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【オリンピック開閉会式】"解釈押し付け実況"と"解任劇"に見る「過剰なポリコレ意識」

この文章では、東京2020オリンピックの開会式・閉会式の中の、実況解説の過剰な説明と、佐々木宏氏・小林賢太郎氏の責任者解任劇について書きます。
その二つの事例が、どちらもポリコレへの過剰な配慮によって生まれていると主張します。

みんなが期待した開閉会式にならなかった。その理由は、ポリコレが握っているのでは。
開催の是非や、スポーツの価値については述べません。

実況の「解釈押し付け感」

開会式・閉会式ともに、NHKのエースアナウンサーによる実況解説を伴って進んでいきましたね。
例えば開会式の選手団の入場では、実況解説が各国の情報をコンパクトに伝えることで、有意義な時間になっていたと思います。

しかし、大会のコンセプトを伝えるパフォーマンスの部分さえも、過剰な実況で埋め尽されてしまったことが残念です。
演出自体が雄弁に物語っていたのに、視聴者に解釈の自由を与えてくれなかった。一義的にメッセージを押し付けられ、自然に受け取ることができなかったと感じました。

もちろん過去の開会式・閉会式でも、実況はついていました。
でもそれは、海外開催の開閉会式の翻訳機能を果たしていた。自国開催で自国語ベースの作品だった今回、やはり過剰だったと思います。

テレビを通してしか見られない今回だからこそ、届け方を吟味して欲しかったです。

押し付け実況を生んだ、ポリコレへの過剰な配慮

では何故、押し付け的な実況が生まれてしまったのか、推察してみます。

厳しい感染状況の中で、なおも開催されることになった今回のオリンピック。「これ以上批判されたくない」という思いは痛いほど伝わってきましたよね。

「開会式・閉会式が退屈だった」という批判には完全に同意ですが、誰からも批判されないレベルのポリティカル・コレクトネス(政治的公正)を目指しながらの作品作りは、至難だったに違いありません。

その延長線上に、押し付け感のある実況台本が生まれたのでしょう。視聴者の解釈を信用できないから、解釈を規定するしかない。
SNS環境と、日々高まるポリコレ意識は、世界中に向けて作品を作ることの難易度を、決定的に上げています。

ポリコレが生んだ佐々木宏氏の退任劇

次々と責任者が退任したことも、ポリコレの過剰配慮と、無関係ではありません。

まずは佐々木宏氏の辞任を考えてみましょう。
渡辺直美さんの容姿を侮辱する演出案をチーム内LINEに送ったことが、週刊文春にスクープされて辞任となりました。
その演出案は、スクープされる前にチーム内で即座に却下されています。(もしかして誰かが仕組んだんだろうか?と勘繰りたくもなります)

冷静に事実を並べたとき、佐々木宏氏の行為は、「打ち合わせで侮辱的な演出案を出した」というものです。
もちろん謝罪して改めるべき問題ですが、果たして開催直前に辞任させることが適当だったのでしょうか。

安心安全の場でこそ、自由な発想が生まれ、それを整えていく中でこそ、良い作品が生まれるのではないでしょうか。
柔軟な発想をするために、敢えてポリコレ意識を弱めて案を出す。もしこれが辞任レベルの間違いだとしたら、これからのクリエイティブは、両手を縛った状態での戦いになりませんか?

本番の超直前に起きた小林賢太郎氏の解任

小林賢太郎氏の解任についても検討してみます。

1998年発売のDVDに収録されたコント作品で、一部ホロコーストをネタにしていたことが、ユダヤ人人権団体から批判され、解任に至りました。

もちろんホロコーストを笑いに使うのは不適切です。
しかし、ネタのごく一部で言及されたのみで、20年以上前の作品。本人の作風はそこから大きくアップデートされています。

小林賢太郎氏の解任時のコメントを引用します。

思うように人を笑わせられない時期に、浅はかに人の気を惹こうとしました。良くないことと思い、人を傷つけない笑いを目指すようになっていきました。

17年1月以降、ラーメンズの映像販売中の全17公演をYouTubeで配信し、動画の収益を災害復興支援のため寄付し続けているそうです。
間違いから反省し、実際に改めた人を、後から罰した。この罰は一体なんのためにあるんでしょうか?

組織委員会は、ユダヤ人人権団体に真摯に説明して、クリエイターを守ってあげられなかったのでしょうか。
私たちは、日本が誇るコメディアンを、どうして守ってあげられなかったのでしょうか。

ポリコレの徹底は、作品の魅力とトレードオフになる

私はポリコレを軽んじるつもりはありません。いじめを肯定した過去のインタビューが問題になった小山田圭吾氏については、解任が妥当だと思っています。
しかし、佐々木宏氏と小林賢太郎氏についてはどうでしょう?ひとつひとつ切り離して検討すべきです。

ポリコレを突き詰めることが、作られる作品の魅力とトレードオフになりうることを、認識した上で解任するべきです。
そして解任を支持することが、作品の魅力低下に繋がることを、誰もが認識すべきだと言いたい。

つまらない開会式・閉会式は、その意味では、みんなで作り上げたものだと言えます。過去の開閉会式と比べて、大変質の低い作品だったと感じています。
我々はポリコレを選んで、作品の魅力を捨てたのです。

現代日本でアートは可能か?

今回の開会式・閉会式に限った問題ではありません。

私は、作品が何を表現しているかを、受け手に委ねる割合が大きいのが、アートの特徴だと理解しています。
元々、日本はアートが理解されない国だと指摘されてきました。
開会式・閉会式のプログラムを、全て実況解説してしまったこの国で、今後アートは可能なのでしょうか。

エンターテイメントの分野すら、TwitterやTikTokの影響もあって、短く・分かりやすく・刺激的であり、かつポリコレ的に許されることが、生き残りの条件になっています。

世界に日本の作品を誇れる開会式・閉会式を期待していたのに、裏切られたと感じた皆さん。
「作り手を励ませるような受け手」でありたいと、僕は思っています。
あなたはどうですか。


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そして、端くれとはいえ、自分は作り手でもあると思っています。
難しいことは分かりつつ、諦めずに作っていきたい。

今仲間たちと作っている作品は、オリパラが閉幕した9月に、炎を成層圏に打ち上げる「Earth Light Project」です。

炎を世界共通の宇宙に掲げたかったのは、日本しか周らない聖火を補いたかったから。
オリパラと共通の「願いを込めた炎」を、世界の皆さんにyoutube生配信で届けます!

お察しの通り、突然強引に宣伝をぶち込みました笑
記事をここまで読んでいただいたみなさんに、ひとりの受け手として、優しく見守ってもらえたら幸いです笑



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