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「キャンセルカルチャー」という言葉を殺そう

在職時代は忙しかったのと、手が回らなかったこともあり、Twitterを最近見るようになった。

うつ病で寝っ転がりながら見るのに適しているのだ。適度に人と話ができて、好きな話題を追えて、壁に向かって独り言も言える。

現代の歪みが海底火山のように吹き荒れている。
「不祥事」「フェミ」「弱者男性」「搾取」「中ぬき」「汚水」「コロナ」「五輪」…

正直にいってしまうと、僕は「完全なノンポリ」なので、どれも深い興味はない。みんな楽しく幸せに生きられれば良いよね、ご飯が美味しいのは幸せ。その位、ノンポリ。

だが「小山田圭吾」と「林賢太郎」が過去の不祥事によって、五輪のポジションを解任された時「叩けば埃のでない人間はいない。これから日本はドンドン足の引っ張り合いになるだろう」という主張を目にした時、この記事を書かなければいけないな。と思った。

まず最初に思ったことは「小山田圭吾」と「林賢太郎」が辞任・解任というのは、結果こそ同じだが経緯も、その理由も真逆であるということだ、何故それを「キャンセルカルチャー」という括りで語るのか、全くわからない。

0.最大の問題
長くなりそうなので、結論から言ってしまおう。
叩けば埃が出る。とはいえ、許される埃と許されない埃がある。
そして、本来、責任を取るべきである組織の中の任命責任者と擁護する説明責任者が不在で、クリエイターのみ足切りされた事が1番の問題である。

少額ながら税金を払って、五輪に協力していた身からすると「もっと適した人がいるのでは?」というのが率直な感想だ。

また「小山田圭吾」にしても「林賢太郎」にしても、世間が言っているのは「五輪の日本代表に相応しくない」という一点である。

別に彼らの芸能活動を自粛。とか解散しろ。みたいな追い詰め方をしている人はいないと思う。

更にいうと、彼らには既にファンがいる。
ファンは、彼らを粛々と支えてあげればいいと思う。

五輪という大舞台で得られるものは名誉と地位と金だ
国民は、彼らにそれが相応しくないと憤った。
だが、「小山田圭吾」「小林賢太郎」の作品は、ファンにとってはかけがえのない宝物に違いないと思う。
彼らが食えなさそうな時、どれだけ可能な範囲で応援できるか。

それがクリエイターとファンを結ぶ唯一の線であり、それ以外では交わらない点と点なのだ。

僕の好きな北野武さんの言葉で「お客さんが求めなくなったら、俺は自然とTVから消えて廃業する」「(フライデーに殴り込んだ時)道路工事でもして、軍団くわせていかなきゃいけねぇな、付き合わせて悪いな、みんな」といった言葉があった気がする。

表舞台に立つエンターテイナーとしての姿勢、人を守る優しさを端的に表した素晴らしい言葉だと僕は思う。

僕の理想を言うのであれば、「何も実績もないが野心や希望のある人間にチャンスとして与えられるポジションでも良かったのではないか」と思う。

シンデレラストーリーがあっても良かったのではないか、と。

じゃあ、この対象者は誰なんだ。と言う所だが、僕を含めて、そんな人間はゴロゴロ居る。

ここまで実績や利権ありきで話が進んでいるのが悲しく、それであればダイヤの原石を探す努力があっても良かった気がする。

この記事のトップを「限りなく透明に近いブルー」受賞時の龍さんにしたのは、こういった個人的な思いからだ。

1.「小山田圭吾」について
正直、俺は彼の音楽を知らない。
Youtubeでコーネリアスの曲も聞いたが、僕には響かなかった。まぁ、これはバイアスもあると思う。

この話題が出た時「作家の人間性と作品は別。叩かれて埃が出ない人はいない。過去の事は切り離して考えるべき」という意見が多く出た。

率直にいうと、俺は、この意見に対して、激しい怒りを覚えた。

擁護派の主張はわからなくも無い。
だがあのイジメ記事を読んで「ヤンチャ」「昔の事」というのは、おかしい。

俺は、割と普通の人からズレているが、やはり「暴力」や「不快感」を他人に押し付けられる奴はおかしい。普通はそんなことはしない

この記事を読んで、真っ先に思ったのは「こいつは五輪の解任ではなく民事か刑事で裁かれるべきだ」という思いだった。

彼を本当に擁護したい人がいるなら「小山田さんが語ったイジメ、実は大したことないんです。今からファンの僕らがそれを証明するためにイジメられる側を実演します」という動画でもあげてみなさい。

