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短編小説 | 私の、言葉

文字数:13,144文字

第一節 私

 普段はタクシーに流れるラジオが鬱陶しいと感じるが、商談に失敗した今の私にはラジオが丁度良く元気をくれる。私が知らない芸能人がリスナーからの質問に答えているようだが、一つ一つの質問に真摯に全力で答えている感じがした。今日はこのまま、このラジオを聴いていたい。しかし、あの信号を曲がれば会社が入るビルに着いてしまう。大きなため息が出る。タクシーに乗ってから何回目だろうか。

 清算をしてタクシーを降りようとした時、運転手から声を掛けられた。
「よかったらこれ、どうぞ」
 運転手の左手に目を移すと、ポケットティッシュが二組差し出されていた。それだけで涙が出そうになる。いつから私はここまで弱くなってしまったのだろう。今にも泣きそうな顔を見られないように、下を向きながらお礼を言った。
 ビルの中に入り、エレベーターのボタンを押す。行きたくない、という気持ちに反して、十階にあるエレベーターが徐々に迫ってくる。また深いため息が出た。
 八階にある会社の入り口に着いてしまった。今だったらまだ帰れる、そんな無駄な考えが頭の中にあるが、くよくよ迷っていても仕方がない。
「ただいま戻りました」
 みんな小さな声でおかえり、と言ってくる。竹山部長の方を見る。どうやら、電話対応中らしい。すぐに怒られることはない、そう思ったが受話器を置く音が聞こえた。背中に寒気が走る。
「中野!三分後に会議室Aに来い」
 竹山部長の唯一良いところは、みんなの前で怒らないことだ。しかし、個別で怒られると毎回二時間は詰められ、怒鳴られる。何度泣かされたことか。
「分かりました」
 すでに声は震えていた。周りは私が長々と怒られることを察しているようだが、誰も助けてくれない。仕方がない、結果を出せなかった私が悪いのだから。全部、私が悪い。
 
 会社を出たのは午後十一時三十分を回っていた。走って駅に向かい、終電に乗る。いつものことだ。席に座った後、先程怒られたことがフラッシュバックしてきた。
「今月まだ受注件数ゼロだけど、どうすんの。あと一週間しかないけど、当てはあるの?なんでいつも失敗ばかりするの?お前より遅く入った間宮を見てみろ。もう一人でバリバリ動き回って、今月は目標の一・五倍受注しているぞ。うちの会社にお前のような数字を上げることができない人材は不要だ」
 脳内で再生される嫌な記憶。なんでいつも私はできないのだろう。また涙が出てきた。車内には私のように疲れ果てた人が数名いるだけだが、私の座っている席の周りには誰もいない。良かった、泣いている姿を誰にも見られることはない。
 最寄り駅に着いた。電車に乗っている間は気付かなかったが、いつの間にか小雨が降っていた。これぐらいなら大丈夫かと思ったが、鞄にある折り畳み傘を開き、近くのコンビニに向かった。あまり食欲は湧かないが胃に何かを入れないと。ただでさえ職場のストレスや睡眠不足で体調が悪いのに、食事も抜いてしまうと余計悪化してしまう。
 コンビニ手前の青信号が点滅し始めた。止まろうかと思ったが、早く家に帰って眠りたい。最後の力を振り絞り、走って信号を渡ろうとした。その時、突如右側に強い衝撃を感じ地面に倒れ込んだ。さっきまで視界にあったコンビニが消え、代わりにシルバーのワゴン車とアスファルトに流れる血が視界に映る。どうやら私は、横断中に轢かれたらしい。全身が叫ぶように痛い。手や足を動かそうとしてもピクリとも動かない。私を轢いたであろう車から男性が駆け寄って来て、何かしゃべっているが全く聞こえない。耳までおかしくなったのか。意識が朦朧としてくる。私はこのまま死ぬのか。最後に、お母さんにありがとう、と伝えたかった。でも、辛い理不尽な世界で生きているよりは、死んで楽になったほうがいいのかもしれない。起きたら天国にでもいるのだろうか。そんなこと思いながら、視界が徐々に狭まっていった。

