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「断れない」呪縛「言えない」後悔

「みんなにいい顔はできない」、平ったく言えばそういうことになる。

『走ることについて語るときに僕の語ること』 by村上春樹

昔から村上春樹さんの小説が結構好きだった。以下敬称略
中学生ながら家の本棚にあった『ノルウェイの森』を読んだが意味はよく分からず、そのまま図書館から『1Q84』を借りて読んでみたが、これまたよく理解できないまま全巻読破した。
それ以来1Q84には手を付けていない。
だから巷で呼称される 、“ハルキスト” の名を名乗っていいとは思わないが、
謎すぎる世界観と文章の歯切れの良さがなんとなくツボだったみたいで、
大人になった今でも変わらず、何冊か手に取って読んだりする。

『走ることについて語るときに僕の語ること』
エッセイというものを普段からよく読む方ではないのだが、
春樹のこの著作はタイトルの言い回しに妙に気を引かれた。

春樹呼びをしたくなってしまうのはファンならではの愛情表現だとして許容してほしい。

私が今日話すのは、断れない症候群(勝手に名付けた)の傾向を持つ私の苦悩と、そこから抜け出そうともがいている自身の挑戦についての話である。

春樹の著作について言及する理由は、彼の著作内での言葉に背中を押されているからだ。八方美人な自分が本来の自分を潰していることは何となく感じていたからか、このままではマズイ、と冷静になった。
自分の状態を見つめなおす必要があると自覚したのだと思う。

ここからはかなり長くなるので、目次を活用しながら気になったところだけを読んでくれてもかまわない。

専業小説家になって何よりも嬉しかったのは、早寝早起きができることだった。店をやっているときはベッドに入るのが夜明け前ということも少なくなかった。
店をやめて小説家としての生活を始めたとき、我々ーというのは僕とうちの奥さんのことだーがまず最初にやったのは、生活のパターンを一新することだった。
太陽が昇るころに目覚め、暗くなったらなるべく早く寝てしまおう、と決めた。それが我々の考える自然な生活だった。~中略~
もう客商売はやめたんだから、これからは会いたいと思う人にだけ会って、会いたくない人にはなるべく会わずにすませよう。~中略~
僕はもともと人付き合いの良い人間ではない。どこかで本来の自分の在り方に復帰する必要があった。

『走ることについて語るときに僕の語ること』 by村上春樹

私は大概さまざまな新しい出来事に対して大胆に挑戦する方だったが、人付き合いや断るということに対してはめっぽう意気地なしであった。

つい5日ほど前はそのせいで泣きそうになってしまったほどである。
断れない相手に合わせる 癖のせいで、自分の時間がどんどんと失われていく感覚に見舞われ、大切な人に伝えたかったことを伝えられなかったからだ。

その夜に思いの丈を書き起こし、今日まで温めておいたエッセイを載せておく。


▼断れない悩みと言えない後悔、エピソード①


エントランスの扉が開いた。
引き返そうと振り向いて、鏡に映る自分を見つめる。一歩踏み出そうとして、時計を確認した。時刻は19時08分だった。引き返すことを諦めた。
スターバックスの仲良しのあの子に髪切ったね。と一言言いたかっただけで、今から街角まで歩いて向かうと30分はかかる。
帰宅時間が20時を超えるのは避けたかった。

何だか惨めな気持ちだった。
その一言を言うためだけに戻ろうとするぐらい人に依存しがちな自分にも、
彼を見つけた時にさっさと言って出て来ればよかったのに、
髪を切ったことに気づいた自分や、彼を見つけてつい嬉しくなってしまったことが恥ずかしく、声を掛けることを躊躇した自分にも嫌になる。

この間は別の女の子に、いつもハキハキと大きな声で素敵な接客をしているねと思ったことを伝えようとして失敗した。
タイミングを見逃したから。と自分に言い訳をしてそのままお店を出てきたが、そのことを1日2日は悔やんでいた。
そう、質が悪いことに、私は気づいていたのに実践できなかった、言えなかった出来事を引きずる性格にあるのだ。

誰もそんなことで怒らないのに、私は分かってる!気づいてる!ってことを誰かに知ってほしい承認欲求なのだろうか、考えすぎか。

だけどやっぱり自分が見つけた人の良いところは褒めたいし、相手に気持ちよくなってほしい。髪を切ったことを誰かに気づいてもらえた時ってとってもハッピーな気持ちになれるじゃない?「髪切ったね?いいね、とても似合ってる!」その一言のパワーって、信じられないくらい強いものだと思う。

