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特例子会社で働く勇気

『特例』と言う名の子会社

「あなたはたくさんの人を傷つけています。そんなきれいごとではなくて努力してください」

ある日私は、犯罪者になりました。

母が亡くなって1年が過ぎ、私は障がい特性を考慮して働ける職場として『特例子会社』という会社を選択しました。もう一般雇用には戻れない、あの時はそんな覚悟をしての、人生の中でもしかしたら一番勇気のいる決断だったかもしれません。でももしかしたらそこではそこの新しい出会いが待っている、私はそう信じて入社しました。

しかし、それは思いもよらないカタチで雪崩のように崩れました。

2020年7月。最後の職場と決めて入社した前職で、あまりにも過去にない言葉で何がなんだかわからず、状況がすぐ飲み込めませんでした。
でもおそらく会社だけの出来事なら『辛かった』で済んだと思います。他人から見たら確かに私の努力はどこにあるかわかりません。私の育った環境は…ま、ちょっと変わってたんですね。

今もそれほど大にして語れるわけではありませんから、確かに色んな意味で誇れるものなんてなかったです。

それでもそれまでの自分を変えたい努力は愚直にしていて、そんな『ちっぽけな人間の微力な努力』がどう映ったのかは想像でしかありません。事例さえも聴く勇気も持てなかっただけに辛い想いで帰宅の途につきました。
でも私があの日消えてしまいたくなったのは、これがあって生きる意味がわからなくなったことが内側で気づいてしまったからだったと思うんです。

私がこれまで大事だと信じて必死で守ってきた家族にとって、私は…違ったのかもしれません。

あの日の夜は夏なのに冷たい雨が降っていて、その時ずっと父の電話を無視したのは、私にできる精一杯の抵抗だったかもしれません。雨がどんどん冷たくなって強くなるのを、行く場所もなく過去に犯罪が起きたという雑木林の中にいました。

このまま消えれたら本当に楽なのに、とあの時は切に思いました。

苦悩に出した答え

後日、別の上役と話す機会がもらえました。当事者と名乗る女性社員も同席し、話しました。気づかないうちに気に障ることをしてしまったのならその人に謝罪を、という私の主旨の理解はしてくれました。でも「ほかの人の個人情報がある」「もしかしたらあったかもしれない」との事で結論は『丁寧に対応しすぎた』のだそうです。

不可解というか、さっぱりでした。

でも私の言葉に傷ついたと言う彼女を見て、事実が判らない以上は身が振れなくても『もしかしたらその気持ちにさせてしまった』想いにだったら、とせめて謝罪しましたが、その経験もまた、と今では思ってもその時は本当に辛いものです。

しかし同時に『無理解』の言動が続く不思議な出来事がありました。

『喉元すぎれば暑さ忘れる』

そう言う言葉をよく聴いて育ちました。と言うか、私もそう言う人間だから、と言う意味なんだといまは解釈しています。
してしまった部分があっただろう過去は拭えない。でも私はずっとされる側で、だからこそ少なからずされて嫌なだったことは他人にはしない心情でいました。
ここへ入社するときもそう言う人が大半、と思って心して入社しました。
でも、すれ違いだろう誤解は解くことも許されず、無視や遵守的言論、人間失格とも言わんばかりの言動が同じアルバイトに留まらず起きました。

平静は装いますが、ともすると害虫でも扱うような対応は子供の時の嫌な記憶に無断で侵入され掘り起こされる気分になりそうでした。

ある日とうとう気持ちに限界がきました。
先日同席した上役の上司の側で少しお時間を、と断って、私はそっと言いました。

「私はこの会社ではもう犯罪者なのでしょうか、私はいつまで犯罪者でいればいいのでしょうか?」

上司は驚いたように私を見ると別室へ連れていき話を続けました。

私は静かにされたことの事実を話しました。事例も「相手の個人情報があるから言えない」とされた、「かもね」と言う、事実がどこにあるかも判らない話を上司は続けました。

理不尽はもう過ぎていました。それでも上司は続けました。

「気のせいじゃなくて。きっとあなたの勘違いだよ。(この前のことは)だって、そうじゃないの?みんながそうだって言うんだからきっとそうなんだよ。そう思われたらそう言う人間なんだよ、違う。あなたは本来さ、話さないのが自分にとって合ってるんじゃないの?それがあなただと私は想うけど。無理して周囲にあんなに明るくしてたんじゃないの?」

