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荘園制の展開~高校日本史『学習プリント』⑫つき

割引あり

久しぶりの歴史の流れシリーズの配信です。今回のテーマは荘園制度です!
解説はすべて無料で読めます!!プリントのみ有料とさせていただきました。あんま需要ないと思いますが、サポートの気持ちで買ってくれたら嬉しいです!

 荘園制の歴史は研究が進み、「寄進地系荘園」が形成された時期は摂関政治の時期から院政期に見直され、さらには「寄進地系荘園」という表現も不適切で「領域型荘園」というのが適切だという主張もあります。しかし、教科書ではまだかつての理解のまま説明されていたり、古い説と新しい説が折衷されて書かれていたり、非常に分かりづらいです。ここでは大学受験日本史の定番となっている「山川日本史詳説」をベースに荘園の歴史を解説していきます。(どうしても長くなってしまいます。)

解説

 まず、「荘園」というのは寺社や貴族が私的に所有した土地を指します。公地公民制を前提とした律令制度のもとでは本来ありえないはずなのですが、戸籍・計帳をベースとした公地公民制が崩れて律令制度が変化していくとともに荘園制度も発展していきました。このプリントでは左側に荘園など土地制度の変化を中心に、右側に律令制度の変化を軸としてプリントを作りました。

①初期荘園の成立

 初めて荘園が生まれたのが奈良時代でした。律令制度が発足して間もなく、人口増加によって口分田が不足し始めます。これに対応するために長屋王政権の時代に三世一身の法などの開墾政策が行われましたが、成果がでませんでした。そして730年代に疫病が流行し田畑が荒廃したこともあり、その復興政策の一環として、聖武天皇の下、743年に開墾した土地の永続的な所有を認める墾田永年私財法が制定されます。それを背景に形成されたの荘園を初期荘園といいます。
 初期荘園は東大寺などの大寺院や貴族が、国司や特に郡司の協力のもと、付近の農民や浮浪人を使用して開墾を行って形成されたものでした。その後の経営も国司・郡司の地方統治に依存して行われ、専属の農民はおらず、付近の農民や浮浪人が用いられました。また、後の荘園のような免税特権はなく、税のかかる輸租田でした。そのため、墾田永年私財法は政府の掌握する田地を増加させることで土地支配の強化を図った律令制度を補完する政策としての評価もあります。

②戸籍・計帳システムの崩壊

 初期荘園は郡司の衰退とともに10C頃には衰退していきました。ではなぜ、郡司が衰退したのか。これを理解するためには律令制度の変化を理解する必要があります。まず律令制度の税の特徴は戸籍・計帳にもとづく成人男子への人頭税を中心とした税制でした。そのため、8C後半には重税に耐えかねた成人男性は偽籍をしたり、本貫地から逃亡・浮浪したりしてしまいます。その結果、戸籍・計帳は実態とかけ離れたものとなり、班田も実施できなくなっていてしまいました。この様子を伝える重要史料が914年に三善清行によって醍醐天皇に提出された「意見封事十二箇条」という史料です。戸籍上成人男性がほとんどいない実態を報告しています。このように公地公民制が崩れた結果、朝廷の税収は減少してしまいました。

③直営伝方式の登場と院宮王臣家による土地占有

そこで朝廷は新たな仕組みを導入していきます。それが有力農民(富豪の輩・富豪層)を利用した直営田方式です。その先駆けとなったのが823年に太宰府で設置された公営(くえい)田(た)です。879年に、畿内に官田を設けました。さらに中央の各官庁も独自に諸司田を経営するようになりました。しかし、天皇と関係の近い皇族や貴族である院宮王臣家が、皇室財源にあてられた勅旨田や皇族に与えられた賜田など多くの土地を占有するようになり国家財政を圧迫するようになりました。そのような事態に対して、醍醐天皇の下、902年に延喜の荘園整理令が出され新たな勅旨田の設置が禁止されました。しかし、取り締まりを国司に任せたため大きな成果はあげられませんでした。延喜の治では最後の班田が実施されるなど、律令制度の再建が図られましたが、戸籍・計帳の制度は崩れ、従来の調・庸にもとづく国家財政の維持は出来なくなっていました。

④ 国司制度の改革:受領の登場

 こうした事態を解決すべく、9世紀半ば~10世紀にかけて国政制度の改革が行われました。最も重要な改革がそれまで四等官制のもと連帯責任だった国司を、国司の最上席者(通常は守)1人に任国の統治を一任するとともに朝廷への一定額の税の納入責任を負わせる仕組みへと変えたことです。国司の最上席者は交替の際に一国の財産などを前任者から引き継ぐことから、受領と呼ばれるようになります。受領は確実に徴税するために、それまでの人頭税を中心とした税制から土地課税へと徴税方法を転換していきました。土地は人みたいに逃げませんからね。
 
