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無題

 苦労人とはどのような人のことを指すのだろうか。
 ネットを参照して言えば、「【苦労人】今までに多くの苦労をしてきて、世事・人情に通じている人」のことらしい。
 その定義にどれくらい当てはまっているか分からないが、概ね、自分は苦労人なのではないかと思う。

 二十年前、私は東京で生まれた。そして、私が小学一年生の時に母の故郷である熊本に移り住んだ。理由は、父親がサラリーマンを辞め、母の父(つまり私の祖父)の元で自営業の飲食店をするから、ということだった。しかし、この自営業が鳴かず飛ばずで上手くいかない。
 そのため、決して家は裕福ではなかったので、母親も家計を助けるためにパートで働いていた。しかし、どの仕事も続かない。原因は母が必ずと言っていいほど人間関係で問題を起こすことだった。これは私が成長したのちに分かることだけれど、私の母は感情の起伏が激しく、ヒステリックで、また、人と健全に対等な関係を築くことが難しい。仕事を辞める度に、母は「職場の〇〇さんがおかしな人で」とか「××さんが自分の悪口を言っていて」などと言うので、私は幼いながらに、まあそんなこともあるのかなと思っていた。
 しばらくして、父親は母方の祖父の元から独立して自分の店を始めた。しかし、客の入りは良くなく、店は繁盛しなかった。
 その頃、父と母の言い合いが始まった。
 小学校高学年ごろの修学旅行の前夜だったと思う。次の日の旅行にワクワクしながら眠りについた私は、夜中に父親の怒号で目が覚めた。父と母が何を言っていたか詳しくは覚えていないが、「もう離婚してやる」などと叫んでいた。怒っている父が障子を殴って穴が空いた。そのまま父は家を出ていって、母が追いかけるように家を出ていった。なにがなんだかよく分からず、私と弟はただただ怯えるしかなかった。
 このようなことが度々起こるようになった。それに比例するようにして、段々と父の帰りが遅くなった。あの時の障子の穴は、ずっと空いたままだった。
 最初は両親が離れ離れになることが不安だった私も、それが続くにつれて、もう早く離婚してしまえばいいのに、と思うようになった。家の中で親が怒鳴り合いをしているのを見るのは、もううんざりだった。
 私が中学生にあがったくらいのある時、父が交通事故を起こした。お酒が入った状態で車を運転して、電柱に突っ込んだのだ。その頃、父は自分の店で客と付き合いでお酒を飲んで、そのまま夜中に車で帰ってくるという生活をしていたようで(その時点で私の父親の人としてのだらしなさが分かるだろう)、そんな矢先に起きた事故だった。車は大破したものの父含め負傷者がいなかったのが不幸中の幸いだったが、飲酒運転により、父の免許は剥奪された。車がなければ生活できない田舎で父が店から家に帰ってくることができない、ということで、父は自宅を離れて別で自分の家を借りる事になった。そこから、事実上の別居状態が始まった。正直、父は長い間、ヒステリックで一度怒り出すと手がつけられない母から離れたがっていて、別居が決まった時、父は心なしかホッとしているように見えた。私もやっと繰り返されていた夫婦喧嘩が終わるんだ、とホッとした。