一瞬くらっとして目の前でが砂で覆われた気分でした。いままでの私にとても喜んでくれた人、一緒にいて楽しいと言ってくれた人、明るいと褒めてくれた人の声がみんん嘘だったのか、と思わされた瞬間でした。

『そう言われたらあなたはそういう人間。そう思えば楽でしょう?それが企業で社会だから』
その上司の通説は最後まで変わりませんでした。

それからは退社するまで、今の私が本当なのか過去の私は偶像だったのか。辛いことも悲しいことも私はされてもいい人間だったから、殴られても、殺されても死んでもいい人間だったから起こった出来事だったのか。
そういった出来事を…この会社では見つめるいいきっかけだったのかも知れません。

「私は努力する方なので教えてもらえなくても改善に努めると思います。でももし私の頑張る方向と事実が違えば『あの人は結局わかってない人』となりませんか?私はそうなることを恐れています。あまり現状が続き会社も今の対応を続けるのなら身の振り方を考えます」

そのときも心が張り裂けそうな気持ちを押さえてなんとか静かに言いました。当事者や同じような人から見ればアンガーの問題だったかも知れませんが、絶望感の中で聞いて、震える声を抑えてやっとの想いで出てきた言葉でした。それでも上司は冷静を保ち、ある意味すごい方だなと今でも思います。私は言った言葉が現実にならない事だけ切に祈りながらも、どこかでは、すべてわかっていたのかも知れません。

ただ上司の指摘も何もこれだけではありませんでした。私の不足要素として『端的』、『要点』、『簡潔』を示しました。
確かに『理屈』、『理論』が強いかもしれないと後日、振り返るきっかけにもなり、少しだけ解決へ向かう事が出来ました。

ツライ出来事ではありましたが、乗り越えるためにできることを考える、それがこの時のできる最善の答えで、『今、できることをする』が私のそれからの合言葉になりました。

現実は理想通りとはいかない

私生活は母が不在になった分、朝5時に起きて仕事して帰ったらすぐ…やることをやったらもう20時までも身体は持たず、寝る。寝に帰るだけ毎日があの日が一変しました。
示しあわせたように無視や陰口は当たり前で、それは上司にも及んでいました。あとで分かったことですが私の言葉は単発では何の効力もない言葉でした。それこそ個人情報もあるのでこれ以上は控えますが、これは実際近くで見聞していた私の憶測です。

ただ私の見ていたのはその一面にすぎません。全体を見ていた会社の判断や方向性もわからないまま口にすることは憚られます。それでも上辺だけの判断が世情です。これは今、問題視されているSNS問題にも同じ事が言えると考えていました。そういった事もあり、私はその前も、そしてこの年月もSNS発信に悲観的でした。
正直、今も必要とされるかわからない記事を書いて何人の役に立つ情報かと思います。でも体験はその人の財産です。
そういう福祉の力を借りて特例子会社に就労を目指している人の一助になればという気持ちで書いています。

話しは戻しますと、言葉一つ挙げられた例も本来なら「いいがかり!」として誰もが返すであろう言葉を私はそうさせてしまった気持ちに対して頭を下げました。でも会社は「多分」とか「かも」とか曖昧な言葉で濁して人間性を否定して来続けました。
でも「多分あなたはこういう人間なんだ」と言われて心から納得する人は…少ないかな、と個人的には思います。
でも話していて、この話題が進展するとは到底思えませんでした。このままいけば私は分からず屋いい歳したワガママ女です。会社がそれを狙っていた、と言うなら…ある意味で恐ろしくも感じますが、それはないと信じても進まない方向に進むより可能性のある方向に進む方がいいと、ひとまず踏ん切りがつけれたんですね。
それが結果として私にとっては転機になりました。