     * * *

 白い天井と蛍光灯が見える。横では知らない女性が何やら紙に記入している。視界がぼやけているせいではっきりと顔が分からないが、私は病室にいるらしい。そうか、私は生きていたんだ。嬉しさの反面、死ねなかった後悔がある。目を覚ました私を見て、看護師が何かを言っているが聞こえない。何かを言い終えると看護師は走って病室を出て行った。先生を呼びに行ったのだろうか。それにしてもやけに静かだ。窓からは太陽が差し込み、空を飛んでいる鳥が見える。何かおかしい。窓を見ている私の前に突如白衣を着た男性が現れびくりとした。名札には「堀江悠生」と記載されている。この人が先生なのだろうか。堀江先生が私の目を見て何かを言っているが、何も聞こえない。嫌な予感がした。車に轢かれた時から私の世界から音が消えている。何も、何も聞こえない。命を取り留めた代わりに、私から音を奪い取ったのか。なぜ神様はいつも私ばかりに意地悪をする。なんでいつも私ばかり。
「お母さん」
 ふと口から出た。それが堀江先生や看護師に聞こえていたらしく、一人の看護師が病室を出て行った。堀江先生がベッドのサイドテーブルを出して、メモ帳に何やら書き始めた。ペンを置くと両手でメモ帳を見開きにして、私に見せてきた。
「お母さんを今から呼びます」
 達筆な文字でメモ帳に書かれている。すると、先程病室を出て行った看護師が戻って来て堀江先生に何かを伝えた。聞き終えると、またメモ帳に文字を書き始め私に見せてきた。
「一時間程で来るそうです。それまで起き上がらないでお待ちください」
 お母さんに会えるのか。こんなぼろぼろの娘の姿を見たらお母さんは泣き崩れるのではないか。ましてや、耳が聞こえない状態だ。元気な姿で会いたかった。涙が頬を伝う。お母さんより先に泣いたのは私の方だった。
 
 いつの間にか寝ていたらしい。目を覚ますとオレンジ色の光が病室を染めていた。夕日の後を追うように窓の方に目を向けると、お母さんがいた。私の手を握ってうとうとしている。会うのは去年のお盆ぶりだ。何も変わらないお母さんの姿を見て視界がぼやけた。目に溜まる涙が乾くのを待ち、声を掛けた。
「お母さん」
 自分が今どれくらいのボリュームで話しているか分からないが、うとうとしていたお母さんが目を覚ました。適切なボリュームだったのだろう。私の顔を見るなり、ぎゅっとハグをしてくる。お母さんのにおいが鼻を通り全身に巡っていく。優しさと温かさが混ざっているように感じた。少し経ってから、お母さんのにおいと温かさが遠くにいった。お母さんは目を真っ赤にしている。やっぱり、泣いていたんだ。私もつられて泣きそうになったが、涙をこらえた。すると、サイドテーブルでノートに文字を書き始めた。お母さんは私の耳が聞こえないことをもう知っているらしい。ノートを書き終え、私に見せてきた。
「裕子、おかえり」
 その一言で十分だった。こらえていた涙が溢れてくる。お母さんの声が聴きたい、お母さんと話したい。なのに、私にはできない。安堵の気持ちと悔しさが入り交じり、涙はしばらく止まらなかった。まだ体を動かすことができない私の代わりに、お母さんが涙を拭いてくれた。
 少し落ち着くと、お母さんがノートに文字を書き始めた。そこには、私が一週間眠り続けていたこと、居眠り運転による事故だったこと、事故に遭ってからすぐにお母さんが駆けつけてくれたこと、休職して私の部屋に泊まりながら毎日お見舞いに来てくれていることが書かれていた。そして、ノートの最後には想像通りのことが書かれていた。
「裕子は後遺障害で難聴になったの。若しかしたら、もう音を聞くことができないかもしれない」
 その文字を読んだ時、すっと私の心に刃が突き刺さったような感じがした。すでに分かっていたことだが、若しかしたら一時的なものかもと淡い考えがあったからだろうか。しかし、受け入れるしかない。
 退院までは六か月を要すると教えてくれた。その間、お母さんが毎日お見舞いに来てくれるという。また、会社にはお母さんが連絡してくれたらしく、休職扱いになった。ただ、耳が聞こえない私が復帰しても何も役に立たない。加えて、辞められる理由ができた。体を動かせるようになったら連絡することにしよう。
 お母さんが帰った後、真っ直ぐ天井を見ながらこれからの人生について考えた。耳が聞こえないし、仕事もできない。資格もなければ、スキルもない。まずいまずいと思いながら気付けばもう二十七歳。分かっていたことだが、この歳で私は何もできない。天井に向かってため息が漏れる。これまで考えてこなかったが、私が向いている仕事は何だろうか。それを知るためには、まず自分を分析したほうがいいかもしれない。時間は沢山ある、焦ることはない。ゆっくり自分のペースで歩んで行こう。なんだか、事故をきっかけに前に向きになっている気がする。若しかしたら神様は、鈍感すぎる私に、まずは自分を知りなさいと合図を出したのかもしれない。だからと言って、こんなひどい状態にするのはいかがなものか。
 色々と考えているうちに、徐々にまぶたが重くなっていく。今はひとまず休もう。神様もそれぐらいは許してくれるはずだ。心の中で神様に手を合わせた後、ゆっくりと目を閉じた。