 しかし、本当に辛いのは、ここからだった。
 父が家からいなくなった同時期くらいに、母親と仲が良いとある家族と二世帯形式の家に移り住んだ(これを読んでいる人には訳が分からないと思う。私にも分からない。精神的に上手く大人になれなかった大人が親になり、家庭を持つとこのような不可解なことが度々起こる)。その家族は私より少し年上の二人兄弟がいた。その家族の中のお父さんが、私の母の面倒を何かと見てやっていた。母の頼み事を事あるごとにやってあげていた。私の塾の迎えも、なぜか、母ではなく、その人が迎えに来た。
 でも、私は知っていた。
 いつもはその人のことを「田中パパ(仮名)」と呼ぶ母が、子供がいないところでは「さとるくん(仮名)」と下の名前で呼ぶことを。私はずっと知っていた。何年も前からその人と母が不倫関係にあったことも。知っていても、言えなくて、黙っていた。だけど、母は「いつも田中パパにはお世話になっているんだから感謝しなさい」と口癖のように言っていた。私は、なんで母親の不倫相手に感謝しないといけないのだろう、とずっと思っていた。私は何も頼んでいないのに。自分を迎えによく知らないおじさんが来て、車に乗せてもらって、「ありがとうございます」と言わないといけないのも、本当はずっと嫌だった。
 父がいなくなったことで、これまで父親に向けられていた母の寂しさと悲しさと怒りと憎悪とが入り混じった感情は、子どもたちにぶつけられるようになった。父親が金をくれない、あんたたちに金がかかる、子どもの世話を自分だけがしないといけない…一度母親がそう言い始めると、どんどんエスカレートしていく。終いには、「あんたたちがいなければ」となる。言われた方は身動きが取れない。母の罵倒の多くは自分のせいではないことだったし、自分ではどうにもできないことだったから。ただのサンドバックだった。
 当たり前だが、人間は人間で、サンドバックではないので、打たれっぱなしになることはできない。大体母の言うことは全て感情任せの攻撃でしかなかった。「家事ばかりしないといけない。私は家政婦ではない。」と母はよく言っていたが、母は家事なんてほとんどしていなかった。洗濯も掃除もほとんどしないし、料理も作らない。いつも冷え切った惣菜が置いてあるだけだった。だから私は母の料理の味なんて知らない。母親はいつも自室に篭って、大声で電話で友達と、別の友達の悪口を話していた。
 私も私で、言われっぱなしで気が済むタイプではないので、時折母に言い返しては、口論になった。母は頭に血がのぼると何を言っているか分からなくなるたちで、母自身も自分のコントロールができないので、言い返したところで真っ当な話し合いはできず、火に油を注ぐだけだった。私もそれは分かっているけれど、罵詈雑言を浴び続けると自分の心が壊れてしまうので、言い返さざるを得ない。
 そんな生活が吐き気がするほど嫌だった。高校生の時、私は毎朝五時半に起きなければならなかったのだけれど、夜中の三時くらいまで母親に責め立てられ続けて、ほとんど寝ないまま学校に行くこともしょっちゅうあった。散々暴言を吐いた後に、ケロッとスッキリした顔をする母親が気色悪かった。認知の歪んでいる母親にとって『口答えをする私=家族の諸悪の根源』ということになっていたらしく、「あんたのせいで家がこんなことになったのよ」と何度言われたか分からない。そんなことはおかしいというのは自明だけど、第三者のまともな大人がいない、閉鎖的な環境でずっとそんな言葉を浴び続けると人は壊れていく。
 子というのは生まれつき親を慕うようにできているらしく、そんな環境下でもなお、その本能は残っていた。また、理不尽な状況に対して自分の中で折り合いをつけるためにも、ずっと心のどこかで「自分が悪い」と無意識に言い聞かせていたように思う。そのおかげで自己肯定感は地の底まで落ちた。

 高校三年生に上がるくらいになると、全てが限界で、色んなことが飽和状態だった。
 母親のヒステリーはどんどんエスカレートしていった。今思えば私も、そして母も、限界だったのだと思う。
 私は心も体も不調で、調子が良い日なんてなかった。
 私は親を変えることは不可能だともう分かっていたし、今の状況を変えるには自分が環境を変えて、変わっていくしかないと思っていた。環境を変えるための正攻ルートは間違いなく県外の大学に受かって親元を離れることで、そのため、受験に対するプレッシャーは半端ではなかった。しかし、前述のような生活をしていて、ちゃんと勉強に身が入る訳が無い。それに、人に依存しないと生きられない母は、子どもに対しても同様に依存していて、私が家を出ようとすることをまるで家族への裏切りのように扱っていた。とにかく苦しかった。学校で急に泣き出して、友達を困らせることが何度もあった。
 一度母のヒステリーが始まると、母の気が済むまで止まらない。私が家にいない時にそれが始まると、電話が鳴り止まずにかかってくる。家にいる時は暴言が(時には暴力が)止まらなくて、一度母の頭が冷えるまで距離を置こうと自分の部屋に篭っても、私がドアを開けるまでドンドンドン、とドアを叩いてくる。お風呂に入っている時も、トイレにいる時でさえそうだった。そのせいで電話の音もノックの音もトラウマになった。耐えきれなくなって家を出ようとすると、まるで家出少女かのように周りに言いふらされた。「卑怯者が、逃げるな。」と言われた。私は、どうしてこんな状況になって、何から逃げてるんだろうと思った。
 家に帰ること自体が苦しくて、必死の思いで夜を生き延び、そして朝学校に行くと皆んなそんなこと知らないような顔で笑っていて、こんな思いをしながら生きることに何の意味があるんだろうと思った。何の罪もないクラスメイトにそんな思いを抱いてしまう自分も嫌だった。高校は休みがちで、もう辞めてしまおうかと何度思ったか分からない。

