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マネジメントの社会的責任とは何か?どのようなものか?

経営者JPが運営する志高き経営者・経営幹部・次世代リーダーが集う会員制プラットフォームKEIEISHA TERRACEスペシャルコラムドラッカー再論では、ドラッカーは何を見、何を伝えたのか、私たち、実務経営者にとっての「実践的ドラッカー論」について、再考・熟考・使い熟しをしています。


マネジメント(経営陣・経営管理陣)には社会的責任がある。
その社会的責任についての議論は、マネジメントを社会のリーダー的存在として捉えるところから始まっていることが多いが、ドラッカーはこれを否定する。
正しくは、マネジメントの企業に対する責任から始まるべきである、と。

「この責任こそ、マネジメントが妥協したり避けたりすることのできないものである。なぜならば、企業そのものがマネジメントへの寄託だからである。あらゆることがこの寄託関係から派生している。」(『現代の経営』、1954年)

世論や政策や法律に関して、マネジメントが企業に対して負うべき第一の責任は、社会から企業に対してなされている要求を、企業の目標の実現に直接影響を与えるものとして捉えることだとドラッカーは言う。

「すなわち、自らの行動の自由に対する脅威や制約となるそれらの要求を、健全な成長への機会に転化することである。あるいは少なくとも、それらの要求を満足させるうえで必要な犠牲を最小にすることである。」(『現代の経営』)

なにを言っているかというと、例えば私たちの最も身近なところで言えば、年金制度がある。
高齢化社会の中でそのままの制度でい続ければ、早晩、負担側が耐えきれなくなることは数十年前から試算できたことだ。それを踏まえて早期から(昭和の頃から?遅くとも平成中にはだろう)世代負担を少しずつ増やしておけば、今後の急激な負担増や支給減には合わずに済んだはずだ。

他方、かつて高齢とされていた年齢に達した人たちの極めて多くが、今日では肉体的にも精神的にも仕事を続けることができ、それを望むようになっている。

「したがって、マネジメントが行うべきだったことは、一方においては、仕事を続けることができ、かつそれを望む人たちの雇用を維持すること、他方においては、仕事を続けることができない人たちや、それを望まない人たちに年金を与える制度をつくることだった。しかも働き続ける人たちが、若い人たちの昇進の邪魔になったり雇用の安定を脅かしたりすることのない制度をつくることだった。」(『現代の経営』)

ところが問題を徹底的に検討しなかったために、今後マネジメントは例外なく労働組合や政府によって、企業に対してコストと制約をもたらすだけの年金制度を押し付けられるようになるに違いない、とドラッカーは言う。
この言葉、いまではなく、70年前に『現代の経営』の中で言われていたことだ。驚くばかりだ。

マネジメントに最も理解のある人たちでさえ、マネジメントがこれまでこうした責...

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