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「村社会」と「学習する組織」は似ている?

「村社会」というとどんな印象を持つでしょうか。
アットホームで和気あいあいというイメージもあるかもしれないし、一方で排他的でよそ者を受けつけず、忖度で成りたっている…のようなイメージもあるかもしれません。

「わが社の常識は、世の非常識」のような言葉もときどき聞かれます。大企業に多いです。自分たちの論理だけになっている内向きな文化をさしています。縄張り意識とでもいうのでしょうか。問題になっている”派閥”もそうした意識の表れです。

とはいえ、これをもって「村」を一概にネガティブなものとして捉えるものでもないだろうと思います。村には、コミュニティとして機能するための「人づきあいの知恵」があります。

村の社会学という本からの引用です。

自然とも仲良くし、ほとんど「つとめ」の気持ちで、仲間とつきあうことなのです。それは長い代々をかけて獲得した「われらは〝共に〟生きている」という事実認識であったのです。それを発信しつづけているのが村なのです。村は「能率の悪い農業生産をしているところ」という新自由主義的な理解だけで済ませたくないものです。

『村の社会学』鳥越皓之(2023)筑摩書房

村は、たとえば治水など、自然の恵みや時として災害などをマネジメントするための共同作業があります。それを「つとめ」という言葉で著者は表現しています。

私の地域の自治会でもゴミ拾いの活動があります。強制参加ではないけど、参加していないとなんとなく肩身が狭いものです。ときとして、「あの家はいつも来ない、不公平だ、持ち回りのルールにすべきだ」のような意見も出てきます。このようなとき、参加しない人を責めるのではなく、「参加したあなたのおかげできれいになったよね」と年長者が言うことでコミュニティが機能します。それが村というコミュニティです

さてここで、村ではなく、会社というコミュニティに話を移します。
「学習する組織」という言葉があります。一人ひとりの強みを活かしながら、学びあい、かつ、それによって社会に貢献していこうとする目的感を持った組織観です。

対比的にでてくるのが「管理する組織」です。管理する組織は「管理」の言葉通り、キッチリしています。効率的で経済的合理性が高いです。ルールや標準化が意識され、誰がやっても同じになる、そのような意味で事業の継続性があります。ただ、個々人の顔が見えないとでもいうのでしょうか、どこか無味乾燥です。これでは、活き活きとした働きぶりにならない。つまり、原動力に乏しいのです。

上述の『村の社会学』には、「交換不可能性」という言葉が出てきます。村のコミュニティを成り立たせているのは、「つとめ」への参加によるフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションです。結果として、互いの性格や強みや弱みなどがよく分かります。だから「力自慢のあいつが適任だろう」のような暗黙の了解があります。結果として、個性が活きているものの、「その人以外では務まらない」のような状況にもなっています。

村の場合は、台風のような自然の猛威と共生するという明確な目的があります。そして困ったときは長老に従えば良い。なぜなら、台風の対処の仕方を熟知しているからです。

しかし、現代の会社はそうはいかない。外部環境の変化は激しくて速く、予想外の危機が訪れます。そこで、学習する組織は、何を事業の目的とするか、我々は誰の役に立とうとしているのかを明確にします。そして、長老の知恵だけでは対処ができないので、互いから学びあい、互いに助け合っていくのです。

これが自然発生的に成り立っていくことを「学習する組織」というコンセプトに期待してしまうのですが、それではマネジメントになりません。経営者やマネジメントチームとして、狙ってこの文化をつくることが求められます。ポイントは、事業の目的を明示することと、「つとめ」を振返って互いの価値観、強みを理解しあう対話の場です。自分たちの組織が、村社会的なのか、管理で成りたっているのか、学習が十分できているのか、この機会に見直してみてはいかがでしょうか。

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