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【小説】君の名は②

 「すみません…私ばかり喋り過ぎました。あなたはこちらへ何をしに?仕事ですか?」
 「いえ、完全にプライベートな旅行です。美術館や教会を見て回ったり、クラシックのコンサートを聴いたり」
 「どこが一番良かったですか?」
 「そうですね、王宮はやはり立派だし、美術館のコレクションも素晴らしいし、他にも小さいけど良い教会や美術館がたくさんあります。どれかひとつとなると、市庁舎から城壁跡の門へ向かう途中に小さい教会があって、そこですかね。あまり目立たない外見だから通り過ぎそうになるんですが、中に入るとバロック様式の豪華な装飾が素晴らしくて、圧倒されますよ」
 「へぇ…なんていう名前の教会なんですか?」
 「ええと、たしかAとSが付いて、ミヒャエルとかペーターとか、そういうのではなくて、あまり聞き慣れないような名前だったはずです」
 「ふーん、なのに忘れるんですね?」
 「しょうがないでしょ、忘れちゃったんだから」
 「そうだ!これからそこに連れて行ってください。どうせ暇なんですよね?」
 この女、自信なさげな態度をとるくせに、他人に対しては容赦無いというか、図々しいところがある。
 「あ、行ったばかりですよね?ごめんなさい」
 「そういうことじゃ…まあ、何度行っても良いところですから」
 「ほんとに?良かった!じゃあ早く行きましょう!」


 「すごく豪華でキラキラしていて、でも重厚で…教会って神聖な場所でしょ?だからこんなこと言うのは不謹慎かもしれないけど、興奮しました。とにかく、すごかったです!」
 彼女とアザム教会(そういう名前だった)へ行った後、ビアホールでグラスを片手に彼女は語った。
 この街のビールは有名でたしかに美味しいのだが、私はあまり気が進まなかった。なぜなら、ビアホールという場所はお世辞にも上品とは言えない人々とミーハーな観光客で常にごった返しているからだ。店員のガラも良くないし、何よりお喋りをするには騒がしすぎる。それでも彼女はおかまいなしに、目をキラキラさせて喋り続けていた。半分くらいは何を言っているのかわからなかったが、屈託のない笑顔である。


 それから彼女とはオペラに行った。その日はセカンドキャストによるレパートリー上演だからか、当日でも席は容易に取れた。有名な指揮者や歌手が出たり、新しい演出のプレミエともなれば、発売即完売ということも珍しくない。
 劇場の前の広場の大きさ、ホワイエの装飾の煌びやかさ、有料のクローク、客席で人が前を通るときに立ち上がるマナー。そういった物事に彼女は一々驚いたり、感心したりしていた。
 オペラの内容はまったく平凡で私は退屈してしまったが、彼女は素直に喜んでいたようだ。
 普段なら絶対にやらないが、幕間にゼクトを開けた。これもまた至って平凡なものだが、彼女はシャンパンだと言って喜んでいた。シャンパンの定義について講釈を垂れ、彼女の発言を訂正するのは野暮なことである。今の彼女にとってはこの安いラインガウのスパークリングが、シャンパーニュの特級と同じくらいに高貴なものに違いないのだ。それはもう「シャンパン」でいいじゃないか。


 「私、なんでピアノを弾いていたのか、ようやくわかりました」
 「?」
 「貴方と出会うためです」
 「そういうことは、もっと素敵な人のためにとっておきなさいよ」
  ベッドの中でそう囁いた君の名前を、私はまだ知らない。君もまた、私の名前を知らない。私は君の芸術の肥やしとなればいいし、君もそれを望んでいるだろう。


 しばらくして、私は彼女の名前を新聞で知った。私は彼女の満面の笑みが載った新聞を抱えて、アドリア海に沈んだ。だから、この話も海の藻屑となり、泡となり、やがて消えていくのだろう。
 


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