 その結果、生まれた土地制度が負名体制です。受領は課税の対象となる土地をという単位に分け、田堵と呼ばれる有力農民に耕作と納税を請け負わせました。そのため田堵は負名とも呼ばれます。税もそれまでの租庸調から改められ、官物臨時雑役にまとめられました。田堵の中には受領と結び付いて大規模な経営を行う大名田堵と呼ばれるものも現れます。

 これにより受領が有力農民と直接結びつき、土地を基礎に徴税する体制が成立しました。そのため、郡司の役割は薄れ衰退していきます。これが、初期荘園が衰退した背景です。一方、受領は朝廷に一定額の税を納入すればいい訳ですから、徴税を強化して任期中に税を絞れるだけ絞ろうとしてきます。その結果、その暴政を郡司や有力農民に訴えられる受領もいました。代表的なのが「尾張国郡司百姓等解」で有名な藤原元命です。その他にも「今昔物語集」に信濃国の国司の藤原陳忠など強欲な受領の逸話が残っています。

⑤ 開発領主の登場

 悪い側面だけ言われがちな受領ですが、受領は積極的な開墾政策を行っていきました。この政策の中で受領の許可の下、土地を開墾していったのが開発領主とよばれる人々です。開発領主は、かつて大名田堵が成長してなった(今でもそう述べている参考書やwebサイトはあるが)とされていたが、受領の子弟や軍事貴族の子孫やなどの中下級貴族や僧侶が中心であったという見方が強まっています。山川は両者が併記されていますね。
 彼ら開発領主は基本的に国衙(国司の役所)と結び付いています。彼らは国衙で受領の支配を支える在庁官人としての性格もありました。難しい言葉ですが要は受領配下の役人です。現地での支配体制が整ってくると受領以外の国司だけでなく、受領自身も任地に行かなくなります。それを遥任といいます。受領が現地にいない国衙のことを留守所といい、そこには受領の代理人として目代が派遣されて在庁官人をまとめていきました。

⑥ 寄進地系荘園の成立

 そしてここからは山川の教科書的な説明にある程度沿った形で寄進地系荘園の成立を解説していきます。基本的に国衙と結び付いていた開発領主なのですが、中には国衙の干渉を逃れるために所領を中央の権力者や大寺院に寄進するものが出てきます。こうして出来た荘園を寄進地系荘園と言い、開発領主は自らは預所・下司などと呼ばれた現地の荘官となりました。寄進を受けたものを領家といい、さらに寄進された場合、さらに上級の領主を本家といいます。このような有力貴族・寺社の力を背景にして、寄進地系荘園には、免税特権(不輸の権)を与えられたり、国衙の検田使(土地を調査し税の負担量を定めるために国衙から派遣される使者)の立ち入りを禁ずる不入の権が与えられたりしました。

⑦ 荘園公領制の成立

 こういった荘園の増加を受けて後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令を出しました。この時に中央に荘園の証拠書類を審査する記録荘園券契所が設置され、摂関家の者も例外なく基準にあわない荘園は停止されました。この整理令によって違法な荘園は整理されましたが、荘園が国家公認のものともなりました。これにより国司(受領)の支配する公領と荘園が明確になり、荘園と公領が並立する荘園公領制が成立します。
 国司は公領を郡・郷・保という新たな行政区画に分けて開発領主を、それを管理する郡司・郷司・保司に任命しました。彼らの役目は基本的には荘園における荘官と同じす。気を付けたいのは郡・郷・保は国・郡・里のように階層的な(または上下関係)のものではなく、各地で並立していたものです。荘園と公領ともに、田堵が引き続き耕作を請け負っていましたが、名への支配権を強めて名主とよばれるようになり、下人・所従とよばれた隷属農民に耕作をさせながら、領主に年貢・公事・夫役を治めていました。公領と荘園の所有者は違いますが、結局は同じような仕組みで動いていたわけです。

⑧ 知行国制度の登場

 さらに院政期になると、知行国制度が導入されて公領も私領のようになっていきます。知行国制度は身分上国司に就任できない、皇族や上級貴族が国の収益を自らの手にするために生まれた制度でした。知行国主となった上級貴族は、近親者を名目上の受領に任命し、現地には目代を派遣して公領の税を取得できる仕組みでした。
 
以上、古代から中世までの荘園制度の仕組みの流れでした。中世に出来た荘園公領制を基盤として武家社会の発展も進んでいくので中世史を理解するうえで非常に重要な仕組みとなっています。

最後まで読まれた方、勉強熱心ですね!!!ありがとうございます!!

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