いつも踏み出す勇気は自分の中にある

『適応障害の私に何ができる?』

サポートが欲しくて意を決して、一般職に戻れない覚悟で特例子会社の経歴をつけたのに、ここにきてまで…という事実が正直、悲しかったです。
でも現実は私の想像していなかった方向に行ってしまったことは拭えません。でも『障がい特性』を考慮され続けられなくては生きていけないのか?
そんな気持ちとは裏腹に上司に言われた不足の要素が頭の中を浮かんでは消えてを繰り返していました。
そう思いながら模索した結果たどり着いたのは今まで無視しまくった『ビジネスコミュニケーションスキル』でした。

最初は邪心しかなかったです。でも何かの縁も感じたんでしょう。何回も広告を見ては消して…。

『習い事は私にとっては贅沢品でしかない!』

根っからのさぼり魔の私には即決の自信はなかったです。
途中で放り投げたら…どぶに流れていくお金が目に浮かぶとなおさら(笑)
会社でそれでもダメ出しされたら勿体無い、とも思いました。でも生きていく世界は決して会社だけではありません。その会社だけでなく新たな縁もあればプライベートだって…と何処に使えるかを想像しました。
たとえこの会社が認めてくれなくても、私は会社のためだけに生きてない。私にもこの先を生きる人生とそこに関わる人がきっといる、信じよう。


そうして…深呼吸して、巡り合いだ!と藁をもすがる思いで無料相談のボタンを押したのを今でも覚えてます(笑)
最初のハードルって本当に高いですよね、その後が雑魚に感じて、良い習い事を見つけるたびに今、私は非常に危険な状態にあります。

結論、『伝える』ことに関しては会社の評価は無かったと思います。結局ダイレクトな会話に敏感すぎたりして、どこから会話が始まってるのかつかめいまま『伝わらない』という評価しかなかった、というのが実情です。もちろん全てを受容しろ、という話ではないので誤解のないよう前置きはしますが、福祉の位置付けとしてそう言った特性の考慮もまた特例子会社が特例子会社である位置付けのはずですが、「こんなにしてあげた」上司の行為や言動は逆を言えば黙っていただけで私にとっては傷つくものでしかなかった。経緯の中で言われた「ロボットの気持ちになって」と言われたようにやり続けることで抑えていただけに過ぎません。それでも前職は存在の否定だけを提示して『あげていた』のかもしれません。

でも個人的な成果を話せば、あのあとよかったな、と思えた結果もありましたし、まずまず1つ乗り越えられたのかな、という結果もありました。
もちろんその結果が良い記録のままでは残らない悲しい事件にも続きましたが、もう『そういうものだった』という解釈をして流すのもまた、これから生きる中でのスタンスにもなると振り返るところです。

さぼり魔の私をつき動かしたもの

そんなこんなで私の『コミュトレ』生活が始まりました。

「貯蓄してます。」
そう言っていた給与口座からこっそり支払って、私はこの上ないほら吹き娘に見事、変貌を遂げたのでありました。
そのことを知ってか知らずか父は今日も幸せそうに床についています。ただそれも束の間、これがこちら側のトラブル続きの幕開けにもなります。

まず誤解のないよう申しあげれば、講座的にはとても有意義でした。

web講座もしっかり作られていて、電車の中でも1動画は絶対終わるってくらいポイントとかで作られてて。もちろん教科書もあって…。

回せなかったのは私の段取力のなさと思わぬタイミングで姉の緊急入院してしまう事象にみまわれたと痛切するのであります。
なんやかんやで昨年は怒涛のようにあっという間に終わってしまいました。

そして同時にもう一つ始めたものがヨガででした。

姉ほどではなすが、もともと月経不順だった私は(汚い話で恐縮です!)そうとう辛い惨事になることの方が多い学生時代も過ごした。
大人になるにつれて多少、私は落ち着いたものの予想もしない段階でそのサイクルは噴火山の如くやって来る。
しかも朝は夜ほどではないが強い方ではないので6:00前に起きるのも辛いんですけど、朝から煩くない方のを教えてもらったんじゃなかったかな?
今も愛用してやっています。