 そんな時に高校三年生の担任の先生と出会った。
 いちばん最初の生徒面談の時に「なんで志望校をこの大学にしたの?」と聞かれた。その先生は日本史の先生で、三年生に上がる前からずっと授業を受けていて、なんとなく、直感的にこの人になら頼れるかもしれない、と思った。だから、家庭環境のことを話して、どうしても家を出たくて、かつ自分のやりたいことに合った大学を選んだと言った。自分の家庭が崩壊していることを詳細に人に話すのは、それが初めてだった。辛い環境下で歪められた価値観の中で、家族のことを人に話すのは悪いことだと思っていた(思わされていた)から。そして何よりも、家庭環境のことを話して、人に嫌われるのが嫌だったから。
 けれど、その先生はまっすぐ私の話を聞いてくれた。そして「あなたが受けているのは、虐待だよ」と言われた。それを聞いて、ああ、やっぱりそうなんだという安堵と、そんな訳ないと信じたい気持ちに駆られた。やっぱりまだ、家族を愛したい、悪者にしたくないという気持ちがあったのだと思う。
 その先生との出会いは私の生活に、そして価値観に革命をもたらした。
 私に味方してくれる真っ当な大人に人生で初めて出会った。私の家庭環境に客観的な目線で向き合ってくれた。両親に対しても様々な方向でアプローチしてくれた。実は父親は別の女性との間に子どもを作っていたらしく(それも母親がヒステリーを起こす大きな原因の一つであったらしい)、そのことも親からではなく先生から聞いて初めて知った。親は説明してくれないのでその三人目の兄弟の子が弟か妹かも知らないし、それを聞いてもショックとは全く思わないほど、私の両親への信頼は冷めきっていた。その先生とはたくさん色んな話をして、たくさん私を家庭から救う解決策を一緒に考えてくれた。ネガティブな内容はとても重く、人にも感染するもので、それに絶えず向き合ってもらったのは並大抵のことではないと思う。私はその先生に感謝してもし切れない。
 そのおかげで、今ここに私がいる。高校三年の担任がもしその先生でなかったら、間違いなくここにはいない。高校も辞めていたと思うし、もしかしたら死んでいたかもしれない。先生だけでなく沢山の友達の存在、そして、何よりも辛いことに抗う意志を曲げないでくれたあの時の自分のおかげで、今の私がいる。

 本当はこの話に繋げて、ポジティブな内容を綴って終わりにするつもりだったけれど、やめることにする。
 私が過酷な家庭環境で十八年間育ったことは事実で、その心の傷はまだ深く残っていることも、自分の中に残っている歪んだ価値観をこれからも矯正し続ける努力が必要であることも事実だ。それらの事実を無理に美談にする必要はないと思う。今なお、苦しくて、死にたくなる夜だってある。本当はこの文章を公開することで、周りに引かれて、嫌われるんじゃないかと、すごく怖い。
 だけど、二十年間回り道しながら生き延びたことで、今に至っていることも紛れもない事実で、自分が人として、少しずつだけれど、成長し続けていることも事実だ。そしてこれからも、時には苦しみながら、一歩一歩進む中で、今の自分には想像できないほど綺麗な景色が幾度となく見えるだろうと。今の自分の半生は「無題」だけれども、私が息絶えるとき私の人生にはこの上なく美しいタイトルが付けられるだろうと。そう、信じて。


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