幸せのかけらを渡せなかった後悔の矛先が過去の自分に向けられるー

今日の約束を断ればよかった。
そうしたらあの彼と話す時間ができて、髪切ったね。のその一言が言えたのに。
そうすれば今こんな気持ちにならなくて済んだ。



この ”言えなかったエピソード” がなんで ”断れない症候群” の話に繋がるかというと、
自分が言えなかった・できなかったことを、他の誰かのせいにしてしまう部分があるからだ。

その日は、以前たまたま道端で出逢って友人になった、クイア(LGBTqの人々を呼称する言葉)の方と遊びに出かける予定をしていた。
3日前くらいから、内心その約束を『断りたい断りたい』と思っていたが、結局言い出せずにもともと22時までの予定だった帰りの時間を、19時に早めるだけにとどまった。

時間を縮めたといえ、14時から19時までの5時間、拘束されるわけだ。こんな表現ができるくらいだから、私も性格が悪い。
5時間でどんな新しい物語が生まれただろうかと考えると惜しい気持ちになる。
それに何より、この人との約束さえなければ彼に一言伝えられたのだ。
自分の勇気がなかったことを棚に上げて、人のせいにする悪い癖だ。

それにしても、「あなたに会うのがとても楽しみなの」とメールで言われてしまうと、どうやって断ることができるのだろうか?
一緒にいる間は少しでも目の前の彼女を楽しませようと全力を尽くす自分もいるのだ。アダルトチルドレンの生きづらさというのはこういうところにある。

え、まってまって、てか、それじゃあ何でそもそもその人と約束したの?ウケるんだけど。
わかる。その疑問は、よーくわかる。
私も冷静になったタイミングで同じ疑問にさいなまれる。

▼断れない悩み、エピソード②


「休みの日にアルバイトのシフトに入ってほしい。」という旨の連絡がその日の前夜に入った。
時刻は22時を過ぎていて、私は眠りに落ちる寸前、電気を消す前の最後のチェックにSNSを開いたのだけど、開かなければ良かったと激しく後悔した。本当に見ていなければ、頼まれていることを知らないままそのまま翌朝まで眠って、「ごめん今気づいた!!もう出勤時間には遅いね!」と言えるからだ。
嘘にはならない。
しかし、その日はそのまま見なかったことにしよう。と携帯電話の画面を閉じ、目をつぶったのだ。
翌朝起きたら、その連絡は送信取り消しされていた。


考えると、携帯の通知を確認した時にさっさと「ごめん、疲れてるから明日はシフトに入れない」という旨の連絡していればこんなにも引きずることはないはずだった。
気づいていないフリをすることで、物理的に「行けない」状態にすることによって、責任から逃れられる。
行きたくないから「行かない」選択をしたとなると、悪者が自分になるからだ。
遅い時間に連絡をしてきた彼女の責任に仕立て上げているようなものだ。

自分で自分の人生の舵取りをしたくないという逃げなのだろうか。
書きながら眩暈がしてくる。

本当は私たちどちらのせいでもないのにね。
元はといえば、忙しすぎるお店を作ったオーナーが悪いんだ。そうだそうだ~(口が裂けても言えない)

結局、後日彼女には返信しなかった旨を謝っておいた。
私が謝ることじゃないのか、どうなのか。分からないが、
むしろスルーしていた方が相手にとって気持ちが良いまま日々を過ごせたのかもしれない。
だけど、本心から行きたくなかったから連絡を無視した、という事実を黙ったままその子と交友関係を続けるのは、私の倫理観にそぐわない。見て見ぬふりをしたという事実がいつまでも怨念となって残りそうな予感がして、良心の呵責に耐えかねたのだ。
良くも悪くも、馬鹿正直という言葉がぴったりだ。

▼自分を大切にするむずかしさ

どれもこれも、さっさと断ればいいだけの話で、何をグズグズしているのか、相手に良く思われたいという欲望が自分を苦しめる。

自分のことを大切にするというのは一筋縄ではいかない。
会いたいと思う人にだけ会って、会いたくない人にはなるべく会わずにすませようだって?
会いたい人か会いたくない人かを分けることは、人を評価しているということだから失礼なことではないのか?
本当は自分だって他人のことを評価したり取捨選択しているくせに、高潔で平等主義な人間なフリをする自分も胡散臭い。