当時は全て憶測でしか解決策を見出せないから可能性を潰す努力でかありませんでした。マスクとメガネで怖いのかもしれない、特にPMSの時期は尚更なのかもしれないと頑張ってコンタクトに変えたり、なるべくこれでもか!ってくらい辛い日も笑顔でいる努力をしました。

誤魔化していると思ってたけど、メンタルが表に出ちゃってたのかも。

『ロボット、ロボット…』
それでも難し時はノートに気持ちを殴り潰していました。
もうまさに『アンナチュナエル』の中堂さんがいつも心にいました。
クソが!って(笑)
そうやって取り組んだことで、気持ちと上手につきあう小さなきっかけもつかめました。本当に今ではどれも大事な思い出です。

この会社で勤続したいなら、崩れた土台を立て直さないといけないと、誤解されたままかも知れない。失った信用をやっぱり取り戻したかったです。
定着しちゃった誤解をやっぱり払拭したかったです。
今まで「優しいね」って言ってくださった方々の言葉を『嘘』にはしたくなかったと思いました。

それでどうにかなるかなんて分からなかったけど、その一心が私を努力に駆り立たのかもしれません。振り返った今だからあの時の気持ちに気づける、そう今は思えています。

やらなければ変わる事もできない

こうして私は5時起きから4時起きに変更した私の新生活は本当に地獄でした。しかし、それも『どこかの情報』によって改善に導かれます。

『お金持ちになる人は朝活をしているらしいと著書は言います』

悪魔が囁いたような気がしました。まさにニンジンぶら下げ方式です。やっぱり稼げるなら自分で大金稼ぎたいですからね。
実力あってやれや、って私の場合言われそうですがやはり人間、やり遂げるためのニンジンが必要でしょう!

こうして朝活の合言葉は『Okane』になりました。

今思うととんでもなく不純な理由です。Whyがずれています。
そして私はさらに情報を得る事になります。

『1行書くだけ日記で人生が変わる』?
なんて素敵なタイトルでしょう。こうして私の日記も始まりました。

日々の体調にあわせてその日の気持ちも書く、これはいい取り組みでした。ただ私の日記はこの後とてつもない言葉の羅列で埋める尽くされましたが、誰にも言えない愚痴は知らずと気持ちを和らぎました。

そうして気がつけば、あっという間に6カ月1年…とすぎました。
年が越すと前年のワークのセッションがきっかけで人間関係がラフになりました。『年下でも先輩』だった可愛い弟たちの相手がちょっとした楽しみになったんですね。
そして、最後には社員に昇格した男性社員が同い年と分かると勝手に『同志』と思って仕事もしてました。

そうなってくると朝活も習慣化も慣れてくるとそうでもなくなりました。
これもやらなければ気づけず、あの時『変えたい』と思わなければ過去の道を永遠に歩いていたと思います。

過去は懺悔だけにあらず

この辺りから仕事の意義を振り返るようになりました。今までどうして気づけなかったも同時に振り返るとができてよかったです。
確かに『特例子会社』の癖に!と憤慨することは簡単でした。もちろんしてもいい内容だったかもしれませんが、なんでも怒ればいいってもんでも人生ないでしょう、と自分でも思った節があったんですね。

それよりも今までは見返りをしてしまったんだ、だから後悔しか残らなかった。でも本当にするべきだったのは『振り返り』だった。
この時ようやく気づけたんですね。
だからもちろんダメだったところに注目することはないはずなんです。今日の自分、こんな事がイケてた!でもよかったはずなんです。それが自己肯定感にも繋がったと私はこの会社でこの経験の中で気づくことができました。