第二節 音のない世界

 窓からパラパラと降る雨をぼーっと眺めていると、肩を叩かれた。
「荷物はまとめたの?」
 お母さんが手話で聞いてくる。入院して最初の一か月ぐらいはノートでやり取りをしていたが、退院した後のことを考えると、手話を身に着けた方が良いのではないかということになり二人で勉強を始めた。初めはぎこちなくて二人で笑い合っていたのが懐かしい。
「まだ、今からやる」
 返事をして荷物をまとめ始めた。長い退院生活も今日で終わり。やっとかという気持ちと、お世話になった先生や病室に寂しさが残る。
 荷物をまとめ終えると、病室の入り口に向かった。振り返り、病室に一礼をする。その後、先生たちにお礼を伝え病院を後にした。丁度、ロータリーにバスが流れ込んで来たため乗り込んだ。もう雨は降っていない。雲の隙間から太陽が差し込む。
 入院中、自分の人生を振り返り、好きなことや嫌いなこと、得意なことや不得意なことなど細かく分析をした。その中で、私がどういう人間なのか理解することができたが、自分に合う仕事を中々見つけることができなかった。しかし、SNSを見ている時たまたま流れてきた広告を見て、やってみたいと思うものがあった。コピーライターだ。お母さんとノートでやり取りする中で、言葉でしか伝わらないものがあるのと同様に、文字でしか伝わらないものがあると実感した。加えて、耳が聞こえなくてもできる。お母さんにそのことを伝えたら、やりたいことをやりなさいと背中を押してくれた。
 
