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失われた未来へのノスタルジー(攻殻SAC2045が取りこぼしたもの)

まずは認識を共有しましょう。サイバーパンクはもはやノスタルジーの対象である。

サイバーパンクが描いた未来の新しい点は、成長曲線がもたらす幻想からの逸脱を行ったところにある。サイバーパンクは、右肩上がりのグラフが必ずしも幸福な結果をもたらさないという新たな認識とともに始まった。
いずれにせよ、あのころの「未来」は、右上がりのグラフの先にあった。それが望ましい変化であれそうでなかれ、右上がりへの信頼の上に「未来」は成り立っていた。

しかしいまやそうした成長は飽和してしまった。事実はともかく、感覚としてはそうだ。いつまでも同じ見晴らしが続く踊り場の倦怠。その倦怠の中で未来を描くには、ふたつの方法しかない。それでも右上がりの成長を信じる/仮構するか、あるいは本当に右上がりの成長が存在する場所を時空間上のどこかに見つけ出すか。前者が「現実のような虚構を描く」のに対し、後者は「虚構のような現実を描く」。現在日本やアメリカの作家が苦悶の中で描いている多くのSFは前者であり、中国や「第三世界」から発せられるSFは後者であるかもしれない。

今の状況を見れば、前者の後者に対する苦戦は明らかである。一般に、つまらない虚構よりはつまらない現実のほうがマシであるし、面白い虚構もまた面白い現実に劣後するかもしれない。いま、虚構の未来を描くのであればある種の覚悟が必要となる。

さきほど「右上がりの成長を時空間上のどこかに見出す」例として中国・第三世界SFを挙げたが、違った方法もある。それは「あの頃思い描いていた未来」というノスタルジーとの融合である

最近流行している音楽にSynthwaveというジャンルがある。

80年代のSF映画やゲームのサウンドトラックに強い影響を受けたジャンルで、シンセサイザーやドラムマシンのサウンドが当時持っていた「未来的な」響きを現代において再現することを目指す。そこに見られるのは80年代に描かれていた「未来」への倒錯したノスタルジーである。2020年に生きる我々は、空飛ぶ車もロボ警官も電脳化もまだ当分の間実現しないことを知ってしまっている。想像していたよりもずっと未来は現実的だね。そしてもし仮にそうした技術が実用化される日が来ても、それは我々の夢見た形では実現しないであろうこともまた、我々は知っている。

すでに失われてしまった「未来だったかもしれないもの」。それを私は〈逆さまの未来〉と呼ぼう。それは単なる過去や未来ではなく、過去においてはあり得たかもしれない未来の姿を、現在に投影するものである。我々が逆さまの未来に触れるとき、単なる未来とは異なりそこに現在との直線的関係は存在しない。たとえば2050年までに二酸化炭素排出量を何割削減する、という宣言は未来に対する宣言である。したがって現在のうちから火力発電所を閉鎖するとか、ライフスタイルを改めるとか、直線で結ばれた未来に向かって然るべき道を歩もうとすることになる。それに対して、逆さまの未来のために人が何かを行うということはない。それは過去と同じくすでに終わってしまった未来なのであるから。

とはいえ、我々と逆さまの未来との関係は、単に過去に対して向けられるノスタルジーとも異なる。それは、逆さまの未来を単なる未来として描くことができた時代と人々に対するノスタルジー、そして産まれることのなかった時代に対する喪の感情である。もしかしたらあり得たかもしれない未来。2045年を待つことなく終わってしまった2045年。我々はそれを弔う。その弔いは甘美であるがゆえに人々を引きつける。

『攻殻機動隊 SAC_2045』は――、完全にこの視点を取りこぼしている。たしかに以前のシリーズで描かれていたのは紛れもない未来であっただろう。それはその時々の現在と関係を結び、現実を変容させる力さえ持っていただろう。しかしその未来の賞味期限は2020年までは及ばなかった。2020年の現在、その未来はすでに逆さまになってしまっている。しかし、その反転に制作陣は気づいていないように思われる。

たとえば音楽。本作における劇伴音楽はSynthwaveでも菅野よう子の無国籍的な旋律でもなく――良質ではあるものの――いかにも劇伴的なサウンドトラックである。たとえばハッキングシーン。6話では「ハッキングされた」描写でディスプレイ全体に赤いランダムな文字列が溢れるのだが、その描写は10年以上前から法律で禁止され極刑が課されるということになっている。私がそう決めた。そのおざなりな描写に、「現実のような虚構を描く」という覚悟は感じられない。CGは評価が難しい。ゲームや映画のようなフィクショナルな画面こそがリアリティを持つという転倒が起こってから久しいが、輪郭線を強調したコミック的なルックは既存のどの作品とも似ていない(強いて挙げるとすればBorderlandsシリーズか)。それゆえにリアリティともノスタルジーとも無縁である。そのことは半面では幸福である。フォトリアルなCGでこの作品が作られていたとしたらそれは惨劇であろうから。

ではどうすればよかったのか――。ここで私は『VA-11 Hall-A』というゲームの話をしたいのだが、それはまた機会があれば。


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