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【エッセイ】私、芸術・評論③「私とオペラ」

②はこちら。

「高ニ病」の発症

 私が初めてオペラを生で観たのは16歳の頃。ペーター・コンヴィチュニー演出による『アイーダ』である。

 この頃の私は周囲の人間(大人も含めて)があまりにも軽薄で愚鈍に見えて、必要最低限の関わりしか持たなかった。休み時間は耳にイヤホンを差し込み、音楽関係の本を読み耽っていた。クレンペラーの音楽とクラスメイトの顔を比較しては、悦に入っていた。
 典型的な「高二病」である。

K教授との「出会い」

 そのときに愛読していたのが、後に大学でお世話になるK教授の音楽評論だった。
 読者を挑発するように露悪的な表現を用い、端的に対象のキモを提示してみせる腕の鮮やかさ。感情的に書いているように見えて、その背景にはきちんとした論理や根拠がある知性。そして、業界や演奏家とは距離を取る態度から、クラシック音楽そのものを心底愛しているゆえの覚悟と情熱を感じた。

 「芸術は爆発だ」の言葉が有名な岡本太郎が書いたエッセイに似ていると思った。彼もまた挑発的な態度や刺激の強い言葉が独り歩きしていると思う。こういう大人になりたいと思っていた。

コンヴィチュニー演出の『アイーダ』

 そんなK教授が非常に高く評価していたのが、演出家ペーター・コンヴィチュニーであった。ちょうど彼の演出する『アイーダ』をオーチャードホールでやるという。お年玉貯金を崩し、奮発して一番高い席を購入した。

 まず驚いたのは「スペクタクルに満ちたグランド・オペラ」というイメージの『アイーダ』がシンプルな舞台の室内劇になっていたことだ。合唱団は登場せず舞台裏で歌っている。バレエもない。そうして上演されて初めて、この作品が持つ本質に気づいた。

 ラダメスは一時の感情に突き動かされる人物で、まるで子供のように無邪気である。およそ英雄らしくはない。ランフィスに言われるがまま戦争に参加し、ボロボロに傷ついて帰ってくる。華々しい凱旋の音楽をバックに、憔悴しきったラダメスとアイーダが抱き合うシーンにはハッとさせられた。
 そうか、勝者の裏にはそれ以上の犠牲者がいるのか、祝宴の酒よりも多くの血が流れたのか。それに気づかないことがいかに野蛮か

舞台と現実がつながった瞬間

 ラストではラダメスへの無慈悲な死刑宣告に怒りを爆発させたアムネリスが、剣を振り回して部屋の壁を破壊する。すると、背後にはおそらくリアルタイムであろう東京の夜景が映し出されていた。この瞬間、舞台上の物語と現実のこの世界の壁が文字通り消失したのだ。
 たしかに、このように理不尽で残酷な出来事は世の中にいくらでもある。そこから目を逸らして架空の世界に逃避している自分が責められているような気がした

 会場から外へ出ると、渋谷の街はまるで違う景色のように見えた。今まで軽蔑していたこの世界が、急にかけがえのない愛おしいもののように感じた

 それから私は国内外でオペラをたくさん観てきたが、このときほど強い衝撃を受けたことはなかった。


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