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『光る君へ』の時代の流れを解説~高校日本史『学習プリント』⑪つき

フローシート

今回のフローシートは大河ドラマ『光る君へ』で話題の藤原道長・頼通の時代を扱います。摂関政治の最盛期ですね。こちらでは『光る君へ』のキャストも交えて解説していきたいと思います


 

解説

①摂関政治の成立

 前回も出てきた安和の変から話を始めたいと思います。安和の変で左大臣源高明が左遷されたことによって、藤原氏による公卿(国政を司る高官)の独占体制が確立し、摂政関白がほぼ常に置かれるようになります。安和の変の時に関白であったのが忠平の長男の藤原実頼です。実頼は村上天皇の時代は左大臣として右大臣の弟の師輔とともに政治を行いました。しかし、村上天皇の子である冷泉天皇とは外戚ではなく、何かと軽んじられることが多かったようで、「揚名関白」(名ばかりの関白)と自虐しています。冷泉天皇の母は師輔の娘で、逆に勢力を強めたのは弟の師輔(安和の変の時点ですでに死去)の子孫たちでした。実頼の子孫は、有職故実(朝廷の儀式やしきたり)に詳しく、その住居から小野宮流と呼ばれます。子孫には有名な藤原公任実資がいます。

一応いとこ同士の親戚、秋山さん黒いねー
公任は漢詩も和歌も管弦もできる超一流文化人
実資は優秀な実務官僚タイプ、道長にも媚びない

②氏長者をめぐる争い

 そして、安和の変後は藤原氏の氏長者の地位をめぐる争いが繰り広げられることになります。氏長者は氏寺・大学別曹の管理や一族の冠位推挙にあたるなど大きな力をもっていました。
 まず氏長者の争いで有名なのが兼通兼家兄弟の争いです。兼通の方が4歳年上なのですが、官職は弟の兼家の方が上でしたが、冷泉天皇の子の円融天皇は、摂関の順は兄弟順にするという「母の遺命」(諸説あり)に従い、974年、兼通を関白に任命しました。しかし、兼通は977年に病が重くなってしまい、兼家は自分を次の関白にしてもらうために、行列を整えて天皇にお願いしに行きました。その行列を兼通は病気の見舞に来たのだと喜んだのですが、兼家は自分の邸宅の前を通過して内裏に向かってしまいました。兼通は激怒して、兼家を次の関白にさせないために、病をおして参内し、関白を左大臣藤原頼忠(実頼の子)に譲り、兼家の右近衛大将という官職を奪った後、亡くなりました。

ドラマでもドロドロの政治劇

③ 兼家の台頭

 その後、円融天皇が譲位し、冷泉天皇皇子の花山天皇が即位しました。政治は関白の頼忠が主導し、兼家は不遇を強いられていましたが、花山天皇が后を亡くした悲しみをきっかけに出家する意志を持ったことをきっかけに、四男の道兼と協力して花山天皇を出家させ退位させてしまいました。そして、わずか7歳の外孫の一条天皇を即位させ、摂政の座に就きました。兼家は強引に自らの一族の冠位を引き上げていき、息子の道隆や道長も恩恵を受けました。長男の道隆は娘の定子を一条天皇に入内しました。その後、兼家は病気で亡くなります。

④ 藤原道隆…中関白家の一時の栄華

 兼家の跡を継いだのが道隆でした。一条天皇の摂政・関白として政権を握りました。道隆の一家を中関白家といいます(兼家と道長の間という意味)。しかし、道隆は酒癖が悪かったらしく糖尿病で亡くなってしまいます。そのあとを継いだのが弟の道兼でしたが、こちらは疫病で関白就任後、数日で亡くなってしまい「七日関白」なんて言われています。

一条天皇に愛された定子、しかし父の死去により後ろ盾を失う

⑤ 藤原道長

  次々に兄が亡くなる中出番がめぐってきたのが道長です。一条天皇から内覧(天皇が裁可する文書などを先に見る役職)に任命され、右大臣まで出世しました。これに対抗したのが道隆の息子の伊周で、両者の対立が深まりました。しかし、花山法皇との女性問題をきっかけに失脚し、伊周は太宰権帥として左遷されました。この時に弟の隆家も左遷されますが、その後許されて1019年の刀伊の入寇の際に現地の武士団を率いて活躍しています。

やらかして自滅(隆家は違うところで頑張った!)

 ライバルの伊周が失脚したことで道長の地位は盤石になり、999年には娘の彰子を一条天皇に入内させました。同じ年に定子は皇子を出産しますが、実家の後ろ盾がなかったのと、その後彰子に皇子が生まれたこともあり、皇太子になることはありませんでした。定子はその後女の子を解任しましたが、その出産の際に25歳の若さで亡くなっています。

 道長はその後、三条天皇に妍子(けんし)を入内させますが、天皇と道長は不仲で半ば強制的に退位させ、外孫である後一条天皇を即位させました。そして後一条天皇には威子を入内させました。威子が入内した際に詠んだ歌が有名な「望月の歌」です。このエピソードは藤原実資の日記である『小右記』に記されています。実資は小野野宮流の藤原実資の孫です。有職故実に詳しく右大臣を長く努めました。『小右記』の名前の由来は小野野宮右大臣日記の省略です。平安時代の超重要史料なので覚えましょう。道長は晩年は政務を息子の頼通に譲り、自らは当時末法思想が流行していたこもあり、浄土信仰を厚くし、法成寺というお寺を創建しました。そこから彼は「御堂関白」と呼ばれました。『御堂関白記』は彼の日記で直筆の者が現存しています。これも重要な史料です。

最盛期はどう描かれるのでしょうか

⑥藤原頼通

 道長の跡を継いだ藤原頼通は道長の外孫である後一条天皇・御朱雀・御冷泉3代の天皇のもとで、約50年間、摂政・関白を務めました。彼が創建した平等院鳳凰堂があった場所から彼は『宇治関白』と呼ばれます。しかし、自分の娘と天皇との間に男子が生まれず、ついに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位しました。頼通は天皇と疎遠だったこともあり、政界を引退しました。

⑦後三条天皇の登場

 後三条天皇は親政を行い、大江匡房などの実務能力のある中下級貴族を登用して改革を行いました。1069年に延久の荘園整理令を出して、記録荘園券契所(記録所)を中央に設けて、1045年以降に出来た新しい荘園と券契(荘園の証拠書類)に不備がある荘園は摂関家の荘園も例外なく、停止しました。また、枡の大きさを一定にするため宣旨枡を定め度量衡の統一を図りました。荘園整理令による摂関家が経済基盤に打撃を受けたかは評価が分かれるところがありますが、後三条天皇の登場で摂関政治は終わりをつげ、院政の時代へと移っていくことになります。


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