時は無い 過ぎず 想いは巡る
"この踊りの意味が口で言えたら、踊る意味がなくなるでしょう"
"もしこれが(詩以外の)言葉で伝えられる種類のメッセージなら、踊る意味はないかもしれないけど、これはそういう種類のメッセージではない。むしろ言葉に翻訳したのではどうしてもウソになってしまう。"
これまで見てきた日本の各地で熊楠や常一の旅と研究
周防大島へ行き、熊野中辺路を歩き、二人がどんな旅をしたんだろうと歩いてみた
美の浄土や法門のような宗悦の民藝に対する想いも旅で触れてきた
明治の近代化から起きる廃仏毀釈の様な霊性の破壊とイデオロギー批判、小さな営みの小さな習わしや風習に見る大切さ
それを忘れないようにという想いの共感
これまでにベイトソンやレヴィストロースの不思議な研究達にも夢中になった
面白い、しかし何故これを追求したんだろう、という関心は強く残った
しかし好奇心だけではない動機や初期衝動や使命みたいなモノはわからなくて難解だった
「いま、地球で破壊されているのは「環境」だけではない。ほんとうは「意味」が壊されている。意味が撤退し、そのぶん「自己」がしゃしゃり出た。」
「ものごとを知るには、それらを最小の単位に分けていきなさい」
何もかもをAかBかに、そのBをまたCかDかに分けていくというロジカルな思考法の二者択一型というロジック
二分法によって、精神と物質とが分離され、「自己」と「他者」とが分裂することになった。そのことによって、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と確信した
自然を資源と呼んだり 更地を空き地と呼び、埋まっていないといけないという算術的な価値の見方は、近現代社会の特徴
科学の知、技術、貨幣経済がすべての価値観を量分に見る。質と量は対立してしまった
自己とは、自立を演じ、それを褒められながら自賛の気持ちを過度に膨らませることをノーマルで健康的なことだという理屈だ
心とは何か 意識である どこにあるのか
脳にある 脳は何をしているのか 情報を処理している それは何が統括しているのか 意識である
意識とは何か 心である 情報を処理している精神であるどこにあるのか 心にも体にもある 体とは何か
心や意識がないと 体は感じられない
心と体は別なんだろうか
デカルトのパラダイムでは見えないモノがある
分けられないモノがある
感じられないモノがある
生と死を生物学的に分けて見れば、時間は直線的で始まりと終わりだけ
輪廻のような円環的な時間は完全否定される
能のワキとシテのように繋がっていているような感覚もきっとそう
ベイトソンとレヴィストロースがみた部族の風習や祭りで見た野生の思考とは、日本の各地の風土に根付き今もまた残る祭りや風習と似ていた
何もかも説明出来ない事に向き合う事が共通している事
そういうモノが前から好きだった
デカルトに頷き、自己の強さを求めた時も30代を振り返ればあった
負けられない 特に仕事でだと思う
それでも失敗して負けて折れる
夢と希望を見るのも難しい時もあった
やり抜くべき事を選び、残りはやめる
選んだ事と辞めた事への後悔がないことを大切にする
もし後悔があったとしても通るべき道だったのであり、そこから新たに学んで高めていく事 取捨選択は生き方そのもの
この一ヶ月少しばかり、この本を読み終えたのは自分にとって良いタイミング
人生の務めを見つけること
そして遊びを見つけること
時は無い過ぎず想いは巡る
“The Reenchantment of the World”
#人生股旅
#デカルトからベイトソンへ
読み終えて千夜千冊をいつのもの様に開いたこの何日か後に松岡正剛は逝ってしまった
言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!