それでも心残りはジョブコーチのことでした。
上司をまたいでその上の上司であるジョブコーチに診断書を渡しに行けなかったこと。最後の部署に送り出してくれたとき、私はこのジョブコーチと約束しました。
「何かあったらすぐ相談に必ず行きます」と言った約束を私は破りました。
その時の上司の気持ちと私は天秤にかけてしまったんですね。その上司もはっきりと言うので表面上クールな方ですが…、本質は違うのではないかと少しずつ、感じるようになっていました。
この上司が言うように…うまくサイクルを回せていたら診断書ももらわずに済んだともおもいました。でも、当時の私は心身共に限界でした。

秋口から色々と…契約時間に正常でいられる状態ではすでにありませんでした。周囲に迷惑をかけたくなくて努めてしまったけれど、周囲に迷惑をかける前にほんの少し休みが欲しかった、ただそれだけの気持ちでした。病院からも診断書をもらって見たものの医師の診断は1カ月。しかもこんな年末に、と出せないで1週間手元おいて提出を悩みました。自分の平静さが折れたことがあり、このままでは、とありったけの勇気をふりしぼってふせんに『ごめんなさい』の気持ちを沢山書いて日報に託しその日は帰宅しました。
結果は「マナーがあるようでない人間」というフィードバックを受け、診断書の効力は大したこともなく終わりました。


でも、この上司のありがたいところは最後まで悩んだ私に踏ん切りをつけてくれたことでした。「みんなに迷惑をかけることを差し引いたらどの答えを選びたい?」との問いに自分の答えが出せたことは今でも正しかったと思っています。

「そう思わなきゃ…ね〜。」そういう人の声も聞こえそうですが、今までがそれで無理をして限界まで頑張った結果、長く休まないと身体が動けないほどに衰弱してしまうほどの身体でした。これが今回身体的診断を受けて合点がいったわけですが、あの時休むという選択を得ずもし今も働いたら私の精神は今どこにあったのかな、と悲しい気持ちになるたびに言いきかすのです。
そのほんの少し前、事情はあったでしょうが松葉杖で7年務めた方が退職を志願したことが思い出してみても、5年10年後を考えた時にその方が私の姿が重なったことにしても、高齢の父や病気の姉を抱えてみても慢心でしょうか。母がいなくなった今、誰が守るのか。そもそもここで諦めて何のためにこれまでの人生も投げ打ってきたのか。
家族を見放すことは簡単だったと思います。でもその後悔は計り知れないような気がしてずっと自分の将来を後回しにした20代でした。でも示された周囲のレッテルは『努力のない人』でした。


それも正しい見方の一つと今は受け止めていますが、当時は…。
だから今、とがんばって身体が動けなくなったり、思考がうまく働かなくなったら…。はたしてその時私まだこの会社にいれるのかな?
レッテル、陰口、仕事の妨害…ここの人たちは本当に私が必要?
でも母の代わりは、私…だけだよね?

あの人たちから見たら『なんの努力もない人生』だけど、私はこれまで何のために…生きていきたの?
もう嫌だ、終わりにしたい。全部消したい!

それがあの日の私の答えでした。

終わりの日

色々なことがありました。

『のらりくらり…』
『縁の下の力持ち』
『この子たちのお姉ちゃんに…』

そんな調子いいことも次第に考えていました2年間でした。だから上司に褒められようとそうでなかろうと途中からどうでも良くなりました。時々可愛がってくれたら調子よく甘えて、時々ひょうきん者私もまたここで活かされたキャラクターと与えていただいたことが私にとっては生きがいでした。

辛かったけど楽しかった会社でもありました。だから、最後は静かに辞めたくて、最後まで辞めることを誰にも言いませんでした。最後にサクッと「お世話になりました。」とだけ言って辞めました。

マイナスの事象ほどきっかけは思いがけずやってくるもんだ、と思います。でも人は渦中にいるとどうしてもそれに気づくのが難しいと痛感します。

うまく気づけたらきっと、どうやって乗り越えるかが方程式のようにスッとでてくるんだろうと思います。もしかしたら脳の化学的にトレーニングしていける要素でもあるのかなとも思うのです。それが何かは今は明確化はできませんが、世の中は無限ですからきっと色々な解決方法がたくさんあるんだと思います。