 家の近くのバス停に着いて家に向かった。バス停からは徒歩十分。その道中には私が事故に遭った横断歩道がある。私から音を奪った場所が徐々に近づいてくると、鼓動が落ち着かなくなってきた。すると、お母さんが手話で聞いてきた。
「大丈夫?別の道で行く?」
 顔がこわばっていたのだろうか、心配そうに聞いてくる。
「大丈夫だよ。ありがとう」
 そう答えると、お母さんは無言で頷いた。
 私を変えた横断歩道は、何も変わっていなかった。あの時の記憶がフラッシュバックしてくる。胃液が出てきそうになった。口元をとっさにおさえ、お母さんの肩を強く握った。背中をさすりながら、心配そうに見つめてくるお母さんを横目に、深く鼻で深呼吸をした。大丈夫、大丈夫。何度も言い聞かせていると、少し落ち着いてきた。
「ありがとう、もう大丈夫」
 お母さんに伝え、横断歩道をゆっくりと渡った。辛い記憶を私に植え付けたこの横断歩道は、私にやりたいことを見つけるきっかけを作ってくれた場所でもある。良い意味でも、悪い意味でも思い出の場所となるだろう。無事に横断歩道を渡り終え、そのまままっすぐ市道を進んだ。少し歩き、右の細い道を曲がると懐かしの景観が見えた。
「久しぶりのアパートはどう?」
「それ、部屋に入ってから聞くやつじゃないの?」
 アパートの前で、二人で笑い合った。
 部屋は予想通りきれいになっていた。きれい好きのお母さんが六カ月間住んでいたのだから当たり前だろう。
「お昼はパスタでいい?」
 時間は正午を回っていた。少し休んでからでもいいのにと思いつつ、お腹も減っていたし、申し訳ないと思いながら頷いた。
 ご飯を食べた後、携帯をいじる私の手をポンポンと叩いた。
「明日から仕事に復帰するし、家もずっと掃除していないから汚いと思う。裕子もやりたいこと見つけたって言っているし、もう心配していないわ。だから、もう帰ろうと思う。これ、少しだけど生活費。それと、お守りも」
 そっか、もう帰るのか。お母さんの会社は人手不足で、経理で働いているお母さんがいないとお金のことが心配だと、以前言っていた。会社に無理言って来たんだろうな。これ以上甘えてもいられない。渡された封筒とお守りをテーブルに置いた。
「分かった。私のことは大丈夫。早く仕事見つけていい報告ができるようにするね。この半年間本当にありがとう。お金もお守りもありがとう。大切にするね」
「無理はしないでね。何かあったら連絡して、小さなことでもいいから。あと、一人で抱え込まないでね。お母さんはいつでもあなたを守るから」
 隠していたつもりが、私が辛くて、苦しんでいたことをお母さんには全部お見通しだった。前の私だったら泣いていたかもしれない。だけど、私はもう泣かない。お母さんのために。
 一人残された部屋。パソコンに映る求人を眺めていた。明日からでもいいかなと思ったが、耳が聞こえない私は他の人と比べて人一倍行動するしかない。自分に活を入れ、求人を漁った。
 コピーライターになるために専門の学校に通うか迷ったが、仕事をしながら知識を身に付けた方が良いと思った。それは、入院中に読んだ本に書かれていたことがきっかけだ。
「インプットばかりでは人は伸びません。まずは行動・アウトプットして、何度も失敗して、改善を繰り返すことが人を成長させます」
 失敗を恐れて行動できなかった私の心にぐさりと刺さった。前の職場で結果を出せなかったのは、失敗を恐れていたからだと実感した。だから私はまずコピーライターとして働いて、失敗して、改善して、成長していくことにした。
 そういえば今日はばたばたしていたため、あのノートを見ていない。横にあるバックを広げノートを取り出し、一ページ目を開いた。そこには、『言葉で心を動かす』と書かれている。コピーライターになる上で、一本の軸を作ろうとノートに書いた。この軸がある限り私はブレずに突き進むことができる。ノートをバックにしまい、また求人を探し出した。

第三節 新しい景色

 所属する部署のメンバーが各々の席から立ち上がる。どうやら山谷さんが声をかけたらしい。山谷さんが私の肩をポンと叩き合図を出してきた。持っていたA3サイズの紙を広げる。
「初めまして、中野裕子と申します。今日から入社させて頂くことになり、大変嬉しく思っております。コピーライターは初めてではありますが、皆さんの力になれるよう日々精進していきます。また、私は耳が聞こえません。ご迷惑をお掛けしてしまうこともあると思いますが、皆さんと円滑にコミュニケーションを取るために、筆談やチャットツールなどを活用していきたいと思います。よろしくお願いします」
 読み終えたであろう若い男性が拍手をし始めた。それに便乗するように周りも拍手していく。耳が聞こえない私を軽蔑するのではなく、同じ仲間として優しく歓迎してくれている感じがする。山谷さんがある女性を呼び何かを話し始めた。他のメンバーは席に座り自分の仕事に戻っていく。話が終わったのか、私のところに来てニコリと笑いノート見せてきた。
「私は鈴木と言います。中野さんが所属する『飲料品マーケティングチーム』のチームリーダーです。よろしくね♪」
 小柄で若く見えるが、とてもたくましくて堂々としている。この人の下なら大きく成長できるかもしれない、そんな気がした。私もポケットに入っていた小さなノートに一言書いて見せた。
「よろしくお願いします」
 鈴木さんはまたニコリと笑うと、席に案内してくれた。部署は三つのチームがあり、チームごとに席がまとめられている。私が荷物を置くと、鈴木さんがチームメンバーを呼び集める。集まったところで、鈴木さんがノートを開いた。
「身長が大きい彼は、クリエイティブディレクターの山本君。眼鏡を付けている彼女が、アートディレクターの浅井さん。肌が白くて横に大きい彼は、映像ディレクターの雪山君。雪山君はみんなから雪だるまって呼ばれているよ。髪が長い彼女が、ウェブディレクター新沼さん。チームは中野さん含めて六人。みんな個性的で優しい人達だから、分からないことがあれば何でも聞いてね」
 どうやら私のために予めノートを準備していたらしい。自己紹介が終わると、私は深々と礼をした。前の職場の人はみんな冷たく、顔がいつも具合悪そうだった。しかし、この会社は全くの逆。温かくて、活き活きとしている。この会社に入れて本当に良かった。早く認められるように頑張っていこう。口角を上げてから、下げていた頭を元に戻した。
 
