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全ての社会は不平等であり続ける(ジンメル『社会学』を読む)

 社会における不平等・格差の問題は、社会というものが存在する限り永遠に無くなることはない。この書き出しはいったいどれほど常識的だろうか。今日でも多くの人が格差を解消しようと現実に努力をしているのは誰もが知っていることだ。そうした行いを否定するつもりはない。格差を縮小するためには間違いなく役に立っている。本稿で否定したいのは、思想家たちが口々に主張する「このような社会を作れば不平等が解消する」という思い込みである

 100年前にゲオルク・ジンメルという社会学者がいた。彼はウェーバー・デュルケーム・ジンメルとして社会学における三大巨人とみなされながらも、どこか他の二者に比べて選択科目的な扱いを受けることが多い(その理由については稿を改めて論じる)。そのため今でも未発掘な、とりわけ社会学の哲学的な側面に光を当てるような論考も数多い。以下では、ジンメル『社会学』における「社会はいかにして可能であるのかの問題についての補説」の読解を試みる。この補説は、「いかに社会秩序が成立しうるのか」といういわゆるホッブズ問題についての最初期の取り組みとしても評価が可能であるが、管見の限り日本語圏ではそうした紹介の仕方はされていないようである(英語圏・独語圏にはいくつか存在することを確認した)。
 この補説は、次の一文によって始まる。

 カントは、いかにして自然は可能であるかという彼の哲学の根本的な問いをたんに提起するのみで、ただちにそれに回答することができた。なぜなら彼にとっては、自然とは自然の表象に他ならなかったからである。(『社会学 上』 : 37)

 ここからジンメルは、カントのように「いかにして社会は可能であるか」と問うていく。その際に真っ先に考慮しなければならないのは自然と社会との違いである。もっとも決定的な差異は、カントにおける自然は観察する主観において成立するのに対し、社会は自然と異なり意識的な人々の心のうちで直接に実現されているという点にある。社会は観察者を必要としない。
 したがって「社会はいかにして可能であるのか」という問題の答えは、「諸要素(諸個人)の中にアプリオリに備わっている条件によって」ということになる。以下ではそのアプリオリがどのようなものであるのかを見ていく。

第1アプリオリ――カテゴリー認識のアプリオリ

 一、人間が他者について個人的な接触から得た形象は、あるずれによって条件付けられている。このずれは不完全な経験、不十分な視力、共感もしくは反感に満ちた先入見からの単純な錯覚ではなく、むしろ現実の客体の性質の原理的な変更である。 (『社会学 上』: 43)

 われわれは他者を「ありのまま」に把握することはできない。われわれが他者を見るとき、そこにはなんらかのカテゴリーが働いている(男性、学生、まじめ、等)。しかし他方で既存のカテゴリーに完全に当てはめて把握するわけでもなく、そこからの「ずれ」によって他者の個性を把握する(まじめそうだったけど案外そうでもないな)。
 このカテゴリー認識というアプリオリは下方へさらに一段進行する。

われわれはすべて断片である。たんに一般的な人間の断片であるのみではなく、またわれわれ自身の断片でもある。〔…〕われわれはけっして純粋でも完全でもないものであるが、しかし上の断片的なものを補うのは、このあるものに向けられた他者のまなざしである。このまなざしは〔…〕この断片的なものから彼の完全な個性をつくりあげる。生の実際にうながされて、われわれは人間について経験的に知っている現実の破片からのみ彼の形象を形成する。(『社会学 上』 : 44-5)

 われわれはある人を人間一般の類型によって認識するだけでなく、その人の断片から得た類型によっても認識している。「この行動はこの人らしくないな」と思わされることはしばしばある。しかし、まさに本人がやっている行動にらしいもらしくないもあるものだろうか? ジンメルによれば、ある、ということになる。というよりも、まさにそうしたまなざしこそが、断片ではない唯一の個性というものを成立させているのである。
 このアプリオリは、社会の内部で諸個人によって繰り広げられる相互作用の前提として作用している。

人びとはあたかもヴェールをつうじてのように、この〔彼も自分と同じ圏の成員であるという〕想定をつうじて互いに認めあう。もちろんこのヴェールは、人格の特性をただ覆い隠すのではなく、かえってそれに新しい形式を与える。というのも人格のまったく個人的・現実的な恒常的要素は、上の先天性条件と一緒になって統一的な構成に融合しているからである。我々は他者をたんに個人として見るのではなく、同僚あるいは仲間、もしくは党派の同士として、要するに同じ独特の世界の共住者として見る。(『社会学 上』: 45)

