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埋もれるマネジメントの才能

ピーターの法則と呼ばれる組織構成員の労働に関する社会学の法則がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

これによると

①能力主義の階層社会では、人間は自身の能力の限界まで出世する。
②限界を超えたところまで出世すると無能になる⇒皆限界を超えたところまで出世するので、組織はやがて無能な人間で埋め尽くされる。
③組織の仕事はまだ出世の余地のある人間によって遂行される。


というものだ。
周りに事例が思い浮かぶ方も多々いるのではないだろうか。
幸福になるために一生懸命仕事をして出世しても、最終的に無能になるというのは何とも皮肉な話と言える。

出世してマネジャーになるということは、一兵隊として弾を撃ちあうような戦場から逃れて詰め所で指揮をする人間に変わる、つまり業態転換をするということと解釈できることは先に述べたとおりである。

兵隊として優秀でも、指揮官として優秀かどうかは別問題なので、この業態転換に適応できないと多かれ少なかれ能力とやることのミスマッチが発生する。 ⇒ 無能になる。
しかしながら、”明日から指揮官だ”と言われてもキレイにスパッとは切り替えられない。
どっちつかずの期間が必要である。
一般的な係長あたりの階層は、この業態転換の慣らし運転期間といえるだろう。
すなわち係長あたりの階層では、兵隊としての戦闘もこなしつつ、指揮官としての技量、能力を高める必要がある。

さて、一般階層から出世して上の階層に上っていくようなモデル、能力主義の階層には明らかに欠点があると思われる。

いくらマネジメントの才能があったとしても、一般階層で成果を挙げなければマネジメントになることができない という点だ。

一般的な会社組織では首位打者、エースストライカーでなければキャプテン、監督になっていくことができない。
一方で実際のスポーツの世界では、選手として最も優秀な人物でなくてもキャプテンに選ばれるし、監督にだってなれる。
学校の部活動でも、キャプテンは最もリーダーシップのある人物から選出することが多いのではないだろうか。
最も上手な選手がキャプテンに選ばれるとは限らない。

それなのに会社では一般階層で成果を挙げることが出世への第一条件だ。
なぜだろうか。
これにはいくつかの理由が挙げられると私は考えている。

①出世と賃金の上昇をセットにしているから
出世と賃金の上昇をセットにしている以上は、一般階層で最も優秀な成果を挙げたものを一番に出世させなければ、生み出した価値に対する報酬として賃金で報いるという前提が崩れてしまう。
一方でプロスポーツでは必ずしもキャプテン、監督が最も高い賃金を得られるわけではないので成果とリーダー・マネジメント業を一致させる必要がない。
部活動に至っては無報酬なので最もリーダーシップに優れた人物をキャプテンにすることが容易だ。
私が思うに部活動の組織の仕組みは実に合理的である。

②マネジメントに必要な信頼を過去の実績で担保しているから
マネジャーがマネジメントを円滑にするにあたって、チームメンバーとの信頼関係があるに越したことはない。
マネジャーはチームメンバーのそれぞれの仕事に焦点と方向性を与えることが役割であるが、与えられる側のメンバーがマネジャーの言うことを信頼できなければ、焦点と方向性に従った仕事をすることは難しい。
よってマネジャーとして信頼に足る人物であることを何らかの方法で担保する必要があるが、そこに過去の実績を持ち出すことはとても話を簡単にする。
要は人事部や人事権を握る上司がほかのメンバーに説明をする際に過去の実績を持ち出すことができるため、楽をできるのである。

こうした理由で、多くの会社組織では埋もれたマネジメントの才能に光を当てることなく、逆にマネジメントの才能がないかもしれない社員をマネジメントとして出世させる という仕組みになっていると思われる。
実に合理的ではない。

埋もれるマネジメントの才能を開花させるためには、

・出世と賃金の上昇をセットで扱うことをやめる
・マネジメント教育を行い、マネジメント適正を資格などで表現することで、判断の正確さ・焦点と方向性の与え方の正しさなどを担保する

といった施策が考えられる。
私見だが、マネジメントと一般階層の実務は単なる役割分担という認識にして、給与は生み出した価値に応じて配分する、という仕組みの方がよほど効率がいいのではないかと思っている。
今後もマネジメントの才能を見出すうまい仕組みを考え続ける必要がありそうである。


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