    * * *
 
 鈴木さんと山本さんが得意先との打ち合わせから帰ってきたが、二人ともいつもの様子とは明らかに違う。足取りが軽やかで、ウキウキしているように見える。すると、鈴木さんがみんなに何か話し始めた。しばらくすると、各メンバーから拍手が起きる。何があったのだろう。鈴木さんの方を見ると、パソコンを指差している。その直後、鈴木さんからメッセージの通知が来た。
「実はさっき、ドリンクバート株式会社との打ち合わせの後、大きなコンペの話を頂いたの!内容は、新商品の広告展開について。このコンペを勝てば大きな売上につながる。中野さんは初めてのコンペだと思うけど、みんないるから大丈夫。一緒に頑張っていこう!」
 顔を上げると、鈴木さんは私の方を見て頷いた。私は席から勢いよく立ち上がり、深く礼をした。そんな私を見たからか、各メンバーからチャットで応援メッセージが来た。体がぞわぞわして熱くなっている。入社して三カ月、コピーライターとしてのデビュー戦だ。みんなの期待に応えるためにも良いものを作ろう。すると、今度はメンバー一括で鈴木さんからメッセージが送られてきた。
「早速だけど、今日の午後五時から会議室で打合せを行うわ。資料を添付しておくから各位時間までに目を通しておいてね」
 あと三時間後か。資料と先方のことについて詳しく見ておこう。添付されている資料を出力して、上から順に読み始めた。
 
 会議室に行くと、雪山さんが私のために話している内容を音声入力して、パソコン上で出力してくれるように設定しておいてくれた。雪山さんに一礼をして席に着く。
時間になった瞬間、鈴木さんが話を始めた。
「さっきも話したけど、今回のコンペを受注すれば大きな売上になる。また、これまで小さな案件しかやってこなかったうちとしては、この案件を足掛けにして継続的なやり取りをしていきたいと思っている。みんな、頑張っていこう!」
 鈴木さんが話を終えると、山本さんが続いた。
「まず、知っているメンバーもいると思うが、ドリンクバートのコンペは三年ぶり。その時うちは敗れている。で、今回新商品を出すにあたり、広告展開を実施したいとのこと。それで、コンペに呼ばれたという背景。広告展開については、ポスターや動画、ウェブ、屋外広告、イベントと多岐にわたり、+@で自由提案とのこと。競合はおそらく、継続で広告展開を行っているA社と、前回参加していたB社だと考えられる。予算は大体一億五千万円。提出日は一か月後だ。そうれじゃあ、方向性とコンセプトを決めて行こうか」
 