 ここでは同一圏内の仲間が例に上がっているが、このことは他の圏に所属する者同士の関係にもあてはまる。「ある市民がある士官と知り合いになったばあい、彼はこの個人が士官であるということから、どうしても自由になれない」(『社会学 上』: 45)。
 ジンメルのこのアプリオリは、他者とのコミュニケーションがなぜ成立するかという難問(?)に対しても光を当てていると思う。「真の他者」なるものが存在するとすればそれはまったく理解不能であるか、あるいは理解可能とか不能とかすら言うことのできないなにものかであろうが、さいわい我々はヴェールを通してのみ他者を把握している。そしてそのヴェールはたんに覆い隠すだけのものではなく、まさに他者とのコミュニケーションという新しい形式を成立させているものなのである。

第2アプリオリ――社会外存在のアプリオリ

 ニ、主体はいまひとつのカテゴリーのもとで自分自身を認め、また互いに認めあい、これによって彼らはこのように形成されて、経験的な社会を生ぜしめることができるが、そのカテゴリーは、集団のそれぞれの要素は単に社会部分であるにとどまらず、そのうえになお何者かであるという、陳腐ともみえる命題で定式化される、(『社会学 上』: 46)

むしろ個人がある側面では社会の要素でないということが、彼が彼の本質の他の側面では社会の要素であることの積極的な条件となる。〔…〕たとえば異邦人、敵、犯罪者、さらには貧者の場合のように、ある類型の人々の生存が社会にとっては意義を持つにもかかわらず、彼らが社会からまさしくともかくも排除され、ある類型の社会学的な意義は、そのことによってその核心と本質さえも確定されている。(『社会学 上』: 46-7)

 社会の内側における個人のありようは、社会の外側によって規定され影響されている。むしろ社会の外側があることによって、社会の内側がなんであるかが決定されるのである。
 このことは一見自明であるように思われるが、パーソンズからルーマンに代表されるジンメル以後の社会理論は必ずしもこの見方を採らなかった。むしろ、「全体社会」なるものを架構/仮構することによって理論の妥当する範囲を限りなく押し広げつつ、その根源的正当性を保証させた。この社会外的なありようを積極的に認めるジンメルの立場は、その後の社会理論とどのように整合/矛盾するのだろうか。

 ここで私は従来「全体社会」という名で呼び表されてきたものについて、「社会の全体」と「全体の社会」という区別を導入したい。「社会の全体」は複数の下位/部分社会の総和から成る上位/全体社会という考えを示す。高級な社会理論は、究極的にはこの「社会の全体」について説明することを目指す。他方「全体の社会」は社会の否定形、すなわち社会-外的なものをさらに否定するという、二重の否定によって導かれる「すべてが社会である」という考えを示す。この概念から出発し「社会の全体」について語ることのできる(はずの)社会理論は、限定なしの「全体」について語ることが可能であるという、しばしば「社会学帝国主義」と揶揄されるような考えが生まれる。
 ジンメルはここまでで「全体の社会」については否定しているが、「社会の全体」についてはなにも語っていない。「社会の全体」について語られるのは第3アプリオリにおいてである。
 話を本文に戻そう。

むしろ〔いかなる瞬間にもわれわれは人間に対する関係によって取り囲まれているという〕社会的な包括そのものは、完全にはそれによって包括されない本質にこそかかわりをもつ。われわれは官吏について、彼が単に官吏のみではないことを知っており、商人については彼が単に商人のみではないことを、士官については彼がたんに士官のみでないことを知っている。そしてこの社会外的な存在、彼の気質や運命の痕跡、彼の関心や人格の価値は、たとえそれぞれの官吏や商人や軍人らしい職業上の活動の主要事をほとんど変えないにしても、やはり彼と向かい合うそれぞれの者にとって、彼にそのつど一定の色調を与え、彼の社会的な形象を社会外的な不可測性と混ぜ合わせる。(『社会学 上』: 47)