一字一句、全部、再現して、それでも大丈夫。ヤンチャの範囲内です。小山田さん応援してます!って動画あげれるもんなら、あげてみてくださいよ。

「彼が過去に何をしたか」から、目を背けるな。
そして「小山田圭吾」は既にこの件で界隈から叩かれている。
要するに「ここまでデカいポジションであれば、組織が何とかしてくれるだろ」という風にナメていたのだ。

彼は、本来であれば辞退すべき所を、名誉と金の為に引き受けただけなのだ。

これが「ロック」なのか?
ここまで上手く立ち回る「サラリーマン」を、俺は中々見かけない。

2.「小林賢太郎」について
実は僕はラーメンズについても知らない。
該当のコントも切り抜きを見たが、切り抜きは切り抜きだ。
コント全体の意図を汲む事はできない。

ただ「ホロコースト」という単語は、本当にしくじったなぁ…という感想が真っ先に出た。

彼に関して言えば、五輪開会式主任として任命された理由は何なのか?という風に考えてしまった。
ただ正直、それを言うのは野暮だと思っている。
組織には、いろんな理由や都合があり、「小林賢太郎」さんが「五輪の開会式主任」で、どう腕を奮うか。も、僕らがどう感じるか自由なのと同じように自由なはずだ。

強いて言うなら「解任」までのルートが不透明すぎるのと早すぎる辺りが異常だった。

なんにせよ、五輪組織委員は「説明責任」を果たすべきだ

「小林賢太郎」さんに関しては、過去のことも自覚されていたようで、やはり「五輪」を引き受けるべきではなかった。という一語に尽きると思う。

個人的には、後から国際メディア等に暴かれなくて良かったと思っている。
五輪を終えた後に、ホロコーストの件の説明を求められても、辞任できない以上、責任のとりようがない。極限まで追い詰められていたと思う。

「小林賢太郎」さんは、さぞかし傷ついていると思う。どうか仲間達と再起していただければ。と僕は思う。

3.最後に…
僕がこの記事を書こうと思ったのは、まるで性質の違う物が「キャンセルカルチャーを流行らせてはならない」という意思のもと、ゴッチャにされていた事だ。

全てケースバイケースであると思う。
僕は、たけしの「FRIDAY襲撃」には好意的だ。エッセイに書いてあった事を信じている。

「俺の事は撮っても良いが、お姉ちゃんは迷惑がかかるから写すな」と言ったのに掲載されたから、芸歴が終わっても良いから許せねぇと殴り込んだとの事だったらしい。

だが、これも許されない事であり、あくまで僕の主観が許しているだけなのだ。
別に、この記事も、僕の主観でしかなく、正しさの証明はどこにもない。

1つ最後に書くとすれば、「作品と作家は別」と仰っている方には、永山則夫の「無知の涙」というエッセイを読んでほしい。

永山則夫は、4人の無関係な人を殺し、死刑によって死んだ作家だ。

その生い立ちや労働環境などは、現在の日本の派遣労働などの状況にも少し似ているかもしれない。

彼は、貧しい生まれで育ち、過酷な労働と閉ざされた未来に擦れて、拳銃で無関係の人間を4人殺した。

彼は、刑務所の中で、勉強をして、自らの行いを悔い、自身の死刑に対しても恐怖を感じ続けた。

そして、それを作品にしたのだ。
その内容は素晴らしく、助命嘆願などもあったらしいが、彼は絞首刑によって、その生涯を終えた。

その彼が後悔と懺悔、自身の全てをエッセイとして書いたのが「無知の涙」だ。
彼は、更生しても尚、許される事はなかった。
罪は罪であり、罰は罰なのだ。

そして思う。
きっと永山則夫は、死刑がなくなったとしても、後悔と懺悔をなくせないだろうと。
そして永山則夫は亡くなったが、彼の作品は、まだ生き続けている。

作者が死んでも、作品の精神や情念は生き続ける。
作家の人間性と作品は別だ。というのは、こういう事なんじゃないか。と僕は思う。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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