 鈴木さんが席から立ち上がり手を叩いた。
「よし!方針とコンセプトが決まったし、今日はお開きにしよう。一週間後にまた打合せを行うけど、山本君はできるところまででいいから企画書の叩きを、中野さんはコピー案をよろしくね。それじゃあみんな、お疲れ様」
 壁に掛かる時計を見ると午後七時を回っている。それぞれ席から立ち上がり、まばらに会議室を出て行く。私は最後に出て、電気を消し自分の席に戻った。
 今日は疲れたし、明日からでもいいかと思ったが、私がコピーを考えないと他が進まない。鈴木さんが以前言っていた。
「コンセプトは業務の根幹を担うもの。じゃあ、コピーは何を担うと思う?それはね、広告物の根幹を担うんだよ。コピーが決まらないとデザインなどの方向性が絞れず、先方が欲しかった方向性のものとは全く別のものができることがある。でも、コピーを決めることで方向性をある程度絞ることができて、要望通り若しくは、要望以上のものを提案することができる。まあ、コピーの方向性が間違っていたら元も子もないけどね」
 座ったまま背伸びをして、バックからノートを取り出す。机に転がっているボールペンを持ち、ノートに向かってすらすらと書き始めた。
 時間は午後十一時を指していた。打合せ内容や新商品の情報、先方などについて整理することができた。ターゲット分析や他社商品との比較は明日やって、コピーを仕上げることにしよう。席を立ち上がり背伸びをしていると、山本さんがまだ残っているのに気付く。自分の席から窓側にあるフリースペースに移動していた。オフィスには私たち二人以外誰もいないようだ。付箋にもう帰る旨を書き、山本さんに渡しに行く。受け取った山本さんは、付箋の裏に文字を書いて私に渡し、手を挙げた。
「頑張っているね。コピー楽しみにしているよ。でも、無理はするなよ。お疲れ様!」
 一礼をして、机に戻った。置いてある荷物を持ち、会社を後にする。
 
    * * *

 いつも通り十時に出社したが、朝起きた時から鼓動に落ち着きがない。私のコピーはどう評価されるのだろうか。
「全然だめじゃん」
「期待していたのに」
「コピーライター向いていないんじゃないの」
 メンバーがそんなこと言うはずがないが、前職のことを思い出す。打合せは午後三時から。それまでは、仕事に集中したくてもできないだろう。時間が来るのを、仕事をするふりをして待つことにした。
 
 時間になった時、鈴木さんが話を始めた。
「じゃあ二回目の打合せを始めようか。早速だけど、山本君から企画書の叩きについて説明をお願い」
 指名された山本さんが説明を始めたが、それどころではない。心臓の激しい動きが体に伝わり、全身が揺れている。大丈夫、あれだけ考えたんだから。大丈夫。
 みんなが私を見ている。いつの間にか私に発表が回ってきたようだ。パソコンを巨大なモニターにつなぎ、資料を反映させる。全部で十案。一ページ一案でそれぞれに説明を記載している。それらの文字を、指示棒を使いなぞりながら声を出さず説明していく。何も知らない人がこの場にいたら、異様な光景なのだろうと説明しながら思った。
 一通り説明が終わり恐る恐るみんなの方を見る。表情だけでは分からない。不安が募っていくばかりだ。無言状態の会議室に一声を投じたのは鈴木さんだった。
「うん、悪くない。というより、すごく良い。何案かはありきたりな感じがするけど、コピーライターに成りたての人だとは思わないぐらい、よくできている。」
 山本さんが続く。
「よくできていますよね。先方のことも、ターゲットのこともよく分析した上でこのコピーができていると伝わってくる。ちょっと、ここまでとは思ってなかったものだから、びっくりしたよ」
 自分では分からなかったし、自信がなかったが、そんなによくできていたのか。鳥肌が止まらない。これまでの逆境が全て実り、初めて「私」が認められた気分になった。じんわりと目頭が熱くなっていくのが分かる。泣かないと誓ったが、嬉し泣きだったらいいのではないか。みんなの前で礼をして、流れる涙を隠した。
 