 第1アプリオリにおいて引用した「ある市民がある士官と知り合いになったばあい、彼はこの個人が士官であるということから、どうしても自由になれない」(『社会学 上』: 45)と好対照をなす部分である。我々は士官を士官として見てしまうが、それは彼のイメージが完全に士官によって覆われてしまうことを意味するわけではない。
 若干唐突に出てくる印象の「不可測性」は最新の社会学にも応用が可能な観点であると私は思う。軍人がたいていのばあい軍人らしく振る舞ってくれる可測性によってわれわれの社会は成り立っているが、社会外的な部分において彼は軍人らしくある必要はなく、そこに不可測性がある。パーソンズであればこの可測的なもののみを社会学の対象とするかもしれないが、ジンメルは可測性と不可測性の混じり合いにこそ興味を持つ。

社会の外側は、まったくの個人的なものと、まったくの非個人的なものとの両極端がある。前者は愛情あるいは友情において、後者は貨幣経済的に規定された現代文化においてみることができる。「社会的な個人は、この両極端のあいだを移動する」(『社会学 上』: 48)。

そしてこれは、〔…〕無関係に並存する二つの立場ではない。むしろこの両者は、われわれが社会的な存在者と名付ける統一体を、総合的なカテゴリーを形成する。〔…〕――このことが経験的な社会の先天的条件であり、われわれの知っている社会の形式を可能にする。(『社会学 上』: 52)

 その両極端が統一されることによって社会が可能になる。ジンメルが好んで用いる、あるものとその対立物の総合によって新たな事態が可能になるという論法がここにおいても見られる。

第3アプリオリ――調和のアプリオリ

 三、社会は不平等な諸要素からなる構成体である。それというのも民主主義的あるいは社会主義的な意図が「平等」を企て、あるいは部分的にそれを達成しているばあいでさえ、つねに問題となるのは、たんに人格と業績と地位の等価値のみであり、これにたいして素質と生の内容と運命よりみた人間の平等は、まったく問題となりえないからである。そして他方においては東洋の大きな専制政治におけるように、奴隷化された住民がたんに大衆を形成するばあいにも、各人の各人とのこの平等はつねに現存のたんに一定の側面のみに、たとえば政治的あるいは経済的といった側面のみにかかわり、けっしてその全体にはかかわりをもたない。この全体のもたらした固有性、個人的な関係、生きぬいてきた運命は、たんに生の内面のみでなく他の人々の相互関係から見ても、不可避的にある種の唯一性と代替不可能性とを持つであろう。(『社会学 上』: 52)

 一見して難解である。最後の一文はそれ以前とは別のことがらを述べているように思われるがどうだろうか。それを無視して読むならば、これは個々のシステムが、そのシステムに適合的な形でしか環境を利用できないということを述べているように思われる。ここでは「平等」の例が挙げられているが、異なる例を挙げるとすれば「経済が「正しさ」を志向した場合、それはあくまで経済的な「正しさ」=利益でしかなく、そこにたとえばエコロジー的な「正しさ」を評価に加えることはできず、結果として経済的に正しい環境破壊が引き起こされる」といったあたりだろうか。
 そして最後の一文は、ジンメルが愛用している論理「個性的なのは内容ではなく形式である」を補助線とすれば理解が容易になる。すなわち、生の内容自体はありふれた生存のための衝動や関心であるが、それが相互作用という形式によって形作られることによってはじめて個性――唯一性と代替不可能性を持つようになる、それこそが社会のアプリオリである、という意味である。
 次も相変わらず難解だが、すぐ後の部分で官僚制を例として想定していることがわかる

 社会が純粋に客観的な図式として表象されるばあい、それは空間、時間、概念、価値にしたがって順次に関連しあった内容と業績との秩序として示される。そしてそのかぎりにおいて、そのばあい人格性と、その運動を担う自我形式とは度外視することができる。ところが諸要素のかの不平等が、この秩序の内部でのそれぞれの業績あるいは性質を個人的に特色づけられたもの、諸要素の地位にはっきり固定されたものとして登場させるばあい、社会は一つの宇宙としてあらわれ、なるほど存在と運動からするその多様性は見渡しきれないが、しかしその中においてそれぞれの点は、全体の構造が変えられないばあい、たんに上の一定の仕方において調達され発展することができるにすぎない。(『社会学 上』: 53)

