【小説】君の名は①
"Where are you from?"
"Japan."
"Really!?"
観光シーズンはとうに過ぎたミュンヘンの人も疎らなホテルのラウンジで遅い朝食を摂っていると、その女は話しかけてきた。
「ここ、空いてます?」
「他にも席はありますけど?」
「ええと、ちょっとお話がしたくて…」
「私と、ですか?」
「はい、ダメですか?」
「いえ、まあどうせ暇ですし」
「ありがとうございます」
見たところ若くてきれいな女性である。ただでさえ冴えない見た目に加え、無精髭を生やした男に話しかけるなどどう考えても怪しい。
「私、いま留学中で、ちょっとホームシックというか、日本語で会話をしたいと思っていたんです。それで、失礼とは思いましたが、話しかけてしまいました」
「そうですか」
彼女は半年前からこの街にある音楽大学でピアノを勉強しているのだそうだ。なんでも東京の音楽大学を主席で卒業して、教授の推薦で留学したんだとか。普通の大学の経済学部で特に勉強に力を入れるわけでもなく、なんとなくゼミやサークルやアルバイトをして過ごした私には想像もつかない世界だ。
「でも、こっちでは全然で。言葉も上手く話せないし、もともと引っ込み思案な方だし、美人でもないし。ピアノさえできればなんとかなると思っていたのに、それも、なんというか…」
「通用しなかった?」
「はい」
素性も知らない初対面の人間に対して、ここまで喋る人間が果たして引っ込み思案なのか甚だ疑問ではあるが、彼女は神妙な面持ちで語る。
「先生からも『なんであなたはピアノを弾いているんですか?それがあなたの演奏からは分かりません』と言われてしまって…」
「それはひどいですね」
「いえ、実際その通りなんです。私も薄々は感じていたんです。なんで私はピアノを弾いているんだろう…親に言われたから?たしかに始めはそうでしたが、練習して上手く弾ければ楽しいし、先生に褒められれば嬉しいし、みんなの前で披露して拍手を貰えるのは気分が良いです。だから、間違いなくピアノを弾くのは私の意思です」
「それじゃダメなんですか?」
「それじゃダメなんです!」
彼女は私の言葉に食い気味で答えた。
「それじゃダメなんです…プロとしては」
なるほど、楽しいだけでは食っていけないのだろう。
「じゃあプロは無理として、どうするんです?一般企業に就職するんですか?」
「音大を卒業して、留学までして、でも上手くいかなかったから就活します、なんて人間をどこが雇ってくれますか?」
「うーん、わからないけど、探せばあるんじゃないですか?」
「そんな無責任なこと言わないでください!」
「…」
朝食の時間が終わり、料理のプレートやコーヒーのポットが片付けられ始めた。
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