    * * *
 
 今日、コンペの結果が出る。結果は文書を郵送すると聞いている。いつもうちに郵便物が来るのは午前十時くらい。会社に行ったらもう結果があることになる。いつもは朝の電車でニュースアプリを見ているが、そわそわして頭に入ってこないため、音楽を聴くことにした。
 会社のドアを開くと、鈴木さんの机の周りにみんな集まっていた。いつもはみんな私より遅い。結果を待ちわびていたんだな。鈴木さんが私に気付き手巻きをしてくる。自分の机にバックを置き、集まりに加わった。鈴木さんが何かを言って封筒に切り始めた。おそらく、開けるよ、と言ったのだろう。ハサミの刃に注目が集まる。切り終わると、中からファイルに入った白い紙を取り出し、裏面の状態で机に置く。鈴木さんがみんなを見る。文書をゆっくりめくると、文書の真ん中辺りに『合格』の文字が見えた。鈴木さんの手が震えている。みんなが一斉に拍手を始め、抱き合うメンバーもいた。隣にいた山本さんから肩を叩かれ振り返ると、私の目を見て深く頷いた。よくやった、と言ってくれているような感じがした。
 その後、打ち上げをすることになり、会社の真向かいにある居酒屋に行った。そういえば、みんなと飲むのは初めてだ。と言っても、耳が聞こえない私が、話すことがメインの居酒屋に行って迷惑を掛けないのだろうか。不安が頭をよぎる。八人掛けのテーブル席にみんな座ると、鈴木さんがみんなに話を始めた。その後、鈴木さんが私の個人SNSをみんなに共有していいか聞いてきた。入社初日に鈴木さんとSNSを交換していたことを思い出す。大丈夫です、と返信するとみんなから追加の依頼が来た。私のためにSNSで話してくれるみたいだ。さっきまでの不安は杞憂だった。誰一人取り残さない会社なのだと、改めて感じた。
 最寄り駅から出て、家への帰路につく。暗い空を見上げながら、今日のことを振り返る。こんな嬉しい気持ちは感じたことがない。お母さんに連絡をしよう。バックから携帯を取り出し、メッセージを送った。お母さんもきっと喜ぶはず。私は今、誰よりも順調に歩けている。そんな気がした。
 
 しかし、お母さんから連絡が来ることはなかった。

第四節 お母さん

「次は、C駅に止まります」
 新幹線六号車前方にある電光掲示板に映し出された。あと二駅か。心の中でつぶやき、車窓から見える赤と黒のグラデーション模様の空を見た。鳥が大きく翼を広げ悠々と飛んでいる。私も鳥になって、こんなに辛くて苦しい人間界を抜け出したい。神様はやはり、私のことが嫌いのようだ。
 
    * * *
 
 お母さんが亡くなったと聞かされたのは、お母さんに連絡をした翌日のこと。出勤してこないお母さんを心配し、会社の人が連絡をしたそうだが繋がらなかった。これまで連絡無しに会社を休むことはなかったため、不審に思った社長がわざわざ家に様子を見に行った。すると、車の中で目を閉じ、動かないお母さんを見つけた。社長はすぐに警察と病院に連絡をしたが、救急車の中で息を引き取った。
 
 会社のお昼休みに一件の不在着信があった。
誰も座っていない窓側のフリースペースに移動した。電話の内容を手話で伝えてくれる専用のアプリを開き、電話を掛け直す。すると、画面に女性が映り手話で話を始めた。何度かこの女性とやり取りをしたことがあるため面識があるが、いつもの雰囲気とは異なっていた。いつもはニコニコしているが、硬い表情をしている。
「お忙しいところ、折り返しありがとうございます。先程連絡があったのですが、今朝、中野様のお母様が急性心筋梗塞で亡くなったとC病院から連絡がありました。」
 この女性が何を言っているのか分からない。あんなに元気なお母さんがいきなり亡くなるなんてあり得ない。現実から逃げるために、正当化しているのが心の内では分かっていたが、信じることができなかった。お母さんの笑顔が脳裏に思い浮かぶ。お母さんに会いたい。重い体を無理やり動かす。鈴木さんに事情を説明し、会社を飛び出るようにして出た。
 病院に着いた頃には、すでに月が輝いていた。思い切り病室のドアを開ける。みんなが驚くようにこちらを見た。病室の手前のベッドで、目を閉じ動かないお母さんを見つけた。ベッドの横にいた看護師が私のために移動した。お母さんに近づき手を握る。いつも温かかったお母さんの手は、冷たく真っ白になっていた。
 