その時にそれが見えているか見えていないのかの差だけなのかもしれません。

振り返りとこれからを考える

今まではただ夢中で生きてきました。
でも『特例子会社』にご縁をいただいて、『多様性』に触れたこともまた、これからの方向性を考える時間がもらえたことも私にとっては利得であったと思います。

目標はとっても高い空の上にいつもある、それできっといいんだと見上げながら思うんです。でも、高いばっかりでは途方もなく登れないから、努力しやすい小さなステップがとても必要なんだと実感し、挑戦できた場所でした。

自分一人では誰も生きてはいけない。
でもまた、自分なく生きていける他人もきっといないはずです。
広い世界の一端を必ず人は担っているとも教えてくれた人が私にはいました。私はその人のお陰で人生という幕だけは自分から幕引きをせずに、辛いことにも前を向いて生きていけているのだと実感します。
誰しもが必ず誰かに必要とされるはずです。そしてそう思ってもらえるためにも自分の利点をよく理解しどうしたら誰かのためになれるかを日々の中に自分に聴いて確かめることがとても大事なことだと気づきました。そんな人たちの善いかけ算がきっとこれからの未来を良い方向に繋ぐと想うとワクワクが止まりません。
世の中は『持ちつ持たれず』『逆も然り』そんなもんだという気付かせてもらった想いもともに大事にして、いつもクリアな気持ちでこれまでの人もこれからの人も想い続けられる私になりたい、そしてつらくなたらちゃんと息をつくことを忘れないで1日を1分を1秒を明るい未来を描いて生きていけるこれからにしたいと思えました。

わたしにとっての特例子会社

私にとって『特例子会社』とは自分を試すことのできる挑戦のステージだったのかもしれません。さらに次のステップに行くための挑戦の、きっと架け橋だったと想い続けたいです。
確かに最後は身体障害の判明で辞める決意に至りました。さまざな要因も錯綜する中に全て手放したからこそ、この答えにたどり着けたと思います。

本来なされるものはたくさんあったのかもしれません。
事実が曖昧にされ続け、拭えない疑問や根本的な相互解決に至れない状況や様々なレッテルが貼られ続けたことは私にとって口や鼻を塞がれた想いでした。それでも自分なりに拾い集めた言葉から想像し、改善の努力は重ねたのは自分にとって今までになかったグッドポイントだったとも思います。
その後も悲しい出来事は重なりますが…、今は「それはそれでよかったんだ」とも思っています。それがあっては私のここまでの気づきも成長も、なかったと今は強く思うからです。
この場所でなければ得られないものはいっぱいある、私にそう実感してくれる場所になったことは今では変えがたい事実です。

なので特例子会社がいいか悪いかは一概にはわかりません。全ては個人差だと思います。たとえ紆余曲折したとしても善い方向に繋ぐことも気持ち一つ、はどこの職場も一緒だったとも気づかされました。それに一般職より考慮される部分もたしかにあるなと私は感じています。
事実、前職の上司も失敗したスタッフに責めるのではなく「次の対策」を促している場面も見かけましたし、私にも言い方は悪いですが「使えるものは使え(男を)」と自分の労力をマイナスにしていくことを助言をしてくれました。
問題はそれらの全てをどう捉えるか、またその時の受け止めるだけの心のスペースも問題もあったかも知れません。

「1ヶ月休職させて復帰した人はいないから1週間やるから答えを決めるように」とたしかに上司は言いました。もし会社が許してくれるのなら私は頑張ったと思います。でも、悪い連鎖の繰り返しを思えばそれは無責任でもあるし、たとえ頑張ってもその結果を考えると今回はこの結果でよかったと今は安堵しています。