社会一般のこのように解された形象は、ちょうど細密画のばあいのように無限に単純化されいわば様式化された類似を官僚制に見いだす。官僚制そのものは「位置」の一定の秩序、予め定められた職務の秩序から成り立ち、これはそのときどきの位置の担い手からは解き放され、観念的な関連を生じる。その内部ではそれぞれの新任者が一義的に規定された職位を見いだし、この職位はいわば彼を待っていたのであり、彼のエネルギーはこの職位に調和しなければならない。ここでは職務内容が意識的、体系的に確定されているが、社会の全体においてこの確定のはたらきをするものは、いうまでもなく職能の解きがたい相互の混淆であり、社会における地位は、構成的な意志によって与えられるのではなく、諸個人の実際の創造と体験によって初めて把握することができる。(『社会学 上』: 53)

 ここでジンメルが示そうとしている「調和」はふつう「構成的な意志」によって与えられるような種類のもの、すなわち宗教的なものではないか。じっさいこの後の部分で「召命」についても述べている。
 ここでジンメルは文字通り「社会の全体」について語っているのであるが、すでに否定した「全体の社会」にも踏み込みかねない危うさがあるように見える。「一つの宇宙としてあらわれ」る社会、それはもはや限定なしの全体ではないか。
 そうではないと思う。ここでジンメルが宇宙との類比を通して言おうとしているのは彼と「社会の全体」における彼の地位との秩序ある「調和」についてであると思う。その調和は「諸個人の実際の創造と体験によって初めて」いわば現象学的に把握されるしかないものである。

社会の生命は――心理学的にではなく現象学的に、純粋に社会的な内容そのものに注目すれば――あたかもそれぞれの要素がこの全体の中でその地位をあらかじめ規定されていたかのように経過する。社会の生命は、理想的な要請からの不調和にもかかわらず、あたかもそのすべての成員が統一的な関係のなかにあり、そしてこの関係は、まさにそれらの成員のそれぞれが独特であるために、そのそれぞれを他のすべての成員に依存させ、そして他のすべてをこの成員に依存させるかのように経過する。(『社会学 上』: 53-4)

 ここで書かれていること自体の理解は(現在となっては)さほど難しくない。たとえばグローバリゼーションがそれである。現在の「先進国」と「発展途上国」、あるいは「資本家」と「労働者」との関係に代表されるような世界のありようはまったく「正しく」はない。しかし両者は相互に深く依存しあっているために、あたかも「先進国」は「先進国」であるべく生まれたかのように振る舞ってしまう。むろんその「理想的な要請」とか「正しさ」というものが何であるかと明確に示すのは容易ではないのだが。

アプリオリについての総括

 さて、ここから先天的条件も明らかとなり、いまやそれについて語るべきであろう。そしてこの先天的条件は個人にとっては、社会に所属することの基礎と「可能性」とを意味する。それぞれの個人は彼の性質によっておのずと一定の場所を、彼の社会的な環境の中に指定されている。すなわち観念的にこの個人に帰属するこの場所は、現実にもまた社会的な全体の中に存在している。――このことは個人が彼の社会的な生活を営むための前提であり、そしてこれが人間を個性の一般的価値として示すことができる。(『社会学 上』: 54)

 社会的な全体とその中における位置という指標が存在するために、ほんらい唯一絶対的で比較不可能な個性を一般的な(相対的な)ものとして指し示すことが可能になる。

個人の社会的な生存のこの先天的条件、すなわち彼の個人的な存在と彼を取り巻く圏との徹底的な相関、全体の生命のために彼の内奥の個人的な生によって規定された彼の特殊性の統合的な必然性――この先天的条件を個人が実現もせず、あるいは実現されているのを認めないとすれば、そのかぎりにおいて個人はまさに社会をなしておらず 、また社会は、その概念が言いあらわしている隙間のない相互作用でもない。(『社会学 上』: 55)

 ここでジンメルは無数の個人たちによる隙間のない相互作用としての社会、そこからこぼれ落ちる個人の存在可能性について逆説的に語っているように私には読める。このアプリオリを持たない個人というものはすなわち「独我論」的な「個人」(とも呼べないかもしれないそれ)である。

まとめ

 以上、ジンメルのよって立つ前提と、そこから導かれる結果を解説した。社会が社会である以上、たとえユートピアであろうとそこには不平等が存在せざるを得ない。したがって、不平等の解消を目指す数多の社会理論は誤っていると言わざるをえない。他方で、不平等の解消はできなくても不平等の低減は可能である。その前提に立つことこそ、真に社会の問題に向き合う態度と言えるのではないか。

参考文献
Simmel Georg, 1908 "Soziologie"(=居安正訳,1994『社会学(上巻)』白水社)=『社会学 上』

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