【エッセイ】私、芸術・評論④「私と映画」
「これが映画か!」
私が初めて映画の面白さに気づいたのは18歳の春。大学へ進学するのを待っていたころである。
深夜にテレビをつけると、たまたまコッポラ監督の映画『ゴッド・ファーザー』を放送するところだった。
ワルツのメロディ、真っ黒の画面、白抜きのタイトル、男の声。ほどなくして、その声の主の顔がアップで映り、ゆっくりと引きの画面になっていく。そして、ドンの背中としゃがれた声が登場する。
影が濃い室内と対比的な屋外での明るく賑やかな婚礼。
説明台詞なしで端的に示されるコルレオーネ一家とそれを取り巻く人々の関係性。
冒頭の一連のシークエンスは私をすっかり魅了した。
「これが映画か!」
3時間もかかる映画だが、私は興奮して一気に観た。
『ゴッド・ファーザー』の素晴らしさ
特に中盤、レストランでマイケルが敵を暗殺するシーンは最高に痺れた。
何が素晴らしいと言って、やはり音の演出である。給仕がボトルとグラスを席に運び、コルクを抜き、ワインが注がれる。マイケルにとって外国語であるイタリア語での会話…音楽の代わりにこれらの「音」が緊張を高める。
そして、やおら鉄道が高架を渡る轟音が鳴り響いた直後、銃弾が放たれる。マイケルが足早に店を出るところで、ようやく高らかに音楽が流れる。
なんと鮮やかなこと!
これを原初体験として、何本か名作映画と呼ばれるものを観た。たしかに「名作」と呼ばれるだけあり面白いのだが、『ゴッド・ファーザー』以上の興奮はなく、自然と映画から遠ざかることになってしまった。やっぱりクラシック音楽の方がいいな、と。
ライムスター宇多丸の映画評
私が映画と「再会」するのは、ライムスター宇多丸のラジオでの映画評によってであった。いつどの回をなぜ聞いたのかといった詳細はまったく覚えていない。だが、その映画評の面白さから新作映画を観ようという気持ちになったことは覚えている。今でも氏の映画評は私にとってひとつの「基準」である。
彼の批評が注目されたのはいわゆる「辛口」だったからか、「最近は大人しくなってつまらない」ということを言う人がいる。それは極めて表面的な些事を指摘しているにすぎない。変化したのは対象や語り口であって、「批評」という立場は一貫している。そこに気づかず「辛口」を喜んでいるのは、なんとレベルの低い楽しみ方か。
「批評」とは何か
しばしば誤解されるが「批評」とは批判や否定のことではない。
音楽にしてもそうだが、何かを本質的に理解するとき、そこには「批評」が必ずある。言い換えれば、対象から得た抽象的な感覚を、言語により具体化する作業を通して初めて理解することができる。この理解のことを「批評」と呼ぶのだ。
この理解なくして音楽や映画を楽しむことはできないとまでは言わないが、面白さの幅がそれまでとは比べようもないくらいに広がるはずである。
「泣ける」「笑える」で済ませてしまうのはもったいない!
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