でも最後に一言だけ言うならば当事者を支えるのは企業でも上司でもなく、
家族だな、と我が家の有り様を思って感じます。
家族に障がい者を持つというのは本人だけでなく家族にとっても辛いことと、私も痛切に感じます。
でもどちらも経験する私が言うとするならば、「してあげられないから」と今、辛い本人に冷たい解釈を言うのではなく家族だからこそ、その子の全てを知っているからこそ、まずは全てをしっかり聴くこととその上での所見や見解が本当に大事と気づきました。

これは大人の一人でもある私にも言えることですが、『欠けている部分』に無理解だと自分の子供なら尚更、嘆きや虚しさがあると思います。でも適応障がいは遺伝性という理解してあげるのが親としても辛いと思いますが、最初の優しさと自分がその子供時代を過ごして振り返るのです。

どこかのご先祖の中に、それはもしかしたらあなた側のかも知れない人からそのDNAが流れた可能性もあるのです。それはその子が悪い訳でも、あなたが悪い訳でも、またその人が悪い訳でもない。ただ背負ったその子の運命とその子の中に隠された個性なんだ、ということに気づいて理解してあげることから親子いっしょにスタートしていけることなんだと思います。
親御さんとしてもいきなり我が子の宣告を受けると、様々な葛藤もある人もいると思います。我が家がそうでした。
あのときはただ親を責めるだけの子供でした。でも今は計り知れない両親の気持ちも想像できます。
でもどうか一番はその子がもっと苦しいと感じて、その子の拙いかも知れない言葉を一つひとつ、拾って差し上げて欲しいのです。

その子にとって、学校や会社の問題なんて本当にちっぽけと私は思います。
一番は本当に安心できる親御さんの元で腹を割って話せる場所があるかどうかと、しっかりと話を聴き理解して、そして精一杯の見解を伝えてくれる親御さんの想いがいつどこまでその子の心の支えになると、私は我が家の有様を見て振り返るのです。

私は別のところで支えてくれる存在があったから前を向けました。
でもこの特例子会社は一見いいようで、辞めたらほとんどの確率で一般職に戻れない可能性も秘めていること、まだまだ福祉社会には程遠い日本において年齢や経歴の多さによってはただ辞めてしまうのと、そうでないのとでは雲泥の差があると私は実感します。

なぜこんな話を切り出したのかというと先日、友人の子供も『認定』を受けました。まだ幼い子供ですので「今わかってよかったのよ」と友人に言いました。専門家がついたことで市松不安だった胸の支えも取れたと少し、安心して話してくれたことで私も少し、安堵しました。
その理由は早ければ早いほど周囲の理解が早いからに他なりません。でも判るのも本当に確率の問題でもあります。
それだけ見えないところに病気を抱えることは当事者にとっては理解してもらえない辛さも掛け合わせた辛さがあります。だから『どうせダメ』などとどうかお子さんなら尚更、否定しないで欲しいのです。

親御さん自身が何もできなくてもいいではないですか、私はそう思います。
未来を切り開くのはあくまでも本人です。
でもしっかり聴いてあげることと、どこまでも気持ちを砕いてあげることは両親や家族にしかできないこと、とこれまでの経験を通して私は痛烈に感じました。

世の中には様々な理由で今を苦しんでいる人たちがたくさんいると思います。本当に障がいに限られることではないです。無情に苦しむ人がたくさん居て、それを見聞きして辛くなる人も多いはずです。
ただ人ができることは限られています。

でも、またその限られた中にできることも個々にあると前をみて感じました。どうか明るい方向に未来が変わるように、友人の子供も含め、どのような人にもそんな未来が訪れるよう小さな取り組みの一つひとつでもいい。
それが誰の目にも止まらないことでも、まあ、いいじゃないか。

一端が担える人になれる私を、やっぱり目指したいかな、が答えでした。

たとえ彼らに「口だけの人間」と言われ続けられても、愚直でもまっすぐ正しい人生をやっぱり歩きたいとそれでも思います。
苦しい悲しいだけの人生にそれでも頑張った幼い頃の私のためにも、今までを精一杯、生き抜いてくれたことに心から『感謝』したいと私は思います。

私にとって特例子会社はそういう企業様でした。

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