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人生論 - 感想・引用

著者プロフィール: トルストイ
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(露: Лев Николаевич Толстой [ˈlʲef nʲɪkɐˈla(j)ɪvʲɪtɕ tɐlˈstoj] ( 音声ファイル), ラテン文字表記:Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828年9月9日〔ユリウス暦8月28日〕 - 1910年11月20日〔ユリウス暦11月7日〕)は、帝政ロシアの小説家、思想家。
フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。他の同姓の人物と区別して「大トルストイ」と呼ぶこともあるが、単にトルストイと表記した場合でも、レフ・トルストイを指すことが多い。

レフ・トルストイ - Wikipedia

今回の記事は、人間いかに生きるべきかという問いに対してトルストイが公文の末、導き出した答えが書かれている本です。

この記事では、本の要約をするのではなく、輪読会を行うにあたり、私が読んだ感想や本からの学び、一部引用を紹介するものです。輪読会用のメモなので、一般的な記事のようにきちんと整理されているわけではないのでご了承ください。

感想

  • 読んでいると想定を裏切る展開が次々に待っていて興味深い。

    • 愛に関する論議など。

  • 言葉の定義が難しい。

    • 個我、理性、幸福、愛など。

  • キリスト教的世界観に影響を受けているという印象。

    • 幸福になるために、皆が他人のためにするという状況であることが必要。

  • 死生観って何かみんな似てくるなと思った。

    • 自分が死んでも、つながっているみたいなところ。

    • ただ、これって理性を通して自分が死んでも恐るるに足りないとしていることで、恐怖を克服しているのではないのかなと思った。

  • どうして理性主義を押し出すのか、その根本にあった思想は何になるのかなと思った。

    • 神の観念をどうして否定しているのか?

    • 偽りの宗教と呼ばれるキリスト教に対する思想?

  • 愛の話が出てきた時に、愛するということが出てくるかと思ったが、これは思想が違った。

    • 愛の感情は、その恐怖を消滅させてくれるだけでなく、他者の幸福のために自己の肉体的生存をも捧げるという最後の犠牲にまで人をみちびくのである。

    • ただ、この本における愛の定義が微妙。

引用

キリストの説いた隣人愛の教えがトルストイの思想の根底にすえられているのだが、しかし、かれの人生観はどこまでも現世的で、理性によってすべてをわりきろうとしているから、キリスト教の神の観念のかわりに、人間の集団意識、人類の意識といったようなものを正面におしだして、それに究極の救いを見いだそうとしているわけである。

未来の生命を信ずることができるのは、生命の仕事をなしとげて、もはや自己のうちにはおさまりきらぬ、世界に対する新しい関係をこの人生で確立した人間だけなのである。

後世への最大遺物と主張が似ている気がした。理性を通して世界とつながるみたいなところが。しかし、これは死への恐怖から救われるという点で違う。

人間にとって選択は二つしかない。すなわち、自分の味わう苦しみと生命との関係を認めないで、自分の苦しみの大部分を、何の意味も持たぬ拷問としてにないつづけるか、あるいは、自分の迷いとその結果なされる行為──つまり、たとえどんなものにせよ、自分の罪とが、いかなる苦しみにせよ、自分のあらゆる苦しみの原因であることを認めて、自分の苦しみが、たとえどんな人にせよ、他の人々と自分との罪からの救いと償いにほかならぬことを認めるか、である。

そこに説かれている思想は、せんじつめれば、愛の一語につきる。つまり、人間は、肉体と肉体にやどる動物的な意識を理性に従属させること、いいかえれば、自我を否定して愛に生きることによって、同胞あいはむ生存競争の悲劇から救われるばかりか、死の恐怖からも救われる、なぜなら、そのとき、個人の生命は全体の生命のうちにとけこんで、永遠の生命をうけるからである。キリストの説いた隣人愛の教えがトルストイの思想の根底にすえられているのだが、しかし、かれの人生観はどこまでも現世的で、理性によってすべてをわりきろうとしているから、キリスト教の神の観念のかわりに、人間の集団意識、人類の意識といったようなものを正面におしだして、それに究極の救いを見いだそうとしているわけである

「動物的個我は、自己の幸福の目的を達成するのに用いる手段である。人間にとって動物的個我とは、働くのに用いる道具である。」

動物的個我とは、生まれてから死ぬまでの「生存の生き方」の意味だが、これはこの一生の肉体は、永遠の生命により幸福の目的を達成するための手段であり、道具であるとトルストイは言っているのだと自分は理解した。そう考えると、他の人から小さな快楽を奪い合ったり、苦しみを押し付けあったりする生き方にのみ固執するのは、単なる道具に固執しているだけであって、全く真の幸福追求に無関係の生き方のように思えてくる。

意識によって自他を明確に区別することによって個我が生成し、私以外の個我(他者)にも幸福への志向があると判断することによって、「生命」が成立するのです。

個我というものは理性によって構成されたひとつの概念(というより幻想)であり、それは空間的な区別においてだけでなく、時間的な区別においても同様です。

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