武は自分の皇子である安殿親王(後の平城天皇)を立太子しました。この事件の背景には皇位継承や遷都をめぐって桓武側と早良親王側で対立があったと考えられます。早良親王の死後、疫病が流行り桓武の身内にも病死者出たり、都が洪水の被害にあったりして、早良親王は怨霊として恐れられることになります。その後、和気清麻呂らの提案もあり、794年に平安京への遷都が決定します。従来は怨霊を恐れて遷都したと言われていましたが、近年は洪水の被害を受けやすいという実際の問題があったことが大きな理由であると考えられています。
③ 蝦夷との戦い
遷都事業を進める一方、桓武は蝦夷との戦いも進めてきました。桓武が即位する前年、780年に東北では朝廷に帰順した蝦夷の豪族である伊治呰麻呂が反乱を起こし、鎮守府が置かれていた多賀城を焼き落としてしまいました。反乱は鎮圧されたものの、これを機に朝廷と蝦夷との全面的な戦争が起きていきます。桓武は789年に紀古佐美を征東大使として派遣しましたが、蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)に敗北してしまいます。平安京への遷都を終えた後、桓武は武勇に優れた坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し蝦夷征討に派遣しました。802年、田村麻呂は蝦夷の族長阿弖流為を降伏させ、その後、鎮守府を多賀城より北方の胆沢城へと移転しました。さらにその翌年には志波城をさらに北方に築いて前線基地として築いています。その後、蝦夷との戦いは代が変わって嵯峨天皇の時代に文屋綿麻呂によって蝦夷は平定されることになります。
④ 徳政相論とその他の政治改革
平安京造営と蝦夷征討の二大事業は民衆にとって大きな負担となり、805年の徳政相論で中止されます。徳政相論は桓武天皇が中止を提案する藤原緒嗣(百川の子)と継続を主張する菅野真道を議論させ、桓武は緒嗣の案を採用して中止を決断しました。この頃、桓武は晩年で徳のある君主としての姿を演じるためにこのような演出をしたとも考えられています。
二大政策を軸に桓武の時代を見ていきましたが、この頃、重い成人男性への負担からくる公民の浮浪・逃亡などにより国家財政が悪化しており、律令制度の立て直しのための政治改革も同時に桓武は行っています。東北と九州以外の軍団を廃止し、軍事の子弟や有力農民からなる健児の採用や雑徭を半減するなどして公民への負担の軽減を図りました。また困難になっていた6年に1回の班田も12年に班にすることで班田制の立て直しをはかりました。さらに国司の交代の際のトラブルを防ぐため、徴税や官有物の管理に問題がない際に新任国司から前任国司に渡される文書である解由状を審査する勘解由使を新たに設置しました。このような令に定められいてない新らしい官職を令外官といいます。これらの改革は根本的な解決にはならなかったのですが、以上、桓武の業績としてはこれぐらいを抑えておけば大丈夫です。
⑤平城太上天皇の変(薬子の変)
桓武天皇の死後、即位したのが平城天皇です。官庁の統廃合など政治改革に意欲的に取り組んでいたのですが、病のため弟の嵯峨天皇に譲位して上皇となりました。その後、回復した平城上皇は平城京に移り住み(天皇名の由来)、藤原仲成・薬子(種継の子ら)の意見もあり平城京への再遷都を図ろうとして「二所朝廷」とよばれる政治的混乱が生じた。平城上皇の挙兵計画の情報を得た嵯峨天皇は、坂上田村麻呂を派遣して藤原仲成を射殺し、薬子も自殺した。平城上皇は罪に問われず出家した。皇族の平城上皇に責任を避け、仲成と薬子が首謀者として責任をかぶせられて結果、長らく「薬子の変」と呼ばれてきたが、研究の進展より近年は「平城太上天皇の変」と呼ぶのが一般的になっています。この事件をきっかけに奈良時代までは普通に行われていた太上天皇による天皇権力の代行や共同統治が行われなくなり、天皇個人へと権力が集中する仕組みが整えられていきます。
この変の際に、宮中の機密を守り、素早く太政官組織に天皇の命令を伝えるために設置された役所が蔵人所でその長官の蔵人頭として北家の藤原冬嗣が任命された。蔵人頭は天皇の秘書官長として以後、出世においても重要なポストになっていきます。変後、権威を確立した嵯峨天皇は政治改革を推進していきます。京内の治安維持のために検非違使を設置しました。検非違使はのちに裁判も司るようになり重要な役職となっていきます。嵯峨天皇の時代には蔵人頭や検非違使などの天皇直属の令外官が設置され、天皇個人に権力が集中するようになりました。以後、貴族たちは天皇と個人的な関係を結ぶことが重要な権力基盤となっていきます。
⑥ 嵯峨天皇の政治改革
天皇個人に権力が集中させていく中で、それを支える官僚制の整備が重要になってきます。嵯峨天皇は法制の整備を命じ、律令制定後に社会の変化に応じて出された格(追加・修正法)と式(施行細則)を編纂させました。年号をとって弘仁格式といいます。その後も格式の編纂は行われ、貞観格式・延喜格式と合わせて三代格式と呼ばれます。法制の整備が進んだことによって、官僚制の機能が充実し、天皇個人の能力に関係なく安定的な政治運営が可能になっていきました。これらの政治環境の変化は後に摂関政治の土台となっていきます。
また、嵯峨天皇は儀礼などの唐風化を進めたことで有名です。これは桓武天皇の時代からの傾向で新しい皇統の権威を中国の皇帝になぞらえて高めようとしたのではないかとも考えられています。もう1つの背景は律令制度を再建していくにあたって、官人(貴族)の教養として中国の文物や制度の知識が重要だったこともあります。この頃、詩文が作られて文学が栄えることが国家経営につながり、国家の安定をもたらすとする文章経国思想が広まり、天皇の命で勅撰漢詩集が編纂されました。嵯峨天皇の代には『凌雲集』・『文華秀麗集』、次の淳和天皇の代に『経国集』が編纂されました。ここは文化史との結びつきを意識しときたいところですね。説明は省きましたが、それぞれの天皇が最澄・空海を支援したことも政治とのからみの中で覚えちゃいましょう。
以上、桓武から嵯峨天皇の時代まで見ていきました。立て続けに政変や改革が行われていますので、それぞれどの天皇の代に行われたのかを良く整理しておくとよいでしょう。
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