福沢諭吉「家庭の遊戯」~子どもと一緒に遊ぶことの大切さ
こんにちは!!
福沢の教育論に関する長めのものをまとめていって少し疲れました(笑)。
短めのを探していて、家庭教育について述べたものがあったので、明治22(1889)年5月21日付『時事新報』に掲載された「家庭の遊戯」を紹介します。
要約
子どもを教化するにあたって家庭教育が大切なこと古今東西おなじである。
日本では古来より、忠孝仁義を中心に一族の教えが非常に厳しく、それが気風となり、現在の士人(士族または教養のある地位の高い人)の子どもの徳義を養うのに貢献している。
道徳的教えの面において日本の家庭教育において不足していることなないが、人は道徳だけでなく感情で生きるものである。だからこそ、家庭教育においても道徳だけで子どもをしつけるだけでなく、感情によって人格を薫陶することも大切である。
その方法は、親や祖父母が子どもと一緒になって遊んで楽しむことである。
良家の中には日本在来の遊びを卑しいとする者もいるが、卑しい芸人がそれらをするからそう見えるだけで、彼ら固有のものではない。
事物の尊卑はもつ人によって決まるのだ。
高尚な家がそれらをすれば高尚にみえるのだ。だから気にすることなく、良家でも子どもと遊戯を共にするべきである。
現代語訳
子どもを教化するにあたって家庭教育が大切なことは古今東西異論がないことで、その方法は各々異なるだろうが、各国いずれもこれに気を配らないところはない。
我国においても古来から一族の教えが非常に厳正で、忠信、孝悌、礼儀、廉恥などを教えの中心とし、ひたすらこれを奨励したため、その家風が現在まで伝わって士人(士族または教養のある地位の高い人)の家にはその風儀が美しいものが少なくない。
かつての忠孝仁義の考えと今日の道徳論はもとよりその趣旨が同じではないが、子どもの徳義を保ち一家の風儀を維持することに限って言えば、区別がないのはもちろんのことある。かつ、積年の教えにより既に人の気風となり、子どもの教化に効果があるため、今更その教えの趣旨を遡って得失を論じるべきではない。
そうであるならば、教えの一点に限っては現在はあえて不足していると言う理由はないが、そもそも人間は道義にもとづく生活をしているだけでなく、感情による生活もしている事実は疑いない。そのため、家庭教育に至っても厳正な道義の教えだけで子どもの心をしつけるだけでなく、感情によって感化することが無ければ、完全なものであるとはいえない。
いわゆる人格の薫陶とはこのような意味を表したものであり、その方法には様々であるが、私の所見では、その家の父母・祖父母が家の教えとともに、子どもとともに遊び楽しみ、家族団らん、和気あいあいとする中で、自ずと教化することが肝要であると信じている。しかし、日本従来の家庭教育は、教えの一方に偏り、薫陶の手段においては非常に不足しているところがある。家庭の教えは厳正であることは大切だが、ただ厳正なだけで、情によってこれをやわらげなければ、家内の空気は非常に乾燥して殺風景となり、子どもを薫陶することは非常に難しいだろう。
聞いたところによると、西洋の風習では、家庭の教えは厳正であるが、家族団らん親子ともに楽しむ工夫をたくさんしており、例えば毎晩の夕食の後には一家で歌を歌うなどの遊びをしたり、あるいは近所の仲良しの人と会って一緒に楽しむなど、一晩の快楽に一銭も費やさず無限の楽しみを尽くし、その間に自ずと家庭薫陶の効果をあげることが非常に多いと聞く。非常にうらやましいことである。
今後日本においても十分に家庭教育の効果をあげようとするには、道徳の教えのみに頼らず、家族団らんの楽しみによって子どもの心を感化薫陶することが肝要である。それでは、その楽しみのためにどのような遊戯をすれば良いかというと、近年は西洋由来の遊戯の道具趣向が伝わってきて面白いが、各家庭の都合次第で必ずしも西洋の物に限る必要はない。日本在来の趣向でも楽しいものは非常に多く、手踊り・三味線・琴・笛などや簡単なものだと、カルタ・昔話・じゃんけん、ごっこあそびなど、とにかく手軽で誰にでも出来るだけでなく、失敗しても一時の笑いになる。
実に簡単なことなのに、このような遊戯はいずれも卑しくて良家の楽しみには用いるべきではないという意見がある。思うにその中にはいわゆる芸人がそれをするようになって世間で卑しく見られるようになったものが多いため、子どもの薫陶には用いるべきではないと言っているのだろうが、これは道理の通らない主張である。
これらの遊戯が芸人たちのものとなった原因は結局のところ、士人の家庭が非常に殺風景で仁義道徳の教え以外に他に取り入れると禁じ、家族団らんの楽しみのようななものはほとんど忘れ去られたような状態が当たり前になったがゆえに、人生快楽の道具は窮屈な場所を去り、他の下等社会に一時仮りの住まいを作っているようなもので、元々芸人たちの固有の物ではないのだから、一旦忘れ去られた品物を元の主人の手に戻しても何も躊躇することはない。
それに加え、卑しい芸人の手に在るから卑しく見えるのであって、高尚な士人の家に置けば高尚に見えるようになることは疑いもない者で、万事みなそうでないものはない。事物の尊卑はもつ人によって決まるのだ。良家の楽しみにこれらの遊戯をすることをはばかることはない。すぐに実行して家庭教育の効果を完全にすべきである。
考えたこと
① 教えるだけでなく薫陶することの大切さ
どうしても教育というと、ベクトルとしては上から下へ何かを教えることだと思われがちである。そう思ってなくても人間の性分なのか、何かを教えることが好きなのだろう、ついつい教えることが多くなってしまうことが誰しもあるだろう。
もちろん教えることも必要なのだが、人間教わりすぎると逆にやる気が無くなったり、思考を停止してしまうことにもつながってしまう。そこで重要になっていくのが、福沢は原文では「不教の化」とも表現している薫陶である。
辞書的には薫陶とは優れた人格で感化することである。
「何を言うかより、誰がいうか」という格言がその意味に近いかな。
もちろん誰しもが優れた人格者なわけではない。だけど、誰でも出来る薫陶の方法が子どもと一緒に遊ぶことなのだろう。子どもと大人が一緒に遊ぶ中で、学ぶ道徳もあろうし、遊ぶ中で作られていく感情的なつながりが、学びにつながるのだろう。親は子どもと遊ぶ機会が成長するとともに減るだろうが、時には一緒に遊ぶことも大切なのかもしれない。
② レッテルを貼らずに物事を見る
良家が日本在来の遊戯を芸人がするような卑しい物として避けていることに対して、その遊戯自体が卑しいのではなく、「事物の尊卑は人に在て存す」とどのような人がその事物を持ったり・使用したりするかによってただその価値観があるだけと福沢は主張する。物事を世間の価値判断ではなく、その本質を捉えようとする姿勢が見える。
最近ではだいぶ落ち着いたが、現代の遊戯でよく悪者にされるのがゲームなどだ。私も子どもがゲームばっかりしていてという相談を受けるが、小さい時からゲームを大人の時間を作るために勝手に子供にやらせておく道具としてではなく、大人がゲームを子どもと一緒に楽しんで、正しいゲームとの付き合い方を模範として見せてあげれば、そういった問題も少なくなるのではないだろうか。
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