それに、会いたくない人に「あなたには会いたくありません。」と伝える勇気はどこから湧いてくるのか教えてほしい。と村上春樹に直談判したくなる。
そもそもその人に会いたいか会いたくないのか、本心がどちらなのかさえまず分からないというのに。

▼アダルトチルドレンらしさ

この辺りが非常にアダルトチルドレンらしさを表している。

アダルトチルドレンというのはとにかく「自分がどう思うか。どうしたいと思うか。」を聞かれて育ってきていない。
どうしたいのか?に意識を向けた経験があまりないので、願望が行方不明なのだ。

私にとって、どうしたいのか?の解答は、ほぼ常に「目の前の人が望む答え」になる。
目の前のその友人を喜ばせることが、最も優先される事項だからだ。

自分が他人の期待に応えられないことで相手にがっかりされると心から傷つくし、間違えた答えを提出して、ショックを受ける痛みは身をもって知っている。

「お母さんのいうことを聞いて、あなたいい子ね」

この人の希望にそぐう自分でいなきゃ。
この人からも愛されなかったら私は終わってしまう、この人を逃したくない。
それが望んでいない約束を取り付けてしまうカラクリだ。

見捨てられ不安が常に心の中を渦巻いている。
いつの間にか相手に合わせることがスタンダードとなり、
相手の希望に寄り添うように自分の願望を捻じ曲げていることにも気が付かない。
自分の意思を伝える行為には恐怖さえ伴うようになる。
口は重たく感じ、本心は見つける事すら困難になる。

自分軸と他人軸の区別も出来やしなかった。
自分軸だと思っていたことが実は他人軸であって、
喜んで相手に合わせていると思えば、
それが断れない呪縛となって苦しみに変わっていたのだ。

▼解決策は存在するのかー本当に変われるのか?

解決策は存在するのかーー
自分を大切にすること、インナーチャイルドを癒すこと、トラウマをヨーガで克服すること。。
気になる本を片っ端から本棚に積みあげてはタイトルを眺めるだけで満足しているが、
今のところこうじゃないかと思う解決策は、その人にとって本当に大切にすべき人生の目的を明確にし、それを最優先事項において行動することなのではないかと仮定している。

僕はもともと人付き合いの良い人間ではない。どこかで本来の自分の在り方に復帰する必要があった。

ここ最近の私は、自分を大切にしよう運動の効果か、
自分にとって「書く」、つまりは自分と向き合うこと、が少なくとも人生において価値を感じる重要な事項であると感じられるようになった。
そのための時間を毎日必ず取るようにしており、思うようにいかないときはイライラして、何かに当たりたくなる。


その人にとって本当に大切にすべき人生の目的
本当に変わりたいけれど方法がわからない、具体的にどのように行動すればいいのか教えてほしい。
という声が上がりそうだ。
私にもまだまだ実験中だけど、八木仁平さんという方のYoutube動画を参考にここ一か月行動してみている。

自分の心の声に従うこと、昔好きだったことをやってみること、ついやってしまう得意なことを手段に、人生で大事にしている価値観に伴う自己表現をすること。
簡単にできる事ではないので、是非動画をご覧になって試してみてほしい。
なかなかいい方向性に進んでいるのではと我ながら実験のポジティブな影響を感じている。


人当たりもよく、周囲から愛され、優しさに満ち溢れたように見える私の
本当の素顔は、間違いなく一人行動を愛する狼だと思う。
小学生時代から決まって登下校時のひとり静かに物思いにふける時間が好きだった。

何にせよ、好き、嫌いは別にして、人生において限られた時間とエネルギーをどのように使っていくのか。
自分にとって重要である人生の目的に沿った生き方をすると決めるのは他でもないあなた自身である。

ただしこういう生活をしていると、ナイトライフみたいなものはほとんどなくなってしまうし、人づきあいは間違いなく悪くなっていく。腹を立てる人も出てくる。どこかに行こう、何かをやろうという誘いがあっても、片端から断ることになるからだ。
ただ僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先事項というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。
僕の人生にとってもっとも重要な人間関係リレーションシップとは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。~中略~
「みんなにいい顔はできない」、平ったく言えばそういうことになる。

『走ることについて語るときに僕の語ること』 by村上春樹


生きづらさから抜け出す挑戦は、際限がなく、もうやめてしまいたくなることが多々あると思う。

そんな時はしっかりその苦しみを受け入れて、自分を抱きしめてあげてほしい。
ここに開拓者がいます。
胡散臭い言い方だけど、自分の捉え方次第で人生は変わると思う。

一緒に頑張りましょう。

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