    * * *
 
 アパートの鍵を開け、ふらふらと部屋に進む。カーテンが開けられたままの窓から、月の光が部屋の真ん中にあるテーブルを照らす。丁度照らされている部分にバックを投げた。バックの中が飛び出したが、どうでもいい。暗い部屋の片隅にあるベッドに倒れ込んだ。月の光が徐々に部屋から逃げていく。暗くなった天井のある一点を眺めていると、涙が出てきた。枯れるぐらい泣いたが、まだ残っていたのか。
 会社からは十日間の休暇が付与されているが、今日で最後。これまで仕事を頑張れたのはお母さんがいたから。私にはもう頑張る理由がない。
「お母さん」
 誰も居ない部屋で一人つぶやき目を閉じた。
 
 目を覚ますと、外はもう明るい。壁に掛かる時計を見ると、午前十一時を指している。いつもは会社にいる時間だが、焦ることはなかった。行く気力なんてない。上半身をゆっくりと起こし、窓の外側にあるいつもの世界を見る。雲のない青い空、その中を飛ぶ鳥、灰色の隣の一軒家。このいつもの世界で、私は一人取り残されてしまった。
 いつの間にか午後一時を指している。先程から携帯のバイブ音が鳴り続いているが、おそらく鈴木さんだろう。見る気になれない。枕の横にある携帯を取って、電源を切った。その時、お腹が体内でぐーと響いた。実家にいる時は何も食べる気にはなれず、お腹も空かなかった。親戚からもらった果物のゼリーを一日に一個食べるだけ。久しぶりに私から欲が出ている。昨日までは、人形のように何も感じなかったが、今私は生きたいと心の中で叫んでいる。

 確かそうめんがあるはず。台所に行こうとベッドから立ち上がると、机に乱雑する化粧品や文具などが視界に入った。昨夜のことを思い出す。少し後悔をした。テーブルに広がる小物を整理しよう手を伸ばすと、あるものを見つけた。お母さんからもらったお守り。いつもバックの小さな内ポケットに入れているが、一緒に出てきたのか。濃紺で花柄模様、真ん中には「御守」と書かれている。テーブルの側にしゃがみ込みお守りを両手で取った。しばらく見つめた後、胸にそのままくっつける。聴こえるのは私の鼓動音だけではない。お母さんの懐かしい声が聴こえる。お母さんはここにいる、そう言っている気がした。嬉しい時も、辛い時も、寂しい時も、いつだってお母さんは私を見守ってくれている。ずっとそうだった。それが分かっただけで、私は一人残された孤独の世界から抜け出すことができる。枯らした涙が頬を伝う。お母さんに言いたかった言葉はもう直接言えない。だけど、このお守りがある限り、私とお母さんは心の中で繋がり、伝えることができる。私は、私の言葉でお母さんに伝えたい。涙を拭うと、テーブルに乱雑する小物たちをバックに次々と閉まっていった。そして、最後にお守りをそっと内ポケットに置いた。

 さっき私に教えてくれた食欲がリマインドしてくる。さっきよりもお腹が体内でぐーと響いた。私はもう、大丈夫なようだ。そうめんを食べる前に、鈴木さんに連絡をしよう。携帯の電源を入れ、メッセージを返した。
 
 * * *
 
十一月八日(金)
 お母さん、元気?私は今日、とても良いことがあったの!別のチームの人から、大手菓子メーカーの母の日キャンペーンを行うにあたって、キャッチコピーを書いて欲しいって言われたんだよ。凄いでしょ!それで、母の日ことを思い出したんだけど、私が中学生の時、お母さんのためにガトーショコラを作ったの覚えてる?少し焦げたし、形は不格好だったけど、美味しい美味しいって言って食べてくれたよね。あの時、凄く嬉しかった。一人暮らしを始めてからは、そういう機会はなくなったし、メッセージもしなかったよね。一言、「ありがとう」って伝えればよかったのに。ごめんね。
 お母さんにノートを書き始めて丁度一年経ったよ。ちゃんと見てる?お母さんのことだからきっと見てるよね。何なら、一ページ一ページ大切に保管してるかも。お母さんが生きている間に言いたかったことは沢山あったけど、このノートのおかげで少しずつ伝えられているよ。これからも毎日伝えるね。私の、言葉。


最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。
初めての創作した小説だったため、読みにくい部分などがあったかと思います。
今後につなげていきたいと考えておりますので、よろしければご感想、ご指摘頂ければ幸いです